第6話

06▼ 傅役(もりやく)・傅(かしず)き鍛える


 その夜、家康は深い眠りにおちた。丑の刻というから夜中の2時前後のこと。

「火事だあ!」

 という怒声に起こされた。皆が寝静まってから気づいた火事は、火の手がひろがった末に発見されることが多いから大きな被害が出る。その火事もすでに家康の寝所がある主殿にまで襲いかかっていた。近習にせかされて家康は裸足で逃げた。大門まで行くと侍たちでごったがえし、背中に火をかぶった婢女(はしため)や怪我をして歩けない郎党が何人も倒れていた。

「重勝、門をあけーィ」

 家康はみずから怒鳴った。重勝とは松平大隅守重勝のことで徳川家の大番頭を務めたこともある重臣である。重勝はこのとき大門の守りの司だったにもかかわらず姿がなく、どのような手違いからか大門もひらかなかった。

 そのとき村越茂助(もすけ)がすっとんで来て中門(ちゅうもん)から避難するよう進言した。茂助が先を払い、近習に手を取られて家康はまろぶような恰好で急いだ。途中、近習が、大御所のために誰か履き物を差し出せと叫んだが応じる者はいなかった。誰もが裸足で逃げ出していたのである。

 這々の体で家康は中門へ辿り着いた。だが、そこも不気味に光っていて、火の手が近づいていることを示していた。臥せっていた身に夜半の避難はこたえる。激しい戦場を通ってきたのだから火事くらいでと思いつつも、躰がいうことを利かず家康は膝から崩れかけた。そこへ竹皮で編んだ草履を差し出す者があった。

「大御所さま、おみ足に」

 家康は崩れかけた身体をその者に預けた。顔を上げると信吉の顔がくっつくようにあった。明るい光も火の手ではなく、中門へ誘導するために設けられた多くの高張り提灯の明かりだった。その提灯に沿って屈強そうな男どもが隊列を組み、非難する者を励ましていた。中門の守りの司は信吉であった。冬は火災が起きやすい。それもたいがいが寝静まってから気づくので死傷者も出やすい。信吉はそれを考えて日ごろ配下の者たちを訓練していた。

 この火災で多数の婢女や侍が死んだ。太閤秀吉から進ぜられた二つとない茶壺や、岡崎正宗入道の名刀、書画や笛の名品も炎に消えた。火元は分からなかった。火を扱うといえば煮炊きをする厨(くりや)だが、家康が住まう城では火の要心と食材に毒を仕込まれるのを禦(ふせ)ぐための不寝番がいたので火元になることは考えにくかった。城中では主君と奥方以外は火鉢さえ用いることが許されなかったし、たとえそこから発火したとしても近習がいるので、このような大火事になることはない。考えられるのは、どこかの部屋で有明行灯の扱いをまちがったか、ひそかに火鉢を用いたところから蒲団に火が移ったかであるが、けっきょく分からなかった。

 とはいえ、不明で済ませるわけにはいかない。重職らが罰せられた。そのうちの一人は大門の司にあった松平大隅守重勝である。緊急時に大門の開閉ができないなどということは論外だった。家康は外面をかまわずこっぴどくなじった。あとで聞けば重勝は数日前から具合が悪く臥せていたため、番兵に適切な指示が出せなかったということだったが、

「日ごろの備えが悪い」

 と家康は赦さなかった。重勝に附属して現場をあずかる中堅の侍に対しても叱責した。

「大隅の許可がなければ動けないというのでは子どもと同じだ、心中に賊が巣くっている」

 重勝ら二人は謹慎処分になったが、被害から考えればまだ軽かったといってよい。咎められたもう一人は城中取締の任にあった平鍬(ひらくわ)主水(もんど)である。家康は火元が分からないことの重さを説いた。火元に心当たりの者はいようが、そこもとに信頼がないから告げてもらえないのだ。火元が分かれば今後の対処もできるが、分からずじまいでは皆の衆に「気をつけよ」という薄っぺらな訓戒をあたえるだけで了(おわ)り、家臣たちを疑心暗鬼にさせるだけである。

「その責任は重い。主水が火をつけさせたに等しい」

 そう忌ま忌ましそうに告げ、役職を剥奪し蟄居させた。大禍をこうむった駿府城だったが、3ヶ月後には修築した。修築が成るまで家康は焼け残った建物を仮御殿にしてすごした。火災の始末が一段落すると、信吉は御前に呼ばれた。

「信吉、今度は許さぬぞ」

 といわれ信吉は何のことか分からずじまいで平身低頭した。

「六尺(りくせき)の孤(こ)を託(たく)すべく――という章句を知っているか」

 家康のことばが頭上にふった。信吉は答えた。

「論語の一節かと存じまするが、無能ゆえそれ以上は」

 六尺の孤の六尺とは、年齢とする説と背丈とする説とがあるが、双方とも子どもであるという解釈は共通している。孤とはこの場合、親を亡くして孤児となった若君のことをさしている。この一節は、

 ――幼くして親を亡くし孤児同然になった若君を託すことができ、大藩のまつりごとも任せることもでき、且つ国の大事に当たっても志を枉(まげ)ずにいることができる者、そういう者こそ、真に信用できる人物である。

 という章句の中の一部分である。

 家康はこのことばをもって、信吉を六尺の孤を託すに足ると信頼し、家康の11男で将来があやうく思われる頼房に附属させる、つまり頼房のそばで仕えさせることにした。

 今度は許さぬぞとは、刀泥棒のときのように遠慮して逃げることは許さないという諧謔をからめた家康の強い意志だ。信吉も今度ばかりは、そのままうけたまわった。

「命にかけて、頼房さまにお仕え致しまする」

 それから1年後、信吉は正式に頼房の傅役に任ぜられ1万石に加増された。傅役とは傅き育てる教育係である。八王子城で負け戦さの責任を取った武将の子であることを考えれば、幕府に取り立てられただけでも破格だが、将軍の子息の傅役に抜擢され、且つ1万石をたまわったというのは、いかに中山信吉が骨身を削って仕えたかである。1万石は大名相応だ。慶長13年、頼房まだ5歳、信吉31歳の頃であった。

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