第5話

05▼ 油断・心奥(しんおう)の賊


 関ヶ原の大戦さを経て、家康は、慶長8年(1603)2月、征夷大将軍に任じられ江戸に幕府をひらく。この年、日本橋が架橋され、水戸徳川家の祖となる11男・頼房が生まれた。水戸光圀の父御になる人物である。

 開府前後の年、家康は京都伏見と江戸をいくたびも往来し多端をきわめた。開府の前年から見てみよう。

 1月、伏見へ行く。5月、宮中に参内。諸大名に二条城と伏見城を修築させる。6月、現在のベトナム北部から交趾(コーチ)船が渡来し、孔雀・象・虎などが贈られたので受けとる儀式をおこなう。8月、イスパニア船、土佐の海で日本船と戦うが家康は捕虜を保護して返す。10月、江戸へ帰る。11月、再び伏見へ行く。開府の年の10月、江戸へ帰る。翌年3月また伏見へ行き、閏8月また江戸へ帰る。歩く速度が主体の時代、この往来はただごとではない。事ほど左様に江戸を留守にしなければならなかったので、直き家臣が留守を守ってくれなければ幕府など明日にも吹っ飛ぶ、家康はそう思っていた。

 家康が伏見城に駐在していたときのこと。直き者の尊さと無関心な者の怖ろしさを教える事件が起きた。中山信吉も随行して伏見にいた。ある日、信吉は廊下ですれちがった侍に不審をおぼえた。伏見城は現地詰めの者と江戸から随行していった者とが入りまじっていたから、知らない者がいても不思議はないのだが、何となく仲間ではないという感覚を皮膚がいだいた。信吉は男の行方を見守った。男は刀や槍など日常の予備武具を格納しておく小庫(こぐら)のほうへ行ってとつぜん消えた。信吉は忍び足で近づいた。庫の入口が小さくあいていた。城の中は昼間でも薄暗い。窓から陽が射しこむ場所ならまだしも、曇天や雨天ならば小窓しかない庫の中はほぼ暗い。信吉は中の気配をうかがった。暗がりの中で硬い物音がした。ほどなくして男は何本かの刀をかかえて出てきた。

「訊ねる」

 信吉はわざと横から飛び出して声をかけた。男は顔を引きつらせてのけぞった。

 ――盗賊だ。

 信吉は瞬時に確信し男の袖をつかんだ。男は躰を大きく振って反撃した。信吉はよろけた。男は刀をかかえたまま逃げた。信吉は背後から犬のように飛びかかり倒れざまに袴の裾をつかんで叫んだ。

「盗賊だあああー」

 男はかかえていた刀を信吉に打ち当てて、おのが腰の小刀に手をかけた。信吉は怯まなかった。先に小刀を抜いて迷わず男の腕を打った。鈍い悲鳴とともに男は倒れ、鮮血が床に飛んだ。そこへ他の侍たちが馳(と)んできた。

 男を問いただしてみると手馴れた刀泥棒であった。昨年に一度、今回で二度目の侵入だと白状した。当たり前のことだが城には予備の刀や槍、甲や鎧などの武具が仕舞ってある。登城してしばらく外に出ない年寄などは、小刀は腰から離さないものの太刀は小庫に預けておくこともあった。ということは一人の従者が何本もの刀をかかえて歩いていても理由がつかないことはない。城中をいかにも身内の者とでもいうふうに歩く度胸があれば、盗賊にとって城中は恰好の稼ぎ場所である。刀は高価だ。命を守る武士の面目玉である。いまの価にすると一振り数百万という代物も珍しくなかったという。だから戦さがあると百姓らが残骸から刀や鎧をあさったのである。

 刀泥棒の話は家康へ伝わった。一同が集められて家康の叱責をうけた。

「昼日中、盗賊がのうのうと歩く城を、城といえるか。城は旅籠ではない。志の集まる砦だ。その砦の中を賊にのうのうと歩かれては将軍の首を盗られたのと同じ、幕府を盗まれたのと同じであろう」

 そういって最後に、

「この緩(ゆる)みはおまえたち自身の中に、刀泥棒より巧妙な賊がひそんでいるということだ。誰か云い訳をしてみろ」

 と迫った。むろん抗弁できる者などいない。不気味な沈黙のあと信吉の名が呼ばれた。

「これへ」

 と近習(きんじゅ)がうながした。信吉は居並ぶ皆のうしろから恐るおそる膝で進み出た。家康は、信吉のこのたびの働きは主君の生命(いのち)を守ったのと同じ功績であるとして称讃した。

「取らせる」

 家康の一言に、信吉は畏まって答えた。

「皆が馳せつけてくれたお陰であり、一人で褒美を頂戴するわけには参りませぬ」 そのとき家康は別のことでも苛立つことをかかえていたため、固い息のかたまりをフッと吐きだすと、

「面倒な奴め」

 といって去った。信吉20代後半の出来事だった。

 家康は忍従に忍従をかさねて武士の最高位・征夷大将軍を手にしたが、その職を予定していたかのようにたった2年で手放す。慶長10年、家康はまた伏見に行き、朝鮮国使を引見して本多正信と僧侶西笑(さいしょう)承兌(しょうたい)に秀吉のはじめた朝鮮侵攻後の和解交渉をさせ、息つく暇もない1ヶ月後、将軍職を3男秀忠にゆずった。最高位を離れた家康をどのように呼ぶのがよいか――悩んだ末にまわりが編み出したのが「大御所」という呼称だった。大御所ということばには、将軍よりも位をさずける朝廷よりも何となく上位というひびきがある。この、ひびきがある、というところが肝腎だった。家康もその呼称を是とした。

 名目は秀忠にゆずったが、実権は家康の手中にある。まさしく大御所であった。幕府をひらいたとはいえまだ基礎固めも終わっていない。依然として伏見へ行き朝廷との間合いを計り主要公家を押さえること、諸大名の動静を見つつ働きに応じた官位をもらいうけてやること、西方大名に対する睨みを緩めないこと等々、為(な)すべきことが山になって襲いかかってきていた。

 そのあいだに大名らに課して江戸城を増築させ、隠居所駿府城も修築させるという離れ業もやった。駿府城の修築がなると家康は江戸から住まいを移した。隠居老人家康には閑暇(かんか)強迫症のようなところがあって、思い出したように江戸へ行き、新将軍秀忠に訓辞しなければ落ちつかなかった。ある時には信吉を帯同し、もう何年も前のことになる伏見城の刀盗賊の話を持ち出して秀忠に訓戒をあたえた。

「外から侵入する賊より家臣の心奥に巣くう賊のほうが始末が悪い。外の賊と内なる賊の両方を一挙に捕縛したのがこの中山信吉だ。こういう者を左右(そば)に置かねば幕府など嵐の夜の桜花だ」

 信吉は畏れいって身をちぢめた。

 そんなこんなで2ヶ月が経ち、家康は信吉を従えて師走に駿府へ帰った。駿府に戻って安堵したせいもあるのか、家康の表情に疲れが見えた。師走の冷えが廊下から部屋にまで忍びこみ老人の背中を丸くさせた。

「躰が痛む」

 そういって家康は昼間から寝床へもぐった。無理もない。新幕府の屋台骨を堅固にするため、この何年かの内に江戸と伏見、駿府と江戸の間を何度も往来し働きづめだった。60代半ばの躰が悲鳴をあげるのは当然だった。

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