エピローグ
エピローグ 第一話
福岡に戻ってきてから、山田は
列車に揺られて車窓から外の風景を見ている。町と田畑、交互に風景が変わっていく。思い出に浸りながら、綿子のことを考えていた。
離婚したのは両親の都合だ。母親と特に仲が悪いわけでもなく、ただ単純に女の子は母親、男の子は父親という理由で、離婚後離れて暮らすことになっただけだ。
綿子とは双子と言うこともあってか、結びつきを強く感じていた。小学生までは似た顔立ちのせいか、お互い向かい合わせになると、鏡を見ているようだった。
山田は、どちらかというと内向的だったが、綿子は利発で明るい性格だった。
両親が離婚したあとも、綿子とは毎週のように会った。それが中学二年になると少しずつ会う回数が減っていった。中学二年から高校受験の準備を始めるので忙しい、と言われた。
それでもほぼ毎日SNSで連絡を取り合っていたから、山田は綿子の変化に気付かなかった。綿子は巧妙に私生活を隠していた。その時点で気付いていれば、綿子は生きていただろうか。
だから、綿子が夏に自殺したと聞かされ、山田はにわかには信じられなかった。海外赴任の父親は葬式に来られなかったので、山田は一人で綿子の葬式に出た。
白い花が飾られた立派な祭壇の前に綿子の棺桶が安置されている。
「お母さん、綿ちゃんと話がしたい」
山田の言葉に何故か母親は首を振った。
「なんで? 話がしたいだけだよ」
「だめ。できないの。ごめんね」
「どうして」
綿子の棺桶の窓には釘が打ち付けられていた。
山田は綿子が本当に死んだと思えなかったから、確かめたかったのに、顔すら見せてもらえない。
通夜と葬式が終わった二日目に、山田は福岡に戻った。
一人暮らしの家に帰る。「ただいま」という声が静かな部屋に響き、しんみりと寂しい。
寂しくて、山田は居間のソファに体育座りして泣いた。葬式で泣けなかったのに、一人きりになったら、綿子の分だけ空間が抜け落ちてしまったように感じて虚しくなった。
二ヶ月、三ヶ月と過ぎて、冬になった。
色彩をなくした冬と同じくらい、山田の心もモノクロに沈んでいた。
「ただいま」
誰もいない家の中へ声かけするのは寂しいけれど、無言で帰ると余計に寂しい。何ヶ月経っても、綿子の欠落から立ち直れなかった。
ある日、家に帰ってくると、部屋の空気がいつもと違う。異様に寒く、重たくて息苦しい。寒いはずなのに冷や汗が出てくる。体中がそそけ立つような悪寒が止まらなかった。
カーテンを閉め切っているせいか、やたら室内が暗い。カーテンの隙間から表の明かりや日差しが入ってきてもおかしくないのに、夜中のようだ。
恐る恐る居間に入る。
人の気配がする。あまりに生々しくて、ドキッと心臓が跳ねた。
だれかがいる。隠れているのか。
電気を付けようと、壁のスイッチをオンにした。電気が付かない。気付かないうちに照明が切れたのかもしれない。ダイニングに移動して、電気のスイッチを付けるが、これもうんともすんとも言わない。何度もスイッチをオンオフした。
ブレーカーが落ちているのだろうか。玄関に戻ろうとして、居間に背を向けたとき、いきなり背中にだれかが立った。
山田は一歩も動けなくなり、固まった。額にじんわりと脂汗が浮かんでくる。
背後にだれかがいて、息を吸って吐いて、それを耳に吹きかけてくる。
生臭い。
横目で背後を窺うが、暗くてよく見えない。
一体、何分、固まっていたか分からない。
居間の照明が、カチカチッと明滅する。電気が付くと言うことは、ブレーカーは落ちていない。配線に異常があるのだろうか。
電気がパチッと付いた。背後から照明に照らされて、廊下に自分の影が差す。息もしやすくなって固まった体が動くようになった。
気のせいか、なんだ、と安堵して、居間に戻ろうときびすを返した。
「ぎゃ」
短い悲鳴が息を吸うのと同時に、喉を突いて出た。
見覚えのあるセーラー服の少女が真後ろに立っていたのだ。
長い黒髪を垂らして、俯き加減で張り付くように佇んでいる。
山田は悲鳴を押し殺す。
目前の少女の頭は半分陥没して、真っ赤な血と薄いピンク色の塊が、髪と骨の間から覗いている。
ぽたっ、ぽたっと雫が垂れる音。
山田は足下に視線を落とした。
少女の血と脳みそが、血だまりの中にしたたり落ちている。
「いいいいい」
悲鳴とも唸り声とも付かないうめき声が、山田の口から漏れた。
視線をあげると、垂れた髪の隙間から見える唇が蠢いて、何か言葉を発している。なんと言っているか分からないが、どうしても目を外せない。
確かに唇はそう動いた。
羊ちゃん
山田は下半身に温かい液体がじわりと広がるのを感じながら、気を失った。
次に気付いたときにはすっかり日が暮れていて、小便を漏らして廊下に転がっていた。冷たい床板に横たわり、体の芯まで冷え切っている。
体中が強ばって痛い。あれは夢だったのか。けれど、小便を漏らしている以上、夢じゃなかったと思い知らされた。山田は背筋が寒くなるのを感じた。
あれは自分のことを「羊ちゃん」と呼んだ。自分を羊ちゃんと呼ぶ人間は、綿子以外いない。
そう思った途端、恐怖と絶望が心を裂いた。
「うー……」
呻きながら、山田は泣いた。
棺桶の窓が閉ざされていた理由が分かった。綿子が何故あんな姿で、今更自分の前に現れたのか、それは分からない。
ただ、分かるのは、やっと山田は綿子の死を理解したのだ。
綿子は戻らない。もう二度と。
それから、何年も、綿子は当時のままの姿で山田の前に出現した。いつしか綿子の背を抜いて、綿子を見下ろすようになっても、彼女は消えなかった。消えることが成仏すると言うことなら、綿子はいつまで経っても天国に行かなかった。
いつもサイレント映画のように、口をパクパクさせるだけで何を訴えているのか分からない。
強烈な姿を間近で見ては叫んでしまう。初めて遭遇したときのように漏らしたりはしないが、あのことはかなりトラウマになってしまい、いまだに綿子の姿に慣れないでいる。
時が経つにつれ、髪に隠れていた顔が無念と憎しみと恨みに歪んでいるのが見えるようになって以来、山田は綿子がものすごい恨みを抱いて死んだのだと直感した。
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