第6話 喪失した記憶
つかさは、かすみに対して、次第に、
「自分の気持ち」
というものを前面に打ち出していた。
もちろん、それまでかすみは、
「男女の恋愛」
というものも分からないのだから、それが、女性同士ともなると、想像を逸しているといってもいいと思っていた。
そして、考えていたのは、
「男女の関係」
というのは、お互いに、肉体的なものだけでなく、精神的な面でも、深いものだと思っていた。
だから、今まで存在自体は、否定するつもりはなかったが、どういうものなのかということを想像することもできない、
「女同士」
あるいは、
「男同士」
の関係というのは、それこそ、
「肉体的なもの以外ではありえない」
と言えるのではないか? と考えるのであった。
というのも、
どうしても、
「禁断の恋」
という言葉にある通り、
「読んで字のごとし」
ということで、そのつもりで素直に考えると、どうしても、越えられない結界が感じられるのだった。
特に、
「男性同士」
ということであれば、それこそ、
「男色」
「衆道」
という言葉で言われるような、戦国時代などのように、
「いつ死ぬか分からない戦場であれば、まわりが男ばかり」
ということなのは、しょうがないことだろう。
だから、
「男同士で」
というもの無理もないことで、逆に、女性を正室、側室として、何人も侍らせるというのも分かり切っていることであろう。
「家の存続」
というのが、当然の義務だった当時の人たちとすれば、
「跡取りを残すのも、大切な仕事である」
ということになる。
だから、
「側室を設けてでも、子供をつくることに専念する必要がある」
ということになるのだろう。
それを考えると、
「自分たちにとって、何が大切なのか?」
と考えさせられる。
生きていても、いつ死ぬか分からない。
大切なことは、子々孫々と血を受け継ぐこと。
そのためには、倫理などというモラルを絶対に守らなければいけない。その優先順位をしっかりとしなければいけないのだ。
「同性を求めてしまう」
という発想は、そういう過去から受け継がれてきた理不尽さに立ち向かうために、必要なことなのだろう。
今の時代では。マンガなどで、
「BL」
つまり、ボーイズラブなどと言われ、かつての、
「衆道」
「男色」
なる言葉とは、違ったものとして描かれている。
その大原則は、
「美しさ」
である。
これは、前述にある。
「耽美主義」
に近いものがあるが、
「似て非なるもの」
と言ってもいいかも知れないが、それは、
「美というものをいかに感じるか?」
ということである・
かつての耽美主義による美しさは、
「美に感じる美しさ」
というものよりも、
「モラルのなさを、いかに美として捉えるか?」
というものであった。
だが、BLというのは、確かに、
「禁断の恋」
と言ってもいいのだが、実際に演じる少年たち自体が美しいということであり、彼らを彩るものがなくても、彼ら自身に美しさが存在し、それを描いているのだ。
耽美主義の場合は、殺人などという犯罪行為を犯罪を行う動機として、
「美の追求」
ということで、もちろん、犯罪を肯定するわけではないが、美の追求のためには仕方がないという考えである。
BLと発想は近いのだが、その距離はというとかなり遠い。
「宇宙における、地球と月の距離」
とでもいえばいいのか、BLなどという同性愛への感覚は、耽美主義で片付けられないものがあるのかも知れない。
同じ、
「同性愛」
というものを描くもので、
「GL」
というものがある。
これは、ガールズラブと言われるが、BLほど、たくさんあるわけではない。いわゆる、
「レズビアン」
と呼ばれるもので、こちらは、昔からある、
「レズビアン小説をマンガ化したもの」
という意味で、BLなどのような、かなり昔と違い、まるで、新しいジャンルでもあるかのような小説というものとは、違うだろう。
ただ、レズビアンというのは、男性が見ても、女性が見ても、美しさを最初から感じることができる。
男色などというと、基本的に、
「変質者以外では、興味を示すことはない」
と言われていて、
「BL」
というものでも、女性の目から見たものしか、美しいと感じることはないだろう。
だから、どうしても、
「美しさを最優先とする」
という、耽美主義というものを、言い訳にしなければ、
「BL小説」
というものは、成立しないのかも知れない。
そういう意味では、今のマンガや小説界において、よく、
「BL」
などという文化を作り上げることができたのか?
それが、すごいことではないだろうか?
「時代が求めた」
というのは、言い過ぎではないだろうか?
レズという文化は、その人によって違う。
確かに、レズというと、隠微な雰囲気であり、男色が、
「気色の悪いもの」
ということで、イメージする。
ホモというものが、気色悪ければ悪いほど、
「レズは神聖で、淫蕩なもの」
と感じるのだ。
ただ、どうしても、昔からの、
「男尊女卑」
という考えから、女性同士というと、どこか、芸術というよりも、淫蕩性が強く見られ、その印象が、神話の世界を感じさせるのであった。
ただ、どうしても、同性愛というものは、
「禁断のもの」
として見られる。
「近親相姦」
と双璧を感じさせるものだが、その中でも、近親相姦と違って、気持ち悪さを感じさせないという点で、レズは、芸術的なものとして感じさせるのだろう。
「百合」
という言葉に代表される意味で、
「ホモが、バラといわれる真っ赤なイメージと違い、どこか、おしとやかな清楚さを感じさせる百合がイメージされるのは、それだけ、強さよりも、美を感じさせるという意味での清楚さなのではないだろうか?」
と感じさせるのだ。
かすみは、中学時代、
「百合小説」
というものを、何度か読んだことがある。
その本は、友達から借りて読むことが多かったのだが、
「なぜ、友達がそういう本を持っているのか?」
ということは、よくわからなかった。
というのも、中学時代の思春期の頃、
「興味はあるけど、恥ずかしくて読むことができない」
と、同級生の子たちと同じようなことを思っていたのだが、
実際に聴いてみると、
「私、普通に買うわよ」
という人もいた。
今の時代であれば、
「ネットで買う」
という子もいるが、ネットで買うと、まずは先に家族が見ることになって。
「何よ、これ」
と言われると、どう答えていいか分からなかった。
そもそもが、郵送される時に、出版社の名前が表に出ていて、その名前から、本の内容が想像できるようなものであれば、問題であろう。
それを考えると、
「通販というのも怖い」
よ言えるだろう。
今まで通販でモノを買ったことがないので、どんな形で来るか分からない。ただ少なくとも、
「送り状があるわけだから、送り主の名前くらいは書かれているはずだ」
ということである。
通販では、さすがに買えないとなると、同人誌関係の書店であれば売っているかも知れないが、今度は、
「年齢承認」
に引っかかってくる。
「18歳未満立ち入り禁止」
になっているだろうから、いくら証明書を求められないといっても、パッと見で、
「中学生」
ということがバレバレだろう。
そう思うと、本屋での購入は難しいということになる。
となると、後考えられるのは、
「他人が購入したものをもらい受ける」
などというものだ。
例えば、彼氏がいて、その彼氏が、
「18歳以上か?」
あるいは、成人に見えるくらいであれば、購入できるだろう。
彼が買ってきたものを、もらい受けるという方が、一番ありえることであって、それを、友達に貸すというのは、
「私には、年上の彼氏がいる」
ということを、自慢したいということになるのかも知れない。
中学生くらいであれば、
「大学生の彼氏などがいれば、羨ましい」
という思いを抱くだろう。
それだけで、マウントを取ることができ、
「彼に、誰か紹介してもらおうか?」
とばかりに、自分を羨ましがられるほどになるのだ。
確かに、羨ましくはあったが、中学生の女の子が、大学生と付き合うというと、それだけのリスクがあるような気がするのも、無理もないことだった。
特に大学生というと、
「チャラい」
というイメージが、かすみにはあり。
「大学生の彼氏がいればいいというのは、あまりいい発想ではないかも知れない」
というのは、
「相手が、同級生では相手をしてもらえない」
というような男なのか?
あるいは、
「中学生くらいの思春期の子にしか興味を持たない」
というような、変態だったりする可能性があるからだ。
中学生の女の子とすれば、
「大学生というと、垢抜けしていて、お金を持っていて、頭がいい」
というイメージで見るのが一般的なのかも知れないが、
大学生というと、実際に、イメージ通りの人もいるにはいるだろうが、そういう人は、少なくとも、ナンパなどはしないだろう
そんなことをしなくても、学内でモテるからである。
何も、年下というリスクを負う必要はない。リスクを負うとすれば、
「中学生が好きだ」
という、ロリコンであったりする、変態気質の人くらいではないだろうか?
そんなことを考えていると、かすみは、決して、そんな大学生の彼氏を持った相手と真剣に付き合っているわけではない。
「おこぼれに預かれればいい」
という程度であろう。
だから、
「大人の雑誌も、その大学生から巡り巡ってこちらに来たというだけで、これこそ、おこぼれということになるのであろう」
ということであった。
友達がもってきた雑誌が、ちょうど、
「レズビアン特集」
というものだった。
「こんなもの、男性は喜んでみるんだ?」
と、かすみは思った。
それを、友達にいうと、
「男って、レズが好きみたいよ。変態なんでしょうね」
と言って、笑っていた。
その友達を見ていると、苦笑いをしているが、毛嫌いをしているわけではないようだ。
「彼女にも、レズの気があるのかしら?」
と考えて彼女を見ると、最初は、幼く見えていたが、次第に、大人っぽく感じられるから不思議だった。
そう思って、レズを演じている女性を見ていると、最初の、あどけなさが、次第に大人の雰囲気が感じられるように見えてくると、
「恥ずかしそうにしている様子が、大人の色気を感じさせる」
という雰囲気を醸し出しているのだった。
「羞恥心というものが、女性を美しくする」
というのを聴いたことがあった。
羞恥心という言葉の裏返しとして、
「禁断」
という言葉が頭に浮かんでくる。
「禁断」
というと、性的描写には、たくさんある。
「不倫」
であったり、
「近親相姦」
「幼児凌辱」
などという犯罪に関係するものもあったりする。
「不倫」
というと、今は法律違反ではないが、大日本帝国時代には、
「姦通罪」
という犯罪であった。
姦通罪というものがなくなったのは、日本における、
「姦通罪」
というものが、特殊だったからだ。
というのは、
「女性による不倫は、姦通になるが、男性による不倫は、姦通とはならない」
ということだったのだ。
要するに、
「男尊女卑」
というものであり、
敗戦によって民主化したことで、
「民主憲法」
としても、
「日本国憲法」
に定められた、
「法の下の平等」
というものに違反しているということであった。
法の下の平等というと、いわゆる、
「男女平等」
ということであった。
さすがに姦通罪のような、明らかな、
「男尊女卑」
というものは、新憲法下では、明らかに違反ということになるのだった。
だから、他の国に先んじて、姦通罪が廃止されたのだが、そもそもの法律が、
「悪法だった」
ということであろう。
しかし、それ以外は、最初から犯罪だ。
ただ、近親相姦に関しての考え方は、こちらも、姦通罪と同じで、国ごとに違っている。
特に、昔の日本などでは、
「1親等では結婚できない」
というように、直接的な血のつながりでさえなければ、結婚ができるという時代ものだった。
だから、近親婚が結構続いているというのもうなずけるだろう。
今の世の中であれば、
「3親等以内ができない」
ということで、従妹などとの結婚はできるのだ。
「そもそも、どこからが、本当の近親婚になるのか?」
という境目は、結構曖昧なのではないだろうか?
国によって解釈が違ったり、同じ国でも、時代によって違ったりする。
それだけ、
「その国の事情や、都合が影響している」
ということだろう。
「風俗文化というものへの解釈によって、どのように考えるか?」
ということになるのだろう。
今の時代でも、
「同性同士の結婚」
というものは、物議をかもしているが、できないわけでもない。
日本でも、
「LGBT」
などと言われるものがあり、
「性同一性障害」
などと言われる。
「生まれながらに、肉体と精神の性が、同一でない人」
というものがあるということが言われるようになり、実際に問題になっていういる。
「大人になるまで、自分は肉体が男だと思っていたが、心の中で、何かおかしい」
と感じるようになっている。
だが、
「こんなことを考えるのは、自分がおかしいからだ」
という考えであったり、
「同性愛の気があるのではないか?」
と思うことで、自分が変態なのではないか?
と考えることで、
「そんな自分を許せない」
と考えるようになるのだった。
そんな思いがあるのに、
「自分にまさか同性愛の気があるなんて」
と思うはずないなので、最初から、そんなことは考えない。
だから、余計に、
「自分が変態では?」
と思い込むのだった。
「男として、女性に興味がある」
あるいは、
「オンナとして、男に興味がある」
というのは当たり前のことであり、思春期には、
「そんな当たり前のことを、当たり前だと思えないほどに感じる時期なのだ」
ということであった。
かすみは、レズビアンということに関しては、特殊な思いを持っていた。
それは、羞恥心の中に、7
「何かがある」
ということを感じるのだが、それがどういうことなのかが分かっていなかったからだ。
「かすみは、記憶を失っている時期があるというのを意識していたが、その時期を思い出そうとすると、頭が痛くなる」
これは、記憶を思い出そうとする時の、
「副作用のようなものだ」
と思っていたが、それに間違いはないだろう。
ただ、もう一ついえば、
「ここで記憶を取り戻すと、今現在の記憶が消えてなくなるのではないか?」
ということを考えることで、それが怖くなるのではないか?
と考えるのであった。
記憶というものを考えた時、それを意識するためには、言葉通り、
「記憶という空間から、意識という場所に持っていき、そこで、記憶の内容を活性化させることで、意識できるものではないか?」
と考えるのであった。
普通の記憶であれば、封印を解くことで、そのまま簡単に意識へもっていき、活性化させることができるはずなのだが、そもそも、記憶が欠落している部分があれば、そこには、
「今の記憶から、遡った、一種の作られた記憶というものが、延長線上に存在しているのではないだろうか?」
そう思うと、元々あったはずの記憶が、本当は消えてなくなったわけではなく、
「どこか別の場所に格納されているのではないか?」
ということを考えれば、
「記憶というものが、多重で格納されてしまった」
と考えるのだ。
だから、失われたはずの記憶が元の場所に戻ることで、意識を取り戻すことができたとすれば、
「架空という形の延長線上の作られた記憶」
というのは、
「なかったもの」
として、考えられることになるのではないだろうか?
ただ、この記憶は、今の、
「本来なら失われたはずの方の意識が動かしているものであることから、実際に戻ってきた記憶とは共存できるわけではないので、忘却の彼方として、別のところに格納されてしまうので、再度、意識として思い出そうとしても、思い出すことができないのではないだろうか?
これが、一種の、
「裏の記憶喪失」
と言ってもいいのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「記憶喪失になってしまうと、記憶喪失の間に意識している記憶は、別の場所に格納されるので、決して意識として取り戻すことはできない」
と考えられるのではないだろうか?
そんなことを考えてみると、
「記憶の共存が許されないとすれば、どちらの記憶が自分にとって本物だということにするか?」
ということを迷うだろう。
しかし、思い出すまで、
「もう一つ、記憶がある」
としても、
「それを思い出すことは、自分にとっていいことなのかどうか?」
ということを考えさせるので、無意識に、思い出していいものかどうかを感じているので、思い出すことを拒否する自分がいることで、
「頭痛に襲われるのではないだろうか?」
と考えられるのだった。
つまり、
「頭痛というものが、自分にとって、正当性のようなものの証明である」
と考えると、
「記憶を取り戻すことは、今の記憶を失うのではないか?」
ということの証明なのかどうか分からないが、少なくとも、
「今の記憶を失うかも知れない」
ということを考えている-、
という証明なのだろう。
だから、人によっては、
「自分が記憶を失っている」
ということを分かっていないともいえる。
分かっているのかも知れないが、認めたくない思いによって、起きるジレンマが、自分を苦しめるのだと考えると、
「苦しむよりも、事実を隠滅したい」
という気持ちになったとしても、無理もないことであろう。
それを考えると、
「失った記憶を取り戻したくない」
あるいは、
「取り戻した記憶の代償が、どのようなものなのか?」
と考えれば、それが、
「羞恥のことなのかも知れない」
と考えるのだった。
羞恥心というのは、
「身体の反応に影響するものだ」
と言える。
性的反応によって起こる心境は、まず最初に、襲ってくる、羞恥心によって、
「変態的発想なのではないだろうか?」
ということを感じるので、その内容が、
「いかに犯罪にかかわることであるかも知れない」
と感じることで、
「自分がいかに羞恥心に痛みを感じることになるのだろうか?」
と考えるのだった。
鬱状態になると、音楽を聴くと、
「かなり精神的に楽になっている」
と言ってもいい。
どんな音楽がいいかということは、その時の気分によるのだが、最近、好きなアーチストの音楽を聴くと、安心できるので、よくその音楽を聴くようになった。
だが、かすみは、その音楽を聴くと、思い出す人がいた。
その人が好きだという気持ちに変わりはないだけに、
「その人は自分をどういう気持ちで見ているのか?」
と考えたが、相手が、自分のことをどう考えているか?
と思うのだが、好きだと思っていることが、ウソかも知れないと感じるのだった。
「クラシック音楽」
は、西洋風だと思っていると、それだけではないかも知れない。
日本風の建物、神社やお寺、お城を見ながらでも、クラシックの音楽は、心地よく聞こえ、旋律が、好きな人の顔を思い起こさせるのであった。
冷静になると、クラシックの音楽が、その男性を思い出させることで、プレッシャーを感じることになるだろう。
クラシックと言っても、交響曲のようなものから、ピアノ曲などの音楽までもが、一度聞き始めると、毎日でも聞いていないと、我慢できないのだった。
クラシックというと、どうしてもイメージされるのが、
「月」
だった。
実際に、月というものは、
「暗い中に、明るさが滲み出ているような感じ、宇宙を思わせる中で、月の明かりを見ていると、明るさに照らされていると、月光がいかに明るいかということを感じさせるのであった」
月というと、西洋であれば、
「オオカミ男」
のように、満月で、オオカミに変身する人間であったり、日本では、
「竹取物語」
のように、
「月のお姫様が、日本の竹の中から生まれて、成長した姫が、今度は月の世界に帰る」
というお話で、
「一瞬、何を言いたいのか?」
ということが分からない話であったが、日本最古と言われるような話が、宇宙に関係しているというのが、おかしな気がしてくる。
「絶世の美女」
ということで、求婚者がたくさん駆けつけるということであったが、考えてみれば、平安時代当時というのは、
「男性が夜這いを掛ける」
という形が主流であり、
「和歌」
などでも、男性が忍んでいくという話が主流だったので、竹取物語というのも、その通りに、求婚者が押し寄せたというのも、分かるというものだった。
月光によって、見えている影の長さが、しばらく見ていると、影が足元から、放射状に延びているのを感じた。
歩いていると、それが、円を描くように。クルクル回っているのだが、下手をすると、
「負のスパイラル」
を感じさせるものであった。
月光のように光が反射し、影が見えているのを感じると、
「光を感じさせない」
というものが、どのようなものなのかと考えると、
「暗黒星」
を思わせるのだった。
「星というものは、自らが光を発するか、あるいは、光を反射させることで光っているように見せるものだということであるが、ある天文学者が、創造した星で、自らは、光を発しないという、邪悪な星がある」
というのだ。
その星は、そばにいても分からない。ぶつかるかも知れないと思っただけで、これほど恐ろしいものもない」
というわけである。
そんな、
「暗黒星」
と呼ばれものは、実際に、この世に存在するのだろうか?
他の星とは、隔絶された存在、それが、
「暗黒星」
である。
ただ、そのような星が本当にあるとして、その存在が本当に、
「なくてはならない存在」
であろうか?
そういう意味でいくと、レズのような関係であっても、さらには、躁鬱症のような関係であっても、それぞれに、両極性というものを持ったもののような気がする。
というのも、
「レズという関係は、どちらかが、男役を演じることで、性行為の疑似化ができるというもので、いつも、男約と女役が決まっている場合だ」
とは限らないだろう。
だから、レズの関係としても、躁鬱症の場合も、
「双極性」
と呼ばれるくらいに、躁状態と鬱状態のそれぞれを持っていることになる。。
それを考えると、
「暗黒星のように、他の星とまったく隔絶された状態の星も、他の星とはまったく違うという意味で、その両極性というもの」
であったり、
「本当に、必要なものなのかどうか? 考えさせられるものだという意味で、後の二つと似通っている」
双極性障害というのは、
「病気だから、しょうがない」
と言われるかも知れないが、果たしてそうだろうか?
「確かに、病気だから仕方がない部分もあるだろうが、本人が自覚していなかったり、諦めの気持ちを少しでも持ってると、救うことができなくなるのではないか?」
と言えるだろう。
それは、記憶喪失の時に感じることであったが、
「記憶を失っている間に生まれた記憶というものが、記憶が取り戻してしまうと、その部分が欠落する」
ということであれば、どうなるというのだろう?
というのも、
「記憶を失っている間にできた記憶は、リセットされるということであれば、その時に行ったことは、すべてがなかったことになる」
そうなると、まるで、未成年によって、なされた契約は、取り消すことができるというような法律のようではないか。
それでは、契約相手は大きな不利益を得るので、法定代理人である。親権者などに、契約を任せ、契約相手も、本人が未成年であるということを知っておかなければならないということを怠ってしまうと、本当に契約が取り消されても、文句が言えなかったりする。
記憶喪失者にも、たぶん、
「法律的無能力者」
というものが働いて、準禁治産のような形にて、契約を無効にするということができるので、同じように、
「準禁治産者を守る」
ということになるだろう。
しかし、だからと言って、相手も保護されなければならず、そう考えると、
「記憶喪失者は、保護されるが、記憶を失っている場合における保護がどこまで行われなければいけないか?」
というのは、曖昧なところであろう。
その曖昧さが、
「暗黒星」
のような考え方であり、法律的無能力者というものが、いかに、この、
「光を放たない星」
のような、不気味な存在になるというのか?
そのあたりを、いかに考えるかということに掛かっているのであった。
「記憶喪失者の記憶がよみがえる時、躁になるか、鬱になるか、そのあたりが問題だったりもした。
「暗黒星」
の場合、
「見えないことで、そばにいても気付かない」
という
「邪悪な星」
であった。
ということは、レズであっても、躁鬱症であっても、
「重ねることのできないものであり、さらに、一緒になったとしても、お互いを高め合っているつもりでも、ただ傷を舐め合っているかのようで、特に、躁と鬱との間で、決してお互いを相殺し合っているというよりも、さらに、余計にひどいものを生んでしまう」
というところでの、
「邪悪な星」
を感じさせるのだ。
「かすみとつかさ」
の二人には、それぞれに、似たところと、合い重なるところのない邪悪な思いが存在し、その中で、記憶喪失した部分を、
「それぞれに持っているのではないか?」
と感じるのであった。
さらに、躁と鬱の周期が二人の間にあり、どちらかが表に出ることで、
「二重人格性」
もあるのだった。
そう、
「かすみ」
と
「つかさ」
二人は別々の身体を持っているが、それぞれが、身体を共有しているかのような感覚である。
お互いに、一つの身体を二人で分け合っているかのような、
「多重人格性」
を有しているように見えていたのだが、それは、小説の中での話であった。
しかし、実際に、
「かすみ」
という女も、
「つかさ」
という女も両方存在する。
だから、お互いの気持ちが、お互いの肉体を貪り合うことで、レズビアンの様相を呈してくるのであった。
つかさには、
「精神疾患」
というものがあった。
時々、
「自分のまわりにいる人が、自分のことをいつかは攻撃してくるのではないか?」
と感じることであって。その予備軍として、
「自分のまわりが、敵だらけになってくる」
というものであった。
「カプグラ症候群」
というものらしいが、この発想を抱いた時、自分の中で一つの記憶が喪失し、意識が、怪しくなり、誰かを求めてしまう。
その歪んだ異常性癖が、
「レズビアン」
というもので、相手がつかさだということで、お互いに、時と場合によって。
「邪悪な存在」
となるのだ。
かすみは、自分のことを。
「暗黒星」
つまり、
「邪悪な星だ」
と思っている。
そのことが、さらなる妄想と、被害妄想であったり。不安から、卑屈な気持ちを真子超すということになるのだ。
それこそが、
「邪悪の正体」
なのではないだろうか?
( 完 )
邪悪の正体 森本 晃次 @kakku
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