第八話

「これ、どうぞ」

「あ、どうも」


 籠の中のみかんからは悪臭はしなかった。温州みかんと同じ見た目なので、もしかしてと思い、山田は訊ねてみた。


「これは、三宅ミネラルみかんですか?」


 颯実そうまが笑顔で「そうです」と答える。


「そういえば、颯実さんもみかんアレルギーなんですか?」


 山田は、万智と爽果がアレルギーだと言っていたのを思いだした。


 すると、察したのか、颯実が笑った。


「父から聞いたんですか? 俺は父に似たのか、アレルギーじゃないんです」

「じゃあ、“橘の宝玉”は試食されたんですか?」


 颯実が苦笑いを浮かべる。


「いえ、俺は食べてないですね。山田さんは?」

「僕も食べてません」

「まさか、山田さんもアレルギーとかじゃないですよね?」


 冗談で言っているのか、いたずらっ子のような笑顔で颯実が訊ねた。


「あ、いえ……、その……」


 みかんは好きだが、“橘の宝玉”だけ臭くて食えないなどと余計なことを言ってしまったら、面倒な言い訳をしないといけなくなる。みかん全般食べられないことにしたほうがいいかもしれない。


「みかんは苦手で……」


 すると、父親によく似た残念そうな表情を浮かべて、持ってきた籠を持ち直す。


「じゃあ、りんご食べますか」

「あ、お構いなく」


 自分達は、家人が忙しいときに長居する客のようなものだと、山田は申し訳ない気持ちになった。


 突然のけたたましいコール音に、山田は驚いて、音のする玄関のほうを見た。


 颯実が慌てて廊下へ出て行った。


「はい!」


 緊張した声で電話を出たが、その後に続く声は穏やかだったので、知り合いか、もしかすると万智かもしれないと、山田は会話の内容に耳を澄ませた。


「ほんと? 良かった。わかった。うん」


 安堵するような声で受け答えしている。電話を切ったのか、しばらくして颯実が戻ってきた。


「爽果が帰ってくるそうです。どこも悪くなかったみたいで……。先生が見つけてくださったから、すぐに病院に連れて行けました。ありがとうございます」


 ぼんやりと何か考えている様子だった白が、夢から覚めたような顔つきで遠慮がちに手を二回ひらひらさせる。


「いえいえ、たまたまですよ」

「そういえば、なんで今朝、漁港にいたんですか」

「あー……、朝日が見たかっただけかな」


 白が嘘をついているようにも見えなかった。それに嘘をつく理由もない。ただ、なんとなく気になって、聞いてみる。


「ほかい様を見に行ったんじゃないんですか」

「うーん……、海水が浸ってて、岩場が歩きにくそうだったから見に行ってないよ」

「見に行こうとしてたんですね……」と、山田は心の中で呆れた。

「十三日以降、見に行く機会をことごとく逃してるから、日の出てるうちに見に行きたくて……。そうだなぁ、成継さんに頼んで、ほかい様をお祀りしているところを見学させてもらおうかなぁ……」

「秘儀って言ってなかったですか」


 白がくしゃっと髪をかき混ぜる。


「見たいなぁ」


 人の言うことをちっとも聞いてない。


 正直に言うと、山田も見たい。どんな悪霊や禍ツ神が封じられているのか、それとも乙女が封じられているのか、知りたいと思っている。封じ方を知れば、綿子の怨念だけを封じることができるかもしれない。


 白はできないと言ったけれど、綿子から怨念を切り離せば、また昔のように明るく優しい綿子に戻るかもしれない。


 あんな無念と恨みに歪んだ顔を見たくなかった。潰れた顔も元に戻るかもしれない。


 割れたスイカのような頭を、目と鼻の先で見たくないのもあった。どんなに綿子が好きでも、怖いものは怖い。


 それに、こんなに綿子が夢に現れることはなかった。何を言いたいのか、山田にはどうしても分からなかった。


 気になっているのはほかい様だけではない。今朝の祝詞の後、成継はほかい様のお祀りをしたのだろうか。いくら、今年から乙女にお祀りさせることにしたとは言え、この不測の事態において、まさか失念したはずはなかろう。


 毎年おこなっていたのは維継だ。引き継いだ成継が今年のお祀りを責任持っておこなわねばならない。


 さらに、おわたいの成功で、成継ははっきりと、「豊漁が約束される」と告げた。少なくとも振興会の人達は浮かれているだろう。


 成功したおわたいと度重なる死、幸と禍の二面性に、山田は不吉な予感を覚えた。




 表から、車のエンジン音が聞こえてきた。朔実が、万智と爽果を西山まで送ってくれたのだ。


 颯実が、急いで表に出た。ガヤガヤと楽しげに話をしながら、母子おやこが家に入ってくる音がした。


 山田と白も廊下に出てきた。


「お帰りなさい、お疲れさまです」


 労いながら、山田はぼんやりとした爽果に目をやった。


 意気消沈している様子だ。大雨の中、荒れ狂った海でひと晩耐え抜いて、すっかり疲れ切ってしまったのだろう。


「じゃ、爽果ちゃん。よじょ養生しろよ」


 そう言って、朔実が帰っていった。


 万智が爽果に肩を貸して、部屋まで連れていった。颯実も心配なのかあとに続く。


 山田は何もしてやれることがなく、何もできない自分のふがいなさを痛感しながら、居間のこたつに潜り込んだ。


時間薬じかんぐすり


 ぼそりと白が呟いた。


「時間が経ったら、爽果さんは元気になるって言いたいんですか?」

「それ以外に、何か良い方法があったらいいけど」

「元気づけるにしても、いろんなことが爽果さんには重たいですよ」

「そうだねぇ」


 などと、のんきにノートを付けている。


 自分も今回のまとめか何かをメモしたほうがいいのだろうかと迷っていると、万智が居間に顔を覗かせた。


「私が留守の間、颯実はご迷惑掛けませんでした?」


 万智の背中越しに颯実が顔を出して、「ちゃんとしたよ」とぼやいている。


「先生、お昼食べました? 颯実も、おばあちゃんにお昼ご飯食べさせてあげた?」

「あげたって」


 信頼しろよー、と颯実が台所に入っていき、食卓に座っていたとねを支えて居間に連れてくる。


「ばあちゃんの好きな番組始まるぞ」


 こたつにとねが入り、颯実がテレビを付けると、しんと静かで空気の重たかった室内が、一気に明るくなった。お茶の間に笑いが起こる。


 とねはじっとテレビを見ているが、あまり表情に変わりがない。


 本当にこの番組が好きなのか、山田には見当も付かない。


 じっと、山田がとねを見つめていると、とねも山田を見つめ返した。


「かならっけ」


 山田の心臓がドキッと跳ねた。


「え?」


 聞き返したときには、とねは目を閉じていて、舟をこぎ始めた。


「かならっけって言ったね」


「必ず帰すって言いましたね」


 山田は白を見る。


「爽果さんが海で行方不明になって、翌日に見つかった。必ず帰す……か」

「爽果さんをまた海にってことですか?」

「さぁね……とねさん、元気なときに会いたかったなぁ。残念」


 白がつまらなそうにそう言うと、ノートに汚い文字で何かを書き付けた。

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