第二話

 引き船に曳かれて舟が防波堤を越えたとき、空が暗くなった。


 山田は何気なく空を見る。太陽が隠れているわけでも、雲が空を覆い始めたわけでもなさそうだ。


 気付けば、なんとなく辺りが煙っている。海面からうっすらと霧が這い上がってきていた。あっという間に漁港を濃い霧が覆った。


 観光客も驚いている。しかし、その姿も霧に巻かれて見えず、声だけが聞こえてくる。


 前方から成継の声がした。青年団もガヤガヤと声を上げている。霧で一寸先が見えない為、誰もそこから動けないでいるようだ。


 寒い冬の朝、海面が太陽で温められて、霧が出たのかもしれない。しばらくしたら、きっと嘘のように晴れるだろう。


 それも演出だと落ち着いていれば、余計神秘さに拍車がかかる。


 けれど、振興会の人間は予定になかった事態に、慌てふためいている。それでも、観光客に悟られたくないのか、さっきよりも静かになった。


 十分、二十分と時間が経つにつれ、案の定、霧がすぅっと嘘のように晴れてきた。


 海は凪いで、波も穏やかだ。


 ただ、いくら待っても爽果を乗せた舟が姿を現さない。


 時刻は七時になろうとしていた。


 テントの御簾の陰から、ゆっくりと成継が現れて、何やら青年団に合図した。


 もう一度、雅楽の曲を演奏し始める。


 成継が、海に向かって神に祈るように一礼二拍手一礼をして、祝詞を奏上する。本来なら、爽果が戻ってきて唱えるものなのだろうが、何か思いも寄らないことが起こっているのだ。


「先生」


 山田が小声でつくもに呼びかけた。


 白は目をすがめて、海の彼方を睨みつけている。


「何か見えるんですか?」

「いいや」


 山田は気もそぞろに、防波堤を見つめていた。


 成継の奏上が終わった。それでも舟は戻ってこない。


 成継が深く観光客に向かって一礼をしたことで、観光客もこれでおわたいは終わったのだと理解したようだ。わらわらと解散し、特産物などを売っている屋台に群がった。


 小さなお祭りだ。見るものがなくなり、一時間もしないうちに観光客もいなくなった。


 まるで、それを見計らったように、成継や青年団が騒ぎ始めた。


 見ているのは村民だけだ。異様な騒ぎに彼らも何か勘づいたらしく、一人二人と会場へと入っていく。


 朔実が村民の前に立ちはだかり、関係者以外立ち入り禁止だと大きな声を出している。


 その横を、山田と白が素通りして、テントの中を覗いた。維継と成継が青ざめている。


「何があったんですか」


 白がのんびりと訊ねた。


「それが……」


 成継が言いよどむ。


「爽果をせったきたいが行方知らずなった」


 維継が低い声で告げた。


「え」


 山田は言葉が継げず、固まった。


「それは、濃霧が出たときにですか」


 白が不思議そうに訊ねた。


「そうです。霧が出て晴れたときには、舟がいなくなっていたんです」


 成継がガックリとうなだれた。


「綱が切れたとか?」

「それも考えましたが、綱は切れたんじゃなくて解かれていました。でも、自然に解ける結び方じゃなかったはずですし、海は凪いでいたので、舟が流される心配もなかったはずなんです。なんてことだ……こんなことになるなんて……」


 呵責かしゃくの念に駆られたのか、成継が顔を歪めた。


「今は、後悔している暇はないです。警察には?」

「朔実さんが連絡したはずですから、まもなく町から来ると思います」


 山田はその様子を呆然と眺める以外、どうすればいいか分からなかった。


 オロオロしている山田に、白が声を掛ける。


「山田君、私達はいったんここを出よう。邪魔になるだけだから」

「はぁ」


 促されるまま、山田と白はテントから出た。


 外では、青年団員が屋台を片づけたりと慌ただしく走り回っている。赤い毛氈もひな壇も取り払われている。


 その様子を遠巻きに婦人部の女性達と村民が眺めている。彼らの表情には困惑が張り付いていた。


 明らかに何か大事おおごとが起こったのだと理解しているようだった。けれど、朔実達にどうなっているのかと話しかけるどころではなかったので、彼らは憮然と立ち尽くしているのだ。


 テントから出てきた山田達に視線が集中する。何か聞きたそうに口を開けている村民もいた。


 山田はそんな彼らが気になって横目で見ながら通り過ぎた。


「先生。濃霧に何か意味があるんですか?」


 成継に、「濃霧が出たときか」と、白が確認したのを思い出して訊ねた。


「神隠しの条件じゃないかな」

「神隠し?」


 爽果の舟が流されたことと神隠しが何故関係あるのか、山田はピンとこず、首をかしげた。


「うん。オカルトだけど、霧や雲に巻かれて飛行機や一連隊が消失したって逸話があるよ。それが事実かどうかは別として、神隠しには人的な原因もある。だけど、霧が発生する場所と神隠しに遭うとされている場所が重なる場合もある」

「例えば、何ですか?」

「海や湖、山。霧に巻かれて方向感覚を失い、遭難する。だけど、体験者以外の人間にとって、忽然と姿を消して行方が分からなくなれば、それは神隠しだとされる。不意に神隠しに遭った人間が現れて、その間の記憶がなくても、今だと解離性遁走という精神医学的な症状と考えられると思うけど、時代によっては、神隠しだとされただろうね。民俗研究の文献に、岐阜県の話で御岳参りに行って霧に迷って神隠しに遭ったというのもある」

「先生は、爽果さんが神隠しに遭ったって言いたいんですか?」


 白が足を止めた。


「まぁ、今はまだなんとも言いがたいけど。万智さんはもう家に戻ったかな」

「え? 公民館じゃないんですか?」

「さすがに葬儀も済んだのに、いつまでも公民館にはいないと思うけど。それにとねさんが留守番してるだろうから」


 爽果の家にいったん戻ろうという話になり、万智にどう説明すれば良いか、山田は頭を抱えた。それとも朔実がすでに万智に知らせているだろうか。もしかすると、観光客に交じって万智も見学していたかもしれない。


 スマホを取り出して時刻を見ると、まだ七時半だった。


「万智さん、漁港にいたかもしれないですよ」

「そうかもしれないね……。雨が降りそうな天気になってきた」


 そう言って、白が手のひらを上にして空を見上げた。


 釣られて山田も空を見る。


 あれほど晴れていた空模様が、怪しく曇り始め、心なしか風が強くなってきた。


「凪だったのに……」

「何だろうね。おかしな天候だ」


 山田と白は西山への坂を上りながら、かき曇っていく空と黒く淀んでいく海の色を不安そうに眺めた。

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