光圀の信吉
鬼伯 (kihaku)
第1話 小序・宿怨の兵戈
(作者 鬼伯 kihaku)
01▼ 小序・宿怨の兵戈(へいか)
天正10年6月2日、明智光秀の胸奥にひそんでいた宿怨が兵戈に乗りうつって京都本能寺をおそった。本能寺に休憩していた織田信長はそこで絶命した。それを遠く毛利勢の一角である備中高松城を攻めていた羽柴秀吉が知った。秀吉は何食わぬ顔ですぐさま毛利と和を講じ、誰も考えなかった速さで都へ取って返し、13日には光秀を討った。
すると同僚・柴田勝家が秀吉に兵戈をむけた。勝家には織田家随一の家臣という自負があり、猿猴(えんこう)がごとき者が天下を取るのは許せなかった。秀吉はだが、この勝家も賤ヶ岳で撃破し腹を切らせる。威勢をつけた秀吉は石山本願寺の跡地に大坂城を築き、その威容をもって他を圧倒した。
秀吉の勢いに信長の次男信雄(のぶかつ)は危機を感じた。それで家康と組んで小牧・長久手で秀吉軍と兵戈をまじえた。織田徳川連合軍は長久手の前線では優位に立ったが、秀吉本隊が差しむかうと小牧への退散を余儀なくされた。家康は仕方なく次男秀康を秀吉の養子に出すことで政治的解決を図った。このことは家康に、
――少しばかり戦さに勝ったとて外交で負けては何にもならん。
ということを学ばせた。それは後年の大坂の陣で活かされることになる。
天正13年、秀吉は関白になり、翌年には太政(だいじょう)大臣に昇って豊臣の姓をうける。天下人になったのだ。他方、片づけねばならないこともあった。すでに長宗我部をくだして四国を平らげ、島津をおとして九州も平らげたが、陸奥の伊達と小田原の北条がまだ残っていた。伊達は押し出しはよいが所詮折れてくる弱腰。だが北条は小田原を根城にして関東一円に威力をもつ強腰。
秀吉は食いつく機会を狙っていた。
天正18年、その秋(とき)がきた。秀吉は大軍で小田原城を包囲した。諸大名も参陣し天下人の号令を待っている。娘・督(とく)姫を小田原城主・北条氏直(うじなお)に嫁がせていた家康も腹をくくって秀吉の旗下についた。案のじょう伊達政宗もばつが悪そうに遅参の弁明をしつつ参陣した。
陣立ては整った。が、秀吉はあせらなかった。北条がいかに剛の者とはいえ、これだけの大力(だいりき)を見せつければ、果実が秋を知って落ちるように降伏してこよう。そう算段できるのに兵を無駄に死なせてなるものかと悠々閑々とかまえた。
天下人秀吉は陣中で茶会を催し能楽に興じ女人を愛で、遊山のごとく待つことを楽しんだ。その一方で暗々裏、山中に砦を築き、某日、一挙に樹林をたおして砦を披露するという手練も見せた。太閤の一夜城といわれるそれである。遊山のごときも一夜城のごときも秀吉一流の北条に対する威嚇であったが、同時に味方に対する空恐ろしいほどの恫喝でもあった。それを最も強く感じ取ったのは家康である。
――小牧・長久手のときとは手強さの格が違う、猿猴の存命中はわしの天下は遠い。
秀吉が勢いだけで小田原城を攻めなかったのには別の深謀遠慮もあった。小田原を落とすだけでは北条の息の根は止まらない。北条の同盟城は関東一円にある。それらを別働隊をもって屈服させておかなければ、そこここで抵抗の火の手があがり始末が負えなくなる。なかでも堅固な八王子城は確実に片づけておきたい出城だった。
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