第3話 鬱状態の時
そんなかすみだったが、あれはいつだっただろうか? 高校3年生の頃だったか? 予備校に通っている時、再度、あの時の、
「正夢」
を思い出すことになったのだった。
というのも、
ちょうど、予備校からの帰り道、実は以前の記憶のその部分が消えていたのだが、その時、どうやら、
「後ろから近づいてきた男に悪戯されそうになった」
ということだったらしい。
しかし、実際には何もされた形跡はなかったのだが、ただ、後ろから羽交い絞めにされて、どこかに連れて行かれそうになったところを、ちょうど巡回していたおまわりさんに助けてもらったということであった。
おまわりさんは一人だったので、かすみを介抱するだけで、男を捕まえるだけの余裕はなかったという。
ただ犯人は、後から捕まったことと、
「その時、かすみを一人置いてしまっていたら、そのトラウマはひどかったに違いない」
という、医者の話から、この判断に間違いはなかったのだ。
けがをしているところはなかったが、医者の話では、
「彼女は、少し精神疾患の予備軍みたいなところがあるので、神経を使ってあげなければいけない相手なんですよ」
ということであった。
それを聴いて、警官は、
「それじゃあ、私の判断は間違っていなかったと?」
というと、医者は、黙ってうなずいた。
「ただ、彼女は一時的な記憶喪失になっているようですし、もし記憶が戻っても、思い出すようなことをさせてしまうと、また記憶を失いかねません。今度失うと、それこそ大変で、本当の記憶喪失になってしまいますので、そこは気を付けてくださいね」
と、医者に釘を刺され、警官は、ゾッとしたものを感じたのだ。
「もし、それで記憶が戻らない状態になったら、どう責任をとればいいのだ?」
という感覚で、
「これは、絶対に触れてはいけない話題なんだ」
と思った、
かすみと、この警官は、面識があった。いつも予備校に行く時、いつも挨拶をしてくれるのがかすみだったのだ。
だから、今回の事件に少なからずのショックを警官も受けていた。
そういう意味でも、どうすればいいのか、最初は考えあぐねていたが、結局、
「何が彼女のためになるというのか?」
ということを考えれば、自ずとその考えはまとまってくるのであった。
実際に、彼女のことを考えてみると、
「何をどうすればいいのか?」
ということは分かっている。
なるべく、辛い記憶を思い出さないようにしてあげるのが一番で、いつもと同じように接することであった。
とりあえず、それしかなかったのだが、彼女を襲ったが、未遂に終わった男が捕まったのだが、あの男、結局、警官に見つからなくても、
「オンナを襲うだけの根性もない」
ような、小心者の男であった。
というのは、近くでも似たような犯行があり、警察だけでなく、市民の大人たちが、気を付けて見回りのようなことをしていたので、この男が捕まったわけで、そんなことも知らずに、ただ、本能に任せて犯行に及んでいたのだ。
まだ、大学生だということだが、実際には何もできないだけのクズ人間で、逆にいえば、
「暴行はされなかったが、その分、精神疾患に陥ったり、PTSDと判断されたりしたという、可愛そうな女の子が街に溢れた」
ということだったのだ。
実際に、ここ1年半くらいで、5件ちかい犯行があり、これ以上起きると、マスゴミの方を抑えることができなくなり、一気に社会問題となり、却って警察が緘口令を敷いていたことまで暴露されかねないということだったのだ。
それを考えると、警察としても、面目という面でも、
「市民からの信頼をなくす」
という点で、行動しにくくなるということでも、
「由々しき問題」
だったのだ。
その犯人には、被害者がやはり数人いて、ただ、変質者ではあったが、強姦を行えるほどの男ではなかったので、あくまでも、
「変質者」
としての、裁判となったのだ。
ただ、こちらは刑法犯ではなかったので、複数の被害者がいたということ、その他、もろもろもあったが、未成年ということもあり、実刑ということにはならなかったようだ。
ただ、保護観察はついたようで、そのあたりの状態は、警官は聴いていた。
だが、この時の、かすみの被害としては、まだ何とかよかったのだが、それだけでは済まなかったのは、かすみによって気の毒なところだった。
といっても、この時も、ひどい目には合わなかった。
今回も、ちょうど声をかけてきた人がいたので、事なきを得たのだが、実はその声をかけてきた男というのが、グルだったようで、
「かすみに近づきたい」
ということで、一人の男が、
「怪しい男」
を演じていたのだ。
かすみとしては、自分を助けてくれた男を完全に信じていた。
そして、実際に、好きになりかかっていたのだったが、
「悪いことはできない」
というもので、
「この男、実は私の元カレだ」
と親友が言い出したのは、かすみが、自分とのプリクラの写真を見せた時だった。
親友は、男の正体を知らないようだった。
二人が別れたのは、相手の男が、浮気をしたからだった。
というよりも、親友が知らない間に、
「二股をかけていた」
ということがバレたことで、急転直下、別れにつながったという。
もちろん、相手のオンナも、その男をことを許せなかったようで、
「二兎を追う者は一兎をも得ず」
という言葉通りに、結果、
「一人にされてしまった」
ということであったが、それこそ、
「自業自得」
あるいは、
「因果応報だ」
ということなのだ。
もっと言えば、相手の男は、
「いつも同じ手口を使っていて、しかも、同じ相手を利用している」
さらには、
「相手を研究することもなく、疑わずに、慎重性もなく、思った通りの行動に出る」
ということで、ハッキリ言って、
「犯罪には向かない男だ」
と言えるだろう。
かといって、決して、
「善良な人間というわけでもなく、むしろ、救いようのない男といってもいいだろう。そして、救いようのないという言葉の下につくのは、バカということであり、こんなやつが中途半端に存在しているから、精神疾患で悩む女性が、中途半端に増えるだけなのだ」
と、少しひどい言い方ではあるが、
「的を得ている」
といっても過言ではないだろう。
そういう意味で、この男は、
「この世では、毒にも薬にもならない」
という意味で、
「この世に存在すること自体、ムダな人間なのだ」
といってもいいやつだった。
さすがに、二度も似たような性犯罪に巻き込まれかけると、本人もどこか病んでくる。
夜中の暗い路地近くを歩くのが怖かったり、後ろから誰かが追いかけてくるのではないか?
ということを恐れたりと、気にすることが多くなった。
そんな時助けてくれた男がいたのだから、
「ホロっ」
となったとしても、それは無理もないことだったのだ。
しかし、それも、親友の告白によって、男の事情が分かってくると、今度は、かすみの精神が怪しくなってくる。
というのも、まずは、男性不信になってくる。
これは当たり前のことであるが、その理由として、
「信じていたのに?」
ということの対象が、
「裏切られた」
ということよりも、なぜか、
「親友と付き合っていた」
ということの方がショックだったのだ。
付き合っていたといっても、友達も話だけを聴いていると、
「騙された」
ということであり、その騙されたという感覚は、
「男に対して」
というよりも、何か、
「親友に対して」
と言った方がいいかも知れなかった。
というのも、確かに、親友が前に付き合っていた男性がいて、そいつから騙されたということで、
「かつては、可愛そうだということで同情したのに、それなのに、まさか、自分が好きになった男性の元カノだったなんて」
と感じたのだ。
親友からすれば、
「そんな発想はいい迷惑だ」
と言いたいだろう。
確かにその時は、かすみに相談に乗ってもらったりして、助かったと思っているのだが、今回は、完全に、
「謂れのない因縁」
といってもいいだろう。
それを考えると、
「かすみという存在は、自分にとって、あまりありがたくない存在だ」
と感じていた。
しかし、かすみという女性は、それでも、
「親友だ」
といって、あくまでも立ててくれる。
それが、親友にはたまらないことなのであった。
「親友でなければ、別れられるのに」
と嘆くしかない状態に、自分の運命を感じる親友だったのだ。
親友としては、
「かすみさえいなくなってくれたらな」
と思うようになったのも事実なのだが、それを思ったことが原因なのか、その親友が見ている前で、かすみは、交通事故に遭った。
もう少しで、車の下敷きになるところだったが、うまく身体をひねったことで、何とか助かったのだ。
ただ、この時は本当に偶然であり、しいていえば、
「反射神経のなせるわざ」
ではなかったか?
ということはいえただろう。
それでも、親友からすれば、
「私が変なことを思いさえしなければ」
という自己嫌悪に襲われていた。
実は、かすみも、人を憎んでよく自己嫌悪に陥ることが多かったので、同じように、自分を憎むことが少なくなかった。
結局、お互いに、
「似たところがある二人だ」
といっていいだろう。
そんな親友のことを、一時期、
「許せない」
と思っていると、少し冷静になってきてから、
「私は何に、こんなに怒っているんだろう?」
と思うようになってきた。
「男に対しての、未練はないはずだった。もちろん、腹が立っているので、怒りがこみあげてくるというのはあるのだろうが、それ以外に、何かムズムズしたものを感じていた」
と言えるだろう。
それが何なのか分からないので、腹が立つのを、親友のせいにして、自分の中途半端な気持ちに無理矢理にでも、正当性を結び付けようとしていたようだった。
そんな思いがあるからか、親友に対しての気持ちを少しで和らげると、
「あの男」
を思い出してしまうのだ。
それも、最初の、
「優しかった頃」
のあの男をである。
「憎んでいるはずなのに」
と思うと、余計に忘れられなくなるのだ。
そんな思いは、かすみに、
「自己嫌悪」
と、
「怒り」
を感じさせる。
その怒りが誰なのか?
ということになると、実際の怒りの矛先が誰になるのか、分からなくなってしまうのだった。
そう思うと、急に意識が遠のいていく自分を感じた。
そして、何かを思い出しそうになり、思い出そうとすると、
「激しい頭痛」
に襲われるのだった。
その頭痛というのは、
「昔、テレビで見た記憶喪失の人が、記憶を引っ張り出そうとしていると、それを妨げる激しい頭痛がしてくる」
というその光景を思い出したのだった。
記憶を失った人が、思い出そうとすると、頭痛がするというメカニズムを、その時、まだ少女だったかすみだったが、少女なりに考えたことは、今から思っても、的を得ていることだったように思えるのだった。
というのも、
「記憶を失うということは、それだけショッキングな経験をしたからであって、わざと、
「忘れよう」
としているのだろう。
それを思い出そうとするのだから、当然、
「生みの苦しみ」
のようなものがあり、思い出すためには、どうしても、避けて通れないものがあるのだということになるのではないだろうか?」
ということであった。
「生みの苦しみ」
というのは、少々大げさであるが、
「これくらいの大げさな表現でないと、この本当の苦しさは理解できないものではないか?」
ということであった。
かすみにとって、たまに起こる頭痛。それは、
「記憶の中から出てきそうで出てこない記憶であるが、今なら、少々の苦しみであれば、我慢できれば、思い出せるような気がする」
ということで、わざと、自分で、思い出そうとして試みるということをしているのであろう。
それを思うと、本当に、
「自分を抑えることができなくなりそうな気がする」
ということであった。
そんな状態で、一度だけではなく二度までも、おかしなことに巻き込まれたことで、記憶喪失状態を引き起こすことになると、そのうちに、二重人格だと思っていたことが、
「実は、躁鬱症ではないか?」
ということになったのだ。
というのは、かすみが、一度交通事故に遭ったことがあった。
後ろから走ってきた車に引っ掛けられたという状態で、そのまま衝撃で信号機の柱に打ち付けられ、そのまま倒れたことがあった。
その時、記憶喪失を発症したようで、病院で、精神科の先生に、記憶喪失の催眠療法を行ってもらっている時、
「どうもおかしい。普通の催眠療法がどうも聞いていないようだ」
ということが医者に分かったようだ、
医者がいうには、
「二重人格か、躁鬱症の状況がなければ、このように、催眠療法が効かないということはないはずなんだが」
ということであった。
「じゃあ、どちらの可能性が高いんですか?」
と、外科の医師に言われて、
「うーん、今のところ、どちらともいえないですね。少し状況を見てみないと」
と、精神科医は、そういうのだった。
「先生、どうなんですか?」
と、数日経ってから、精神科医は聞かれた。
黙っていると、外科医師が痺れを切らしたように、
「まあ、今のままだと、ケガの方もそれほどのこともないので、あと数日で退院させることになりそうなんですが、このまま退院させていいんですか?」
というので、
「分かりました。明日私の方で、少し調査してみましょう」
ということで、翌日、外科医に言われて、
「ちょっと、申し訳ないんですが、神経科医の方に行っていただけますか?」
と、外科医師に促されるままに、かすみは、精神科医の扉を叩くことになった。
精神科医は、彼女に何枚かのカードを見せてみたり、催眠術をかけるように、振り子を動かしてみたりした。
そのうち、実際に催眠術にかかってから、その先は、いつものような、夢の世界に入りこんでいた。
かすみは夢の中の意識で、
「この夢は覚めずに覚えている」
というような気がした。
ということは、
「私はこの夢を悪いことのように感じているのかも知れない」
と感じたが、もし、医者のいうように、
「二重人格」
なのか、
「躁鬱」
なのか?
と聞かれると、
「躁鬱の方が病気であり、そっちの方が、永遠に続いていきそうで、怖いのだった」
ということを考えると、
「やっぱり、躁鬱症か?」
と考えるようになった。
躁鬱症というのは、大まかにいれば、それぞれの症状を、周期的に繰り返すものであり、なかなか、そのスパイラルから抜け出すことはできない。しかし、何等かのきっかけで、急に抜け出すこともできるようで、
「その分、タイミングを計るのが大変なのだ」
ということだ。
こういう病気を持っている人は、自分でも、分かっていて、対処法も、
「本能で身についている」
ということが分かっているようだ。
結構内容が分かっているので、それ以上、どうしていいのか分からない。
「先が見えている現象」
といってもいいのかも知れない。
「躁状態から鬱状態」
あるいは、
「鬱状態から躁状態」
というのを繰り返すのだが、どちらかは、大体、いつ頃に変わるかということを、自覚できるものだというのが医者の話であった。
分かったからといって、それが、どのように影響したり、自分のためになるかというのは、最初は分からなかった。
しかし、
「病を知る」
ということが、
「こういう病気において大切なことである」
というのを教えられたということも、重要だった。
かすみの場合は、
「鬱状態から、躁状態になる時」
というのが、自分で分かっている時だということだった。
それまで、真っ暗なトンネルの中を走りながら、先の方から、白く光るおのが、まるで、後光が差してくるかのような眩しさに、それまでの薄暗さが多い被され、それまで感じていた、
「黄色い薄暗さが、さらに、明るい後光を際立たせている」
というようだった。
トンネルという鬱状態の中を走っていると、黄色い明かりが、一定間隔についていて、自分が、その車を運転しているのに、トンネル内で、
「下っているのか、上っているのか、それとも、水平に走っているのか?」
自分でもよく分からない。
自分で運転しているのだろうから、分かりそうなものだが、分かるという気配がないのだ。
制限速度、ギリギリで走っていると、自分が、どの位置にいるのかということが分かるのだ。
だから、制限速度ギリギリのところを走っているのが、一番いいはずなのに、まわりに車を意識してしまうと、
「必ず自分よりも、先に進もうとしているはずなので、遅い自分のスピードにイライラしてしまう」
と、いう気持ちと、
「まわりが、こちらの遅さに反応して、イライラしているのが伝わることで、
「いかに気を遣わなければいけないか?」
ということを考えてしまい、
「イライラから抜けられない」
という、
「負のスパイラル」
を感じるということになるのだった。
どっちにしても、襲ってくるスパイラルであるから、自分が、
「いかに、努力をしても、イライラを払しょくすることはできない」
と思うのだ。
努力をすればするほど、泥沼にはまり込む気持ちにさせられる。それは、当たり前のことであり、
「そんな状況を鬱状態」
というからであった。
努力が実を結ぶというのは、少なくとも、
「鬱状態以外の時のことだ」
といってしまうと、鬱状態では、
「実も蓋もない」
と言われるであろう。
鬱状態になった時、唯一の救いは、
「約2週間という期間を、何とかやり過ごすことができれば、躁状態がやってくる」
というものであった。
ただ、躁状態に入ったからといって、手放しで喜べるものではない。
「鬱状態からの躁状態」
という場合は、そう簡単に片づけられることではない。
鬱状態が若干は治っているのだが、尾を引いたまま躁状態になると、危険であるということも、よく言われていることだったのだ。
鬱状態では、実際に、
「ロクなことを考えない」
ということであったり、
「一つ悪いことを考えると、そこから、すべてが負のスパイラルとなって、どんどん最悪の方に考えてしまう」
ということであったり、
「不安というものが、凝縮され、まわりが全員敵に思えてくる」
などというような現象が代表的であろうか?
特に、まわりと話をしていて、全否定されるかのように感じ、全否定されることで、不安が煽られ、
「この世で起こっているすべてが、自分の責任だ」
という、まったく考えなくてもいいことを考えさせられたりする。
それがひどくなると、幻影を見たりすることに繋がっていくのではないだろうか?
ただ、そこまでくれば、
「鬱病からの派生」
ということではなく、
「鬱病が、他の精神疾患を誘発している」
という、まるで、
「合併症」
のような様相を呈してしまい、下手をすれば、
「今起こっている病気による現象は、明らかに病気だとは分かるのだが、それがどの病気か分からない」
というほど、複数の病気を患ってしまっているかのように、見えてくるのかも知れない。
そうなると、死と隣り合わせというような伝染病が流行った時など、そのワクチンの遊園順位として、最優先される、
「基礎疾患の持ち主」
というようなものとなるであろう。
実際に、伝染病による致死率の高さは、
「基礎疾患のある人」
と、
「老人」
ということになるのだろう。
さらに、老人よりも危なくて、さらに、基礎疾患がある人たちと、ほぼ同等といってよく、
「一番危険性があり、いなくなられると一番困る」
という存在である、
「医療従事者」
というものは、もちろん、最優先されるべきだ。ただ、老人や輝度疾患のある人のような、
「直接的な危険」
があるわけではないので、そのランク分けをする場合は、
「医療従事者」
というものだけは、別格だといってもいいだろう。
実際に、数年前に起こり、今では、若干ではあるが、勢力が落ちてきている、
「世界的なパンデミック」
であるが、まだ、患者は一定数いるのに、
「金を使いたくない」
という国家は、国民の命などどうでもいいと言わんばかりに、感染が少し収まってきたのをいいことに、
「マスクをしなくてもいい」
というお触れを出してみたり、
「国家の責任で、治療費やワクチンの国民負担をタダにしてきたが、これからは、普通の伝染病として、季節性インフルエンザ並みの対応にする」
という、
「ランクの引き下げ」
というものをやったが、大丈夫なのだろうか?
実際に、
「マスクの要不要は、本人の自主性に任される」
ということであるが、国民のほとんどは、まだマスクをしている。
そういう意味で、一般市民と、政府の温度差は、かなりのものがあるということで、そういう意味でも今の政府を信用できないと思っている国民がたくさんいるのだった、
「躁鬱症は、躁と鬱とが定期的に交互にやってくる」
ということで、必ず、
「躁から鬱」
そして、
「鬱から躁」
という状態ができてしまうというのが、常である、
そして、かすみの場合は、
「鬱から、躁に変わる時、自分のことが分かる気がする」
と思っている。
ということは、
「今、躁状態に変わったんだ」
ということが理解できる。
先生がいうには、
「その時が危険だ」
ということであった。
その理由というのが、
「躁状態というのは、ハイは状態であり、鬱状態とは反対に、身体がそれまでの、まったく動かない状態から、自由に動かせることができるようになり、下手をすると、何でもできるという分に考えることができる」
というところが、
「大前提だ」
というのである。
何事も、正反対の状態に向かう時というのは、必ず大なり小なりのリスクというものが伴うということになるのだ。
それが、特にこの、
「鬱状態から躁状態に向かう」
という時であった。
というのも、
「鬱状態が解放されてくるのだが、何しろ、ついさっきまで、肉体の疲れを伴うほどの、徹底的な自己否定の間に佇んでいただけに、自分がいきなり躁状態になったとしても、意識の中では、十分に、鬱状態は蠢いているわけである」
と言えるだろう。
そんな精神状態でありながら、肉体、精神的な状態としては、
「今なら何でもできる」
という情愛になっている。
つまり、意識と、身体精神的なことが支配する自分の状態とに、ギャップがあるということである。
だから、意識が、精神、肉体的なことが支配する状態に近づいて、関わってしまうと、「意識が、状態を凌駕する」
ということになるのだ。
そうなってしまうと、例えば、
「死にたい」
という鬱状態の意識の中で、
「何でもできる」
という躁状態における、精神、肉体的なことが支配する除隊を凌駕してしまうと、
「死にたいという感情が、何でもできる」
という状態と相まって、衝動的な行動に走ってしまいかねず、そのまま、
「死を選ぶ行動」
をしてしまわないとも限らない。
もっとも、これには、タイミングが重要で、よほどいいタイミングで重ならないと、本当に自殺に走るということはないだろう。
だが、それでも、危険な状態であることに変わりはない。
「危険な状態ほど、危うい状態に近づきかねない」
ということが言えるのではないだろうか?
それが最終的に厄介なことになりかけないという、意識と状態であるということには、変わりはないのだ。
この状態が、もっとも危険な状態だということを、果たして、どれだけの人が分かっているというのか、難しいところであった。
そんな、
「鬱から、躁状態への切り替わりの時」
というものの危険性を把握したうえで、さらに、
「鬱から躁への時期」
というものが分かっているのであれば、
「鬼に金棒」
といってもいいのだろうが、しょせんは、
「そこまででしかない」
ということも言えるのだ。
どれだけ気を付けて、意識したとしても、
「人間の力には限界がある」
ともいえることだろう。
そのことを考えると、
「それだけの、備えがあって、準備を怠らなかったとしても、死ぬ時は死ぬ」
ということである。
実際に、自殺未遂を、間一髪のところで止めて、何とか未遂で終わらせたとしても、油断していると、収容された病院から、こっそりと抜け出し、今度は高いビルの上からの飛び降りという、
「確実な方法」
によって、
「本懐を遂げた」
という人もいたりする。
「そういえば、昔のアイドルで、最初は助けられたけど、その日のうちに飛び降りたということもあったっけな」
ということを覚えている人も一定数いるだろう。
何しろ、そのアイドルの知名度からなどから、自殺したというだけでも、大きなニュースなのに、
「自殺を止めることが完全にはできなかった」
ということが大きなショックとなり、かなりの社会問題を引き起こした。
しかも、彼女の知名度から、
「後追い自殺が絶えなかった」
ということで、当時の国会でも、問題になったほどの事件だったのだ。
だから、自殺を止めることができたからといって、簡単に自殺を諦める人ばかりではないということである。
人によっては、
「死ぬ勇気など、そう何度も持てるものではない」
といっている人もいるが、まさにその通りなのだが、前述のように、
「鬱から躁に変わるタイミング」
のように、一度、食い止めることができたからといって、
「もうこれ以上自殺をしないだろう」
と思うことの方が、
「稀なのではないか?」
と感じるようになるのではないだろうか?
それだけ、死にたいと思う人の思いは、
「結構、強固なものではないか?」
と感じるのであった。
だから、自殺者というのは、減らないのだ。
自殺するには、いろいろな理由や状況があるだろう。そのほとんどの発想は、
「生きているよりも、死んだ方がマシだ」
と考えるから自殺に走るのだろう。
「生きていさえすれば、そのうちに、きっといいことがある」
などという、判で押した、三文芝居の脚本にあるようなセリフ、
「そんなことがないのは分かっているから、死のうとしてるんじゃないか。俺たちだって、生きていていいのなら、死にたくなんかないさ」
と思っていることだろう。
ただ、この鬱から躁に変わる時の、
「死にたい」
という気持ちには、きっと何か見えない力が働かないと、いくらその状況になったとしても、最後の最後となる行動をとるには、かなりの度胸がいるはずだ。
「背中を押す」
というような存在があるのではないだろうか?
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