第4話 石ころの存在

 そんな鬱状態の時、

「最近、自分のことがよく分からなくなることがある」

 と、よく感じるようになった。

 その間、自分が、

「記憶を失っていたのでは?」

 と感じることが、たまにあるということを感じていた。

 そんな時に、自分が、

「ひょっとして、誰かと出会っているのでは?」

 と感じることがあったが、覚えていないのだから、しょうがない。

 ひょっとすると、

「こんにちは」

 というように、相手に挨拶されて、

「キョトンとしてしまうような失礼なことになりはしないか?」

 と感じてしまっていた。

「そういえば、たまに、こっちを凝視していて、こっちがそれに、初めて気づいたかのような態度を取ると、急に慌てて目を逸らす」

 というようなことがあった。

 もし相手が、そのことを分かっていて、こちらに視線を投げているのだとすれば、

「実に申し訳ないことをしている」

 ということにあるのだ。

 それを考えると、

「記憶を失うというのは、それだけ、人に対して、失礼なことをしている」

 ということなのかも知れない。

 ただ、記憶を失うということを、わざとしているわけではないし、そもそも、そんなことをわざとして、自分に何のメリットがあるというのか?

 本当に何か記憶を喪失しないといけないという理由があるのであれば、それも仕方のないことだが、そうでないとするならば、どう考えればいいというのだろう?

 精神疾患が、子供の頃から続いているという友達がいるが、その友達がいうには、

「しょうがないものはしょうがない。ないものねだりをしても、自分が苦しいだけなので、ないものはないとして、どう自覚するか? ということが大切で、その自覚に、どれだけの覚悟がいるかということが必要なのかってことが、最近になってから、やっとわかってきたような気がするのよ」

 というのであった。

 その人の病気がどういうものであるのかということは、詳しくは分からなかったが、ただ、今すぐ何か治療のために、積極的な医療行為をしないといけないというわけではないようだ。

 本人がいう通り、

「覚悟を持った自覚」

 というものを持つことが、一つの通過点であるかのような症状に、

「長く付き合っていかなければいけないもの」

 ということで、逆に、

「積極的な治療法が、今のところないということで、このままずっと、前を向いていかなければいけない」

 ということになる。

「そんなことは当たり前じゃないか?」

 と言われるだろうが、

「当たり前のことを当たり前にできる世の中だとは、決して言えない」

 ということは、医者も言っていた。

 だから余計に、

「必要以上のことを考えるのが、時間の無駄だということを、自覚できるくらいに割り切れるようになるのも、大切なことだ」

 と医者もいうのであった。

 確かに、

「すべての時間が、必ずしも大切だとは言えない」

 ということは、自覚しないとピンとこないだろう。

 逆に自覚したことで、

「うんうん、よくわかった」

 と自覚できるのであろう。

 かすみは、自分が躁鬱状態の、

「精神疾患を患っている」

 と感じた時、それを簡単に受け入れることはできなかった。

「どうして、今になって、こんな症状になるんだろうか?」

 と考えた時、

「自分の運命」

 というものを呪いたくなった。

「だって、そうじゃないか? 私が何をしたというの? 他の人と同じように生きてきたのに、私だけ、こんなにつらい思いをしないといけないなんて」

 と感じたのだ。

 普通にしているつもりでも、

「急に何をやっても、うまくいかないような気がしてきたり」

 あるいは、

「まわりから、嘲笑われているか」

 のように見られたり、

「不安で仕方がない」

 という気持ちになったりしなければいけないのは、なぜなのか?

 そんなことを考えていると、

「どうして、自分だけ?」

 というところを感じられて仕方がないのだった。

 だから、まわりの人を近づけないという気持ちになり、一人でいることが多くなった。

 しかし、根本的には寂しい気持ちがあるのは当たり前なのに、なぜ、このような気持ちになるのか、そのギャップが大きかった。

 特に、不安で仕方がない時、この思いは強く、人と一緒にいても、まわりに誰もいなくなっても、どちらも不安というものから逃れることができない。

「だったら、どっちがいいのか?」

 ということになるのだろうが、結局、その結論は出るわけではなかった。

「私は自分の運命を受け入れるしかないのか?」

 と考えると、

「呪いたくなるほどの、運命を感じると、受け入れたくない気持ちになっていくのだ」

 という思いがこみ上げてくる。

「どうして、ここまで?」

 と考えると、一度不安を感じると、

「スパイラルに襲われてしまうということが、不安につながり、不安なことが、スパイラルを誘発する」

 と考えると、受け入れられないというのも、分からなくもないということであった。

 そんなことを考えていると、

「とにかく、一度一人になって考えないと、余計なことを考えない」

 と思い、一人になることを選ぼうとするのだが、一人になるということの恐ろしさというものが、

「今だから分かる」

 とも感じられるのだ。

「一人になりたい」

 という思いを抱きながら、一人になることの恐怖から、とてもではないが、自ら進んで一人になることを望むことはできなかった。

 一人になるということは、

「寂しさが寂しさを負う」

 ということ、さらに、

「不安が不安を募る」

 というように、辛さの原因が、さらに元々の原因であるという、まるで、

「マトリョシカ人形」

 のようなものだといえるのではないだろうか?

 寂しさも不安も、どちらも恐ろしいが、どちらかというと、

「不安」

 が恐ろしいのではないだろうか?

 積み重ねて募ってみると、倍増するくらいの辛さは、不安の方にある。

「ターゲットとしては、不安を取り除く」

 ということに絞る必要があるようだった。

 ということになると、ある程度の寂しさは、

「犠牲にしなければいけない」

 ということではないだろうか?

 そんな鬱状態の時、かすみは、一人の女性と知り合った。

 彼女の名前は、梶原つかさと言った。

 かすみは、その頃には、不安に苛まれる状態を嫌って、まわりの人を、

「断捨離」

 に走っていた。

 後になって、医者から聞いた話だと、

「躁鬱の時は、どうしても、不安が恐怖に変わった瞬間、まわりが怖くなり、距離を保つだけでは我慢できなくなることで、断捨離をしなければいけないことになる時期というのがあるんですよ」

 というではないか。

「恐怖というのは、一度襲い掛かってくると、払いのけることは難しくなるので、それ以前に、自分の中で整理できるだけの、土台を作っておかなければいけない」

 と思うのだ。

 それは、悪いことではないし、間違ってもいないだろう。

 しかし、問題は、そのやり方である。

「本来であれば、自分を助けてくれるはずの存在である人を断捨離してしまわないとも限らない」

 ということで、

「怖いと思ってしまうこともないともいえない」

 ということだろう。

 それを思うと恐ろしくなり、恐怖を感じることで、

「せっかくの断捨離だというのに」

 ということで、恐ろしくて何もできなくなるのだった。

 断捨離というものをしていくと、気が付けば、本当に残っている人は、ほとんどいなくなってしまった。

 残っている人の選択は間違っていなかった。

 というのも、我に返って考えた時、

「自分が残したい」

 と思っていたはずの人と、さほど変わりはなかったからだ。

「まるで正夢」

 という感覚に襲われるようで、

「知っている人のそのほとんどが、世の中で、自分が断捨離で残した人なのだ」

 というほどに思えてきて、

「それ以外の人たちは、もはや見えていない」

 というところまで感じるのだった。

「そばにいるはずなのに、見えていない」

 あるいは、

「見えているはずのものを意識することができない」

 という感覚を、

「石ころのようなものだ」

 と感じるようになっていた。

 石ころというものは、

「目の前にあって、そこにあるということは、視覚では捉えている」

 というはずなのに、

「そこに石ころがある」

 という意識を持つことができないのだという。

 普通に目の前にあるものであれば、視覚として、捉えることはできるだろう。それを、

「見えている」

 というのであるが、だからといって、

「そこにあるのは、石ころだ」

 という意識を持つことができるということではないようだ。

「視覚で捉えるということと、そこにあるものを意識する」

 ということは、

「感覚を脳に伝える、本能的な動作であるはずなのだが、石ころのようなものは、視覚が意識をつなげる」

 という一連の行動を妨げるものであったりする。

 ということは、

「視覚で捉える」

 ということと、

「意識する」

 ということは、一連ではあるが、そこに、必ずしも関連性はないということになるのではないだろうか?

 と言えるのだった。

 ということは、

「石ころのようなものの中にも、ひょっとすると、自分にとって大切なものもあるのではないか?」

 と考えてしまう。

 正常な精神状態であったとすれば、きっと、こんなことを考えたりしないだろう。

「自分にとっての石ころは、石ころでしかない」

 と思うからだ。

 それが自信をもって判断できるという、感覚で、そこに、躁鬱症における、

「大いなる不安」

 というものは存在しないことになる。

 それだけに、躁鬱症の時は、

「石ころ」

 というものが気になる。

 かすみは、そんな石ころのような存在を無意識のうちに感じようとしていた。

 そして、本来なら、石ころなどではない。自分にとっての大切な人として、

「見逃してはいけない人」

 というものがあるということを信じ、石ころにも意識を向けるようにしたのだった。

 その意識が、

「功を奏した」

 といってもいいのだろうが、少なくとも、その時は、自分に自信をもっていいと思うほどに、

「成功」

 というものを感じさせられたものだった。

 見逃してはいけないと思って、見逃さなかったものが、

「人間」

 ということだったから、

「自分の目に間違いはない」

 と感じ、

「石ころから見つけ出した、ダイアモンドの原石ともいうべきその人が、梶原つかさだったのだ」

 つかさというのは、絶えず、かすみを見ていた。

 そのことをかすみに告げると、

「何言ってるの。かすみは、自分で考えているほど、まわりに影響を与えているわけではないのよ。私には、まわりが皆かすみを意識しているのが分かった気がしたの。だから私も、負けてはいけないと必死に、かすみを見ていたのよ」

 というではないか。

「さすがにそこまで」

 とは思っていない。

「私は、まわりの意識しない人を皆、言葉は悪いけど、皆石ころだと思っていたのよ」

 と、つかさに告げるが、もちろん、自分の中で考えている、

「石ころ」

 というものが、何たるかということを話しておいたことで、つかさも、自分の中で理解することができたのだろう。

 と思うのだった。

 そもそも、かすみとつかさの出会いというのも、若干奇妙なものだった。

 その奇妙さがあってか、断捨離というものに掛けなくても、本来なら、

「フリーパス」

 で、つかさを選ぶことができるのだろうが、最初は、何と石ころ側に、彼女はいたのだ。

 だが、そのおかげで、

「つかさという女は、自分の意識に引っかかっているという感覚を、身に着けることができた」

 といっても過言ではないだろう。

 だから逆に、

「石ころという存在を意識することで、わざと。つかさを必要以上だと思うくらいに意識してしまうのだろう?」

 と思うのだった。

 つかさが、かすみの意識に引っかかった時、つかさも、同じように、かすみのことを意識の中に引っ掛けていたのだ。

「お互いに意識した時が一緒だったのではないだろうか?」

 と感じた。

 つまりは、

「相手の目で意識したのだとすれば、

「どちらかが先に意識したことで、相手が石ころの存在に気付き、次の瞬間には、石ころだと見られたことで、相手にこちらを見せるような感覚が働いたのか?」

 つまり、最初に石ころを意識して、2人が、お互いを意識するようになるまで、

「三段階必要なのではないか?」

 と、いうことになるのだろう。

 だが、実際には、そんなにたくさんの段階を必要としたわけではなく、元々の石ころを自分が意識するのと同じ感覚で、相手も意識をしてくれた。

 ということは、相手がこちらを意識するというのは、

「実際に感じている自分を見ているわけではないのか?」

 ということを考えた。

 一種の、

「パラレルワールド」

 というようなものであり、

「平行世界」

「平行宇宙」

 という、

「同じ世界線で、別の世界線が広がっているようなものだ」

 と言えるのではないだろうか?

 というのは、

「まったく同じに見える世界が、存在しているわけであるが、一般的に、次の瞬間というものが、有限なのか無限なのか?」

 ということを考えると、果たして、

「無限だ」

 と言えるだろうか?

 確かに理屈としては無限だと考える方がありえることであろう。

 例えば、

「合わせ鏡」

 という発想を考えた時である。

「自分の左右、あるいは、前後に鏡を置いた時、どのように見えるのか?」

 ということであるが、前後の場合は説明しやすいので、前後で考えるが、

「まずは、目の前に自分が写っているのを感じることができる。そして、その向こうには、自分の後ろの鏡が写っている。その後ろの鏡には、後ろ向きの自分が写っていて、その自分の正面を、目の前の鏡が映している」

 というような、一種の、ループに入っているのだった。

 その時、鏡は理論上は、

「無限」

 なのである。

 しかし、絶対的な無限であるはずの発想に、

「待った」

 を掛けるものがあるのだが、それが、

「限りなくゼロに近い」

 という発想であった。

 鏡に写っていく姿は、どんどん小さくなっていくが、最後には、ゼロになるわけではない。

 なぜなら、ゼロになるということは、

「そこで終わってしまう」

 ということであり、その瞬間、

「無限」

 という発想はなくなってしま。

 そして、この発想は、この世で起こる事象については、少なくとも、必ず言えるということではないか?

 ということなのである。

 この発想は、

「数学」

 いや、

「算数」

 というものの発想で考えることができる。

 いわゆる

「割り算」

「除算」

 というものであるが、

「整数に限って考えると、どんなに割って小さくなったとしても、決して答えがゼロになるものはない」

 ということである。

 あるとすれば、

「ゼロで割る」

 ということなのであろうが、この発想を実際にやってみると、

「理論的に、不可能である」

 という結論に至る。

 特にこれをコンピュータの世界でやると、コンピュータですら、求めることのできない回答だということで、

「除算例外」

 として、プログラムエラーが発生して、バグを引き起こすということになるのである。

 それが、

「無限への証明だ」

 と言えるだろう。

 普通に考えると、

「無限」

 などというものは、あり得ない。

 と考えられるのだろうが、こうやって、数学的に考えると、

「無限というものは存在しない」

 という証明をすることの方が難しいと言え、

「有限というものの証明」

 というのが、どれほど難しいものかとうことは、この、

「除算例外」

 というものを考えた時にいえるのではないだろうか?

 コンピューターが、

「不可能の言い訳」

 として、

「除算例外というものを儲けているのだ」

 とすると、

「無限というものを、果たして否定するには、どうすればいいのか?」

 ということで、

「この世に存在することの、例外を見つけるしかない」

 ということになるのだろう。

「ひょっとすると、多次元として存在しているものは、その例外が発生した時点で、どんどん、増えていくものではないか?」

 と考えられたのではないか?

「一次元に限界を感じると、二次元の発想。二次元というものに、限界を感じると、三次元の発想」

 たまたま、三次元が、我々のいる、

「縦横高さ」

 という基準を持った世界へとたどり着いただけで、その基準が、

「たまたまだ」

 ということになれば、

「それはそれでいいのではないか?」

 ということで、その時、三次元で一段落したのではないだろうか?

 しかし、科学者の研究において、三次元では説明がつかないことが起こってきたので、

「四次元」

 という発想が生まれてきたのではないだろうか?

 それは、偶然ということではなく、必然だったと、考えるのは、無理もないことなのであろう。


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