第4話

04▼ 堅塁(けんるい)・それは直き者


「敵ながら天晴れ至極」

 一段高くなった座から家康がいった。

「おまえも父親に似て小童(こわっぱ)ながら剛の筋らしい。見つかった時の話を聞いたぞ」

 怖ろしげな声を出す老人のことばを聞いて、信吉はどのようにころされるのかと思った。

「打ち首でございますか」

 信吉は臆せず訊いた。

「聞かされておらんのか」

 家康はいぶかしげな視線を送り返して、その視線を本多正信のほうへ移した。正信は家康のもとへ寄ってささやいた。

「この者がどのような振舞いに出るのか見るのも一興と考え、何も伝えず連れてきました」

 家康は片頬をゆるめて、

「佐渡も意地が悪い」

 と茶化した。そうしてから改めて中山勘解由(かげゆ)家範(いえのり)の忠臣ぶりを褒め、

「死んだ父親の代わりにおまえを家臣にしてつかわす」

 と明かした。少年の躰がふるえた。物の怪にだまされている、さもなくば見てはならぬ夢だ、少年はそんな惑乱におちた。

 その様子を二人の老人は犬か猫を愛玩するかのごとく見守り、本多佐渡守正信が、江戸城主徳川家康公の御前でおのれの出自を述べよと命じた。信吉は床をつかむようにして這いつくばっているのに、躰が風に翻弄される木の葉のようにぐらついて儘ならならなかった。それでも、八王子城で死節(しせつ)した父を思うと、ここで辞(ことば)の碑(いしぶみ)を打ち立てなければならないという気概が湧いた。

「武蔵七党、丹党が一派、武州中山村に居をおく加治一族を本とし、後北条氏・北条氏康殿に仕えた中山家勝の子にして、八王子城主・北条氏照殿の家臣・中山勘解由家範が第二子・信吉にござりまする」

 これが信吉の名乗りであった。ちなみに後北条氏とは小田原北条氏と鎌倉時代の北条氏とを区別するための呼称である。後北条氏は北条早雲を初代とし、二代を氏綱、三代氏康、四代を氏政が継ぎ、その弟氏照が八王子城のあるじとなった。中山家範は氏照の重臣だった。

 家康は少年の必死の口上を遠くの音でも探るかのような表情で聞いた。そのむかし、家康も織田や今川のもとへ人質に出された。目の前の少年よりもっと幼かった。あの頃、家康も初めて逢う人ごとに口上を述べた。それを脳の奥の遠いかなたで思い浮かべていた。家康は視線を正面に戻すと、告げた。

「おまえに、おまえの父祖伝来の土地・武州中山村をやる」

 信吉の耳は老人の声を確かに聞いた。しかし、脳がことばの意味を解(かい)せなかった。正信に説明されてようやく意味が分かったとき、信吉の目から熱涙が落ちた。その姿に温かな視線を送って、家康は立ち上がった。信吉がうわずった声を発した。

「お願いがござりまする」

「まだ何かあるのか、面倒な奴だな」

 と正信が制止しかけたが、信吉は勢いこんで口を切った。

「中山の地は――」

 兄照守にやってほしいと願い出たのである。兄は死んだと嘘をついていたのにだ。

「殺されると思いましたゆえに、兄だけは生き延びてほしいと方便を用いました」

 信吉はぬけぬけとそういい、自分は兄に仕えるので領地は要らないと、頭を床にぶつけるように這いつくばった。家康は呆れて、

「佐渡――」

 と正信のほうに詰問の視線をおくった。

「小童のいうことゆえ信じてしまいました、兄のほうは死んだとばかり、正信不覚」

 佐渡守正信はおのれの頭をこづいた。家康はそれに片頬をゆるめた。

「照守には別の所をやる、中山はそのまま、おまえだ。いちど決めたことは変えられぬものぞ」

 領地は天からの預かり物。そこには大地から実りを生み出す民百姓がいる。民百姓を抜きにして、おまえの兄弟の事情であっちだこっちだと決められることではないと家康は諭した。信吉は畏まった。

「中山信吉、御(おん)徳川公の大恩を忘れず末永く仕え、剛にして直き者になれ」

 正信がそういい添えると、家康は顎をしゃくってその場の決まりをつけた。それを合図に信吉がその場をさがった。正信は改めて家康に問うた。

「兄弟二人、中山一村でよかったのでは」

 家康は首を横に振った。

「兄が喰われる」

 正信は噫(ああ)と合点した。あの兄弟を一緒にしておけば、しだいに弟の非凡さが際立つ。すると周囲が照守をあなどり信吉をあおる。そういう中には無責任に人心を揺さぶるのが好きな者がいて騒動の火種をつくる。そのような所に若い兄弟をおくのは火打ち石を抱かせて火薬庫に入れるに等しい。よって領地は別がいい。これが家康のいわんとするところだった。

「才あるも才あらざるも、おのおの我が家臣と思えば、すなわち棄てずじゃ。皆、使い方次第。そなた自身が身に染みていよう」

 家康はそういうと背を向けた。正信は胸中を打たれてアッと声を挙げた。

 ――そうだ、それがしも、あのとき棄てられなかった。そしていまもまた周囲の悪評を押して用いられている。

 本多正信は三河以来の家臣だが、若いころ一向一揆側について家康に楯突いたという話は前にした。だがそれが許されてからはずっと家康の側近として幕府中枢に席を得ている。だが同僚評はかんばしくない。評の多くはやっかみや古傷をえぐるもので、まことしやかな作り事まであった。家康はそれら悪評を承知して正信をそばに置いている。それは、

 ――噂は噂する本人が得するように発せられる、

 と思っているからだった。

 また、正信を信頼しつづけたもう一点は、正信が果実を求めないところにあった。正信の禄高は案外に低かった。相模国玉縄(たまなわ)藩主として一万石から二万石をもらう程度だったのである。加増をみずから断っていたという。嫡男の正純(まさずみ)にもその種の話をしている。

「おまえの代になると加増の話が出るだろう。だが3万か4万石までは良しとしても、それ以上は遠慮すべきだ。多く頂戴してよいことはない」

 にもかかわらず、正純は二代将軍秀忠の代に宇都宮藩15万5千石を拝領した。その末、秀忠の勘気に触れて出羽へ流されることになるのだ。その知力をもつ正信が、縁のある土地とはいえ、敵の残り子である信吉に武州中山村をさずけるのは過分ではと異議を唱えなかったのは、信吉少年にそれだけの価値を見出していたからである。正信は親のいない信吉を終生かわいがった。信吉はその正信の支援を得て家康の左右(そば)に侍(さぶら)うことになった。併せて兄の照守も徳川家に召しかかえられた。

 他方、家康を関東に移封(いほう)させて安堵した豊臣秀吉は、甥の秀次に関白をゆずって、みずからは太閤の尊号を得、気力益々さかんにして兵を朝鮮半島へ向けた。しかし結末は這々(ほうほう)の体(てい)で撤退。結果、気力もなえて、日吉丸から太閤にまで這いのぼった秀吉は没した。

 それから2年後の慶長5年9月15日、いまの暦でいえばちょうど1600年10月21日、石田三成と徳川家康の双方が諸大名をまきこんで美濃国不破関ヶ原で雌雄を決する。もみじ葉が飛ばされ、小鳥が深山にかくれ、地べたの虫が右往左往した。大戦(おおいく)さであったにもかかわらず勝敗はたった一日で決した。勝ちは東軍の徳川方が拾った。小早川秀秋という小僧っ子大名が西軍から東軍に寝返ってくれたからだというのが世評にのぼった。秀秋は秀吉の義兄の子である。いかな怏々(おうおう)があるにせよ大坂方に義理がある筈だが、それがひょいと寝返った。

「どういう考えか、節操もなくなあ、怖ろしいことだ……」

 秀秋の寝返りで勝者になった家康が、そう独りごちた。敵を裏切らせるのも戦術の一つといえば一つだが、それも度を超すと味方の信頼がぐらつく。長く付き合うには、多少融通は利かなくても生(き)一本な男がいい。家康は勝ったという愉悦はまったくなかった。人の心に巣くう枉(まが)れる虫に戦慄をおぼえた。

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