第2話 躁鬱症?

 そんな思春期くらいの時期は、性別によって、さらには、個人差も働いてくるといってもいい。

 特に、男女差としては、女性の方が、身体的発育は圧倒的に早いと言われている。

 女の子の中には、小学生で、すでに初潮と迎えていたり、ブラジャーが必要な子もいるくらいではないか。

 男性が、肉体的に変化してくるのは、ほとんどが中学生に入ってからのことで、身長も男性よりも女性の方が、伸びるのが早かったりする。

 さらに、声変わりなど、男性は、中学に入ってからがほとんどで、女の子のような声の男の子もいるので、女の子の中に男の子が味っていたとしても、ピンとこないということが結構あったりするのではないだろうか?

 それを思うと、中学時代に先生の言っていた、

「女の子の方が発育が早いことが多い」

 というのも分からないでもない。

 ただこれは、大人になってからいうことはできない。

「セクハラだ」

 と言われるからだ。

「大人の世界は面倒臭そうだ」

 と言われるが、子供の世界ではそんな、わだかまりはない。

「高校生くらいになったら、意識しなければいけないのだろうか?」

 と考えてみたが、

「それはあくまでも、その時になって考えればいいことで、今余計なことを考える必要はない」

 ということであろう。

「子供時代には、子供の考え方がある」

 ということである。

「背伸びしたって、しょうがない」

 というくらいに考えていたのだ。

 だからなのだろうか?

 大人になるまで、自分が、

「どういう人間なのか?」

 ということを黄にはしていたが、必要以上に考えないようにしていた。

 ただ、それも、

「考えることが無駄だ」

 という考えだけではなく、考えることで、

「自分のことが分かるわけではない」

 と考えたからなのかも知れない。

「世の中には、ムダという言葉はそんなに存在しない」

 つまりは、

「無駄ということを考えること自体がムダなのだ」

 という、まるで禅問答のような考えがあるのも、かすみという女の子の性格でもあった。

 時々、

「何かを考えていると、堂々巡りを繰り返してしまう」

 と感じることがあった。

 行き着いたつもりでも、そこから先、

「違う方向に考えを巡らせている自分というものを考えているということだからだ」

 と考えるからだったのだ。

 自分のことを、

「二重人格だ」

 と考えている思いには、変わりはなかった。

 これは、

「躁鬱症と言われるようになってからも、二重人格には変わりはない」

 と思っている。

 そもそも、

「躁鬱症と二重人格とは、別のものである」

 と思っていたからだ。

 ただ、それだけではなく、

「相対するもの」

 ということで、その両方を一緒に見ることができないということで、

「躁の状態の時に鬱の状態が見えないのと同じ」

 であり、

「ジキルとハイド」

 のように、

「ジキルが出ている時はハイドは寝ていて、ジキルが寝ている時に、ハイドが暗躍している」

 というような感覚が、

「躁鬱症と、二重人格」

 というものの間に、ひしめいているということではないか?

 と考えるのであった。

 それが、かすみが、

「ひょっとして、自分は躁鬱なのではないか?」

 と考え始めた頃で、大学生になってからくらいのことであった。

 その思いを結構しばらく持っていたようで、自分に疑念を抱きながら過ごしていても、どこかで妥協というものはあるということだ。

 大学4年間が、

「アッという間にすぎた気がする」

 ということにいくつかの理由があるだろうが、その中で、確実に影響していることとして、

「私が、躁鬱の気を持っているからだ」

 と思ったからだろう。

 さすがに怖いのか、不安であれば、いつでもすぐに調べることをモットーのようにしていたのに、

「それだけ怖いということだろうか?」

 と感じるようになったのだった。

 躁鬱というものがどういうものなのか?

 改めて考える時期がその時やってきていたのだろう。

「躁鬱の気があるのではないか?」

 と感じるようになってきたのが、高校2年生の頃だった。

 かすみは、その頃になると、

「何か、怖い夢ばかりを見ているような気がするな?」

 と感じていたのだ。

 この間は、男に襲われる夢を見たのだが、実際に、

「危機一髪」

 というところで目が覚めた。

 そして、

「ああ、夢だったんだ?」

 と感じたが、その時に一緒に感じたのは、

「夢でよかった」

 という感情ではなかった。

「もし、あのまま行っていれば?」

 という感覚だったのだが、それは、自分が、

「危機一髪だった」

 という意識をしっかりと持っているということである。

 つまり、

「記憶を意識が、凌駕している」

 ということなのかも知れない。

 吊り橋を渡っていて、

「後少しで渡り切れる」

 ということで迎えた安心感だったはずなのに、

「結果とすれば、最悪だった」

 ということであり、実際に見えていたものと、まったく違ったものが、目の前に見えていたということになるのだろう。

 目標がまったく違っていれば、自分がいるはずの場所にも、自分で信憑性がないという気持ちになり、どうしていいか分からなくなってしまうのだろう。

 そんなことを考えていると、かすみは、

「時々、記憶が途切れてしまう」

 ということに気付くようになってきたのだった。

 記憶が途切れるというのは、

「覚えていることを思い出せない」

 ということであり、その理由が、

「途中にまったく分かっていない」

 あるいは、

「記憶をたがえてしまうような、まったく別の意識が存在していることで思い出せない」

 ということなのか?

 という考えであった。

 かすみは、

「後者の方だ」

 と自分で考えるのであった。

 なかなか病院にいくこともなかったのだが、その気にさせてくれたのが、

「その男性に襲われるという夢」

 だったのだ。

 というのも、実はこの夢、半分は、

「正夢」

 だったのだ。

 かすみは、その日、予備校にいつものように、夜に出かけて、帰り道でのことだった。

 その時は、まったく意識もしていないし、いくら、

「あんな夢を見たとしても、あれは、ただの怖い夢でしかない」

 としてしか思っていないので、自分でも、まったくと言っていいほど意識しているわけではなく、

「油断していた」

 といってもいいだろう、

 見た夢が、

「正夢ではないだろうか?」

 ということが分かっていなかったというわけではなかった。

 というのも、

「自分が、似たような目に遭ったことで、夢がフラッシュバックしてきた」

 ということだからであった。

 実際に、ひどい目には遭ったのかも知れないが、あくまでも、フラッシュバックが強かったことで、その感覚が倍増し、まるで、

「耽美主義」

 を見ているかのような気分にさせられたのだ。

「耽美主義」

 というのは、どういうことかというと、

「道徳やモラル、倫理などを度返しし、とにかく、美というものが何事にもおいて、優先される」

 という考え方である、

 モラルや道徳に優先するのだから、それが、犯罪であっても、関係ない。

 昔の探偵小説の中にあった、

「猟奇殺人」

 ということで、

「犯罪に美を持ち込む」

 という考えが蔓延っていた時代があったが、それも、十分な、

「耽美主義」

 というものである。

 ただ、問題は、

「美」

 というものが、

「人によって見え方が違っている」

 というのも、真実である。

「皆が皆、花は美しい」

 と思うだろうが、他のもので、

「自分が美しいと思うが、他の人には、気持ち悪いという見方しかできない人がいる」

 というのも真実である。

 また、

「美しいものに囲まれていれば、美しくないものでも、美しく見える」

 という考えから、

「殺人を、美への見立てとしての猟奇殺人というものが、探偵小説に描かれることだってある」

 ということである。

 探偵小説というもので、昔の、

「変格派」

 と呼ばれるものは、そういう猟奇犯罪えあったり、その一つとして、耽美主義のものが結構あったりする。

 その一つとして、

「性的なプレイ」

 として、

「SMの関係」

 というのもあったりした。

 例えば、緊縛というのも、

「美を追求する」

 ということで、今でも、SMクラブのようなところで、演じられていたりするではないか?

 SMというと、ムチやロウソク、手かせ足かせなどの道具を使うもの、もっといえば、浣腸などの尾籠なプレイもあり、一言で、語りつくせないものがある。

 そういう意味で、

「SMプレイを、耽美主義として、一括りにできるだろうか?」

 というのは、たぶん、性的な研究者であったり、小説家や、芸術家の間で、論議されるところであろう。

 それだけに、いっぱいあるもののどこまでが、

「美」

 なのかということを追求すること、それこそが、

「美の追求」

 なのではないか?

 と考えるのだ。

 探偵小説というと、ちょうど、大正時代の後期くらいから、昭和の戦後の混乱時期などによく書かれたものが多いだろう。

 さすがに。戦時中などは、出版管制のようなものがあって、

「探偵小説」

 のような俗世の小説は、廃刊と呼ばれていた、暗黒の時代があったので、なかなか、戦後の混乱でも、難しいジャンルではあっただろう。

 しかし、逆にそれだけ、おどろおどろしさとしては最高で、

「舞台は整った」

 といってもいいだろう。

 実際に、かすみは、その時代の探偵小説が好きだった。

 元々は、今でも、時々、放送される、

「有名な昭和の探偵」

 が活躍するサスペンスドラマを見て、その原作を読んでみると、

「嵌ってしまったのだ」

 もしこれが逆で、

「原作を読んでから、テレビを見たのであれば、かなりがっかりするだろう」

 と思えた。

 放送するために、シナリオを書くとなると、時代がかけ離れているために、

「あの時代をそのまま、放送してもいいのだろうか?」

 というものもある。

 何しろ、今のような、コンプライアンスの厳しい時代。今のコンプライアンスなど、

「何でもありだった」

 という時代である。

 もっとも、そんな時代がなければ、

「コンプライアンス違反」

 などと言って、そんなに騒がれることもないはずだ。

 何といっても、

「セクハラ」

「パワハラ」

「モラハラ」

 これらのものは、何でもありだった時代だ。

 しかも、学校では先生が生徒に対して、

「体罰」

 であったり、

「連帯責任」

 などという、一歩間違えれば、

「大日本帝国時代の旧日本軍」

 を思わせるのである。

 しかも、そんな風潮が、昭和の終わり頃まで続いたのだ。昭和というと、63年まであった(64年は、7日間だけ)わけで、戦争が終結したのが、昭和20.年、つまりは、40年近くあったということだ。

 昭和が終ってから、平成、令和と繋がるが、そお二つを合わせても、まだ、戦後から昭和の終わりまでには届いていない。

 それだけでも、昭和という時代は、復興であったり、好景気などといういい時代がありながら、少しずつ、アメリカの押しつけ民主主義が確立していったのかも知れない。

 ただし、世界情勢が、

「社会主義体制と民主主義体制の対立」

 と言われた、

「東西冷戦の時代」

 ということは忘れてはいけないということであった。

 しかも、東西冷戦の象徴だった、

「ソ連」

 さらに、

「ベルリンの壁」

 の二つが崩壊することで、東西冷戦は、なくなったのだった。

 その時代がちょうど、タイミングよく、昭和の終わりと、合致したということも、ただの偶然ということで片付けていいものだろうか?

 そんなことを考えていると。

 そんな昭和の時代を超えると、今度は平成となる。その時代になると、

「政府間の戦争」

 というよりも、

「超大国に対して、それぞれの国の、独立組織」

 と呼ばれる、

「ゲリラ部隊」

 と、国家との対立になってくる。

 相手が国家ではないので、国際法における、

「宣戦布告」

 であったり、

「国連軍を組織する」

 ということもできなかったりする。

 それでも、アメリカを中心として、軍を派遣したりしたが、実際には、

「弱い者いじめ」

 という様相を呈したところもあった。

 そんな時代背景があってから、平成に入ってから、学校などで、

「苛め」

 という問題が大きくなってきていた。

 確かに苛めというものは、それまでの

「苛め」

 と呼ばれるものとは明らかに違った。

 昔の苛めは、

「苛めっ子と、苛められっ子」

 という形で、明確になっていた。

 そして、苛める理由も、本人が分かっていないだけで、苛める側にはそれなりの理由があったりした。

 だから、和解する時も、お互いに分かり合って、大人の対応をできるようになっていたものなのだが、平成以降の苛めというのは、そんなものではなかった。

「誰が首謀者で、その理由もハッキリしているわけでもない。ムカつくから苛める」

 という形であり、もっといえば、

「苛める側も、学校の輪以外のところで、例えば親からであったり、世間から、冷たい目であったり、待遇を受けていることで、苛めというものをしてしまっている」

 というのが実情だったりする。

 だからといって、言い訳をしていいというわけではないのだが、そんな、

「負の連鎖」

 が存在するようになってきたのも、平成になってきてからだった。

 平成というと、時代としては、天災というものも多かったりした。

 特に日本では、大きな地震が続いたりして、さらに、大渇水があったりした時代があった。

 そんな頃、世の中がおかしくなってくるものなのだろうか。

「新興宗教団体」

 というものが起こした未曽有の犯罪もあったではないか。

「地下鉄に、毒ガスを撒く」

 という、日本だけに限らず世界的にも類を見ないと呼ばれた、大事件である。

「日本という国は、治安が安定した、住みやすい国だ」

 と言われていたものが、一気に崩壊した瞬間だっただろう。

 もっとも、この時代くらいから、日本で、叫ばれていた、

「○○神話」

 と呼ばれるものが、

「ことごとくウソだった」

 ということだったではないか。

 昭和末期の象徴と言われた、

「バブル経済」

 であったが、平成になってから、すぐに崩壊した。

 それまで言われていた、神話として、

「銀行不敗神話」

 というものがあった。

 というのは、

「銀行は絶対に潰れない」

 と言われていたのだ。

 バブル経済は、

「銀行が融資してくれて、その金がちゃんと利用されることで、経済が回っていき、そこで、利益がどんどん生まれる」

 という、まるで、算数のテストの満点のような時代が、このバブルの時代だったのだ。

「事業を拡大すればするほど、儲かる」

 というのが、この時代。

 だから、銀行も、

「たくさん融資すれば、それだけ利息で儲かる」

 ということで、どちらも、損がないという、そんな時代だったのだ。

 だが、一度歯車が狂ってしまうと、どうしようもなくなるというのが、いわゆる、

「自転車操業」

 というものであった。

 この、

「自転車操業」

 というのは、そもそもが、

「危ない商法」

 といってもいいだろう。

「儲かることを見越しての資金投入であり、もっといえば、それが仕入れのお金ということになるのだ」

 ということは、

「儲けがなければ、在庫になってしまい、仕入れた分のお金を返せなくなる」

 ということになる。

 もし、仕入を加工せずに販売できるものだとすれば、ワンチャン、

「返品」

 ということも考えられるが、基本、

「仕入れを加工せずに販売するものは、返品不可だったりするものが多い」

 ということであろう。

 賞味期限がながかったり、そもそも、そんなものがなく、老朽化だけの問題だったりする非食品などは、そんな返品不可だったりするだろう。

 そうなると、最初でつまずくことになる。

 だが、バブルの時代は、それでもうまく行っていたわけだから、今の時代しか知らない人からみれば、

「夢のような時代だった」

 といってもいいだろう。

 それを考えると、

 同じ自転車操業でも、

「バブル期と、それ以外の時期では、天と地ほどの違いがある」

 といってもいいだろう。

 そんな時代において、考えてみれば、

「誰も、バブルの崩壊というものを予想できなかったのか?」

 ということになるのだ。

「ひょっとすると、想像がついていた学者も結構いたかも知れない」

 しかし、それらの人は皆、

「政府かどこかの団体から、緘口令が敷かれ」、

「そんなことを言えば、世の中が混乱してしまう」

 ということで、誰も気付かないふりをしていたのかも知れない。

 そうだとすれば、緘口令を敷いた連中の罪は大きい。

 特に、

「銀行は絶対に潰れない」

 などということを言っていた連中にどれだけの罪があるというのか?

 それは、同じ平成でも、それから10年後くらいに起こったことで、政府の体制で、

「福祉や、年金などは、100年大丈夫だ」

 といった当時は人気があった政治家がいたが、実際には、10年もしないうちに破綻したということもある。

 さらに、同じ神話ということであれば、関西の震災の時、

「高速道路は、少々の地震では大丈夫」

 あるいは、東北の震災では、

「原発は大丈夫」

 と言われていた神話がことごとく崩れたではないか?

 確かに、

「想定外の大地震だった」

 といってしまえばそれまでなのだが、本当にそれだけでいいのだろうか?

 起こってしまったことは仕方がないとしたとしても、

「これから起きないようにいするにはどうすればいいか?」

 ということが大切なのである。

 実際に、関西の地震の後、

「耐震構造の見直し」

 ということで各自治体でいろいろ調査したが、そのほとんどが、どうしようもないものだったりして、結果として、ひどいものだった。

 だから、

「今後はそんなことのないように」

 ということで、しっかり検討し、耐震構造に乗っ取った対策を取ったはずなのに、十数年経って、今度は、関西で地震が起こると、

「なんと、耐震構造に達していない」

 ということで、

「崩れた建物があり、その下敷きになって、人が死んでしまった」

 という事件が起こった。

「同じ関西でこれはどういうことか?」

 と言われたが、関西なのかどうかということ以前に、

「全国一律で、見直しをやったり、出た結果に基づいて、対策が取られたのではなかったのか?」

 ということは、かつて全国一律で調べた時というのは、

「本当は全部調べたわけではなかった」

 ということを意味しているのではないか?

 関西で手抜きは許されないということだろうから、関西でこれでは、他の地域など、

「ほとんど、調査をしていないのではないか?」

 といっても過言ではないだろう。

 それを考えると、

「自治体というもの、政府というものが、どれほどいい加減か?」

 ということが分かるというものだ。

 ひょっとすれば、

「あの地震が、あまりにも想定外だったので、あれだけでかい地震なら、言い訳が聴くだろう。そういう意味では、今くらいでも、ちょうどいいのではないか?」

 ということで、再調査は、ほとんどいい加減だったのかも知れない。

「人の命を何だと思っているんだ?」

 と言いたい、

 しょせんは、金儲けの道具でしか、人を見ていないから、そういうことになるのではないだろうか?

 ということで、これは、あくまでも、政治にかかわることで、個人間ともなると、もっとドロドロしたものが蠢いているのかも知れない。

 そんなことを考えていると、

「世の中というものを、どのように考えればいいのか?」

 ということを考えさせられる。

 非常に、仰々しい発想だが、これは、かすみのくせとして、まずは、目の前のことを中心に考え、それによって、まわりを見ていこうとするよりも、逆に、一度全体を見ることで、どんどん、狭めて行こうと考えるところがあるからだ。

 その発想は、

「減算法」

 と、

「加算法」

 という考え方から、成り立っている。

 加算法と減算法では、

「加算法の方が攻撃的で、減算法の方が、防御に徹している」

 と、一般的に考えられるように思うのだが、かすみとしては、その逆で、

「減算法の方が、攻撃的だ」

 と思っているようだ。

 なぜなら、前に聴いた話であるが、

「将棋の隙のない布陣というのは、どういうものなのか分かるかね?」

 と聞かれた人が、

「分らない」

 と答えると、

「最初に並べた形なんだよ。一手差すごとに、そこに隙が生まれる」

 ということであった。

 つまりは、最初を満点と考えると、完全な減算法ではないだろうか?


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