第2話

02▼ 血沫(ちしぶき)・勘解由(かげゆ)家範(いえのり)の死


 八王子城への攻撃は豊臣勢のもとで北方軍を構成する前田利家・上杉景勝らが当たった。そこに家康の別働隊も加わったから盤石の態勢である。秀吉の攻撃は見せる戦法からはじまる。遊山のごときも一夜城のごときも、また備中高松城を水攻めしたのもいわば見せる戦法であり、劇場型戦法といってもよい。見せる戦法は財も労力もかかるが闇雲に兵を殺すより増しというのが、信長から猿の綽号(しゃくごう)をさずけられた秀吉の思いだった。信長がその晩年にいったことがある。

 ――おまえは猿は猿でも猿神(ましら)だ。剛の勝家や智の光秀のようにはなれないのだ。それを一人前になったなどと勘違いすると地獄へまっさかさまぞ。

 信長のこのことばは秀吉にとって至上の褒美であった。よって猿というのはいま秀吉の誇りで、この小田原征伐でも曇りのない猿芝居をしている。

 秀吉の意を受けた前田利家は北方軍の筆頭として、いま急峻な地に立つ八王子の砦を見上げながら考えている。

 ――たしかに金剛堅固な砦だ。だが前田と上杉、それに徳川の旗印を見て中の者はふるえていよう。だいいち城主北条氏照(うじてる)は小田原へ加勢に出ばって留守だ。残っている兵数はわずかな筈、いわば留守城。干飯(ほしいい)でもかじっているうちに降参してこよう。

 だが降参してくる気配はなかった。堪えきれなくなった上杉兵が小競り合いをしかけた。しかし、巧みな応戦にしてやられて一角も崩すことができなかった。矢は計算された高い位置から勢いをつけて放たれ、砦の法面(のりづら)に取りつこうとすると石や熱湯・糞尿まで落とされた。橋を渡りかけた一団は橋の板を急に曳きぬく仕掛けで谷底に落ちた。どうやらそれらを土地の百姓らが協力してやっているらしかった。

 ――この砦には種々の仕掛けがあるが一番の仕掛けは民(たみ)百姓のようだ。干飯などかじっている場合ではない。

 利家はそう思いつつも、すぐには勝負には出なかった。まず上杉の小競り合いをやめさせ、城中へ使者を送った。

 ――無駄死にせず、降伏して出て来い。

 しかし使者は戻って来なかった。斬り殺されたのであろう。利家はそこで仕方なく自軍の兵を突入させた。上杉と徳川勢には脇をかためさせた。北条の軍兵(ぐんぴょう)は執拗に応戦してきた。その執拗さに利家がいささか辟易していたとき、敵の武将が一人で現れ内通したいと申し出てきた。利家はむろん受けいれた。男はべらべらと城中の様子をしゃべった。利家はほくそえみ、あとは家臣・青木丙六(へいろく)に軍兵の指揮をまかせて進軍させた。

 丙六が大手口にかかる城山川を渡ったとき、川面(かわづら)が急に真っ赤にそまった。上で多くの者が一挙に自刃したのであろう。滝の根っこまで行くと滝壺に女人の死骸が山をなしていた。さらに主殿(しゅでん)へ登ると絹物をまとった奥方連が血潮のなかに横たわっていた。なかには死にきれず地獄の呻き声をあげている女人もいたので、早く殺してやれと丙六が軍兵に命じると、さすがの猛者も女を刺すのはためらいがあったと見え、一瞬そっぽを向くようにして刃を振りおろした。

 八王子城におけるふだんの生活は主殿周辺でいとなまれ、本丸は急峻な山の上に置かれていた。つまりそこまで敵をおびきよせ疲弊させておいて叩くという造りである。しかし丙六はそのことを内通してきた男から聞いていたので、兵を休めながら本丸をめがけた。

 丙六が本丸を守る松木曲輪(ぐるわ)まで進軍すると、物陰から敵がかたまりになって襲ってきた。丙六の軍兵はそれを斬って斬って斬りまくった。たちまち城兵の骸(むくろ)の山ができた。が、丙六の兵も相当数が死に、丙六自身も深手を負った。丙六は痛みをこらえ、仁王立ちになって曲輪の奥を睨みつけた。その丙六を奥の板の間に一人端座して睨みかえす武将の目があった。男は死に姿かと見まごうほどに動かなかったが死んではいなかった。丙六も兵らも一瞬立ちすくんだ。男の唇が動いた。

「あるじ北条氏照さまに託されたにもかかわらず、留守を守りきれなかった者の、これが始末、よく見届けられよ」

 というや否や首に短刀を当てた。

「待たれい」

 丙六は思わず声を挙げた。

「われらもいつどこで野垂れ死にするかも知れぬ軍兵の一人びとり、名を伺っておきたい」

 男は息を大きく呑んで猛々しく吐いた。

「われは武蔵七党、丹党・加治一族を本(もと)とし、後北条氏(ごほうじょうし)・北条氏康殿に仕えし中山家勝が子にして、氏康殿が子息・八王子城主・北条氏照殿の家臣、中山勘解由家範である」

 この男こそ中山照守・信吉(のぶよし)兄弟の父親であった。家範はそういいきると短刀を首にくいこませた。流れ出る鮮血を下に置かれた大盃がうけた。家範はその生血をあおって口をどすぐろくそめると盃を空(くう)にほうった。大盃が回転して血が美々しく飛びちり硬い音を立てて落下すると、家範はさいごの力で首筋を深くえぐった。

 戦国の世にしても、自刃して果てた一人の武将が、これほどまでに敵方を圧倒した例はなかった。丙六が、

「皆の者、わが言につづけ」

 と雄叫び、

「中山勘解由家範、剛(ごう)にして直(なお)き者よ」

 と称讃すると、野太い男声(おとこごえ)のかたまりが、

「中山勘解由家範、剛にして直き者よ」

 と復唱した。その声と同時に青木丙六も崩れおちて死んだ。さながら戦場の能楽を見るようであった。

 中山家範など主な者の首級は小田原に陣取る秀吉の許へ届けられた。家範の凄まじい最期は豊臣の陣中にとどろいた。首検(あらた)めに何人かの大名も立ち会ったが、その中に家康もいて、

 ――勿体ない男が死んだ。

 と思った。その場で戦果報告もされ、八王子方の武将の中から寝返り者が出て助かったという話も聞いた。

 ――怖ろしきは裏切り者、尊きは直き者。

 家康は胸にそうきざんだ。

 八王子が落ちると秀吉はまもなくして小田原の本城を攻めた。和戦いずれかで小田原評定に暮れていた北条方は、八王子が落ちては術なしとあきらめ、秋(とき)を知った果実のごとく落下した。秀吉は八王子城主北条氏照とその兄で小田原の隠居北条氏政に腹を切らせ、小田原城主氏直は家康の娘婿であることに免じて高野山へ追放するだけで命は助けた。

 小田原征伐が済むと、秀吉は「関東はぜんぶ呉れてやる」と家康にいい、関東へ移封(いほう)した。体(てい)よく家康は追い払われたのである。

 その年の八月朔日(さくじつ)、家康は江戸城に入った。つづめて八朔(はっさく)と呼ばれるこの日は、新暦では8月下旬から9月下旬にあたる早稲の田が実る頃。「田の実」がみのることから、「頼み」がみのるということばを連想させ、日ごろ頼みとしている人に新穀物を送って感謝の意をあらわす風習が古くからあった。家康は縁起をかついでこの日に入城し、新しい領地における民草の平穏を祈った。領地の基盤を支えるのは田畑を耕す民草と、他国の侵入を許さない武士集団だということを骨身で知っていたからである。

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