第16話 蹴落とし


 最初は「こんな若い子が、俺なんかに真剣になる訳がない」そう思っていたが、慣れとは恐ろしいもので、妻が逝ってしまった事で一気に美咲に気持ちが傾いた水野。


 今まで抑えていた欲望が一気に噴き出した。


 副病院長水野は美咲が平身低頭自分に尽くしてくれているのは、浮気癖の悪い夫に嫌気がさして自分に気持ちが傾いているからだと思った。


 一方の美咲にすれば迷惑な話。こんな20歳も年上の男との結婚なんか考えたこともない。


 只強いコンプレックスを払拭するためには、肩書が欲しかっただけなのだ。


 小さい頃から周りを見るにつけ、自分の家庭の異常さに「絶対にこんな泥沼から抜け出してやる」こうしてホストや水商売女の娘と揶揄されたくなくて、がむしゃらに頑張ってきた。


 女だてらに出世願望は人一倍強い美咲は、出世の為だったら何だって出来る。


 ★☆

 だが、話は思わぬ方向に進んで行く。

 そうなのだ。ここで思いもよらないアクシデントが起こった。それは水野の妻の死。通常ならば当然女性は男性より長生きする。


 そう思い水野との距離が縮まることなど絶対にありえないと思い、ご機嫌伺いをして喜ばせていたが、まさかこんなに早く妻が逝くとは思ってもいなかった。水野は若い美咲に狂い、美咲しか見えなくなっていた。


「美咲は俺と出世どっちが大事だい?」


「それは病院に勤務して行く以上は出世も大切ですが、でも……でも……出世というより……水野先生が、上り詰めるための協力がしたい。それだけなのです」


「お前は……お前は……本当に可愛い女だなぁ💛」そういいながら美咲を抱き寄せる


「ダメですよ。嗚呼……もう……水野先生とこうしていたいけど……ふっふっふ……もう時間が、奥様にバレたら大変でしょう」


「嗚呼……そうだが、妻は…妻は……病院に入院中で余命いくばくもない」


「それだったら尚更の事お側にいてあげて下さい」


「そうなのだが、今夜は美咲といたい。それから……もう舅も姑もいない。家に帰っても誰もいない」


「私も先生といたいわ……でもね……でも……私には子供がいるので……」

 

 美咲は教授になる為なら、水野にどんな 心をくすぐる甘い言葉もへっちゃらで言えたし、こびへつらい身も心も捧げる事も出来たが、それは水野に溺れたからではない。あくまでも出世するための手段にしか過ぎなかった。


 だが、意に反して水野は美咲に夢中になってしまった。


 ★☆

 美咲は、夫では埋められない寂しさを教授で穴埋めしていただけに過ぎない。1年の殆どを仕事に費やする夫は本当に、たまにしか帰って来ない。

 

 病院嫌いのジョーは、美咲は自分の命を守る為の保険くらいにしか思っていない。


 美咲は、こんな水野との関係なんか死んでも持ちたくなかった。夫さえ浮気せずに美咲だけを見つめて愛してくれさえすれば、何も欲しいモノは無かったのだ。


 だが、田村から夫の浮気現場を見せ付けられて全てが狂った。


 いつ夫から捨てられるかもしれないという恐怖。


 こうして仕事を取るしかなくなった美咲は、医学の階段を上り詰めようという思いに至った。

 それは当然自分の子供達を守らなくてはいけないのは当然の事だが、それより何より幸薄いまだ若い母を何としても守っていかなければいけないからだ。


 夫が妻美咲と離婚しない理由は、只々不整脈の発作やうつ病の時に側にいてくれないと困るので離婚しないだけの事。


(こんな危険な夫に私の全てを委ねて良い訳がない!)こうして益々仕事にのめりこんでいった美咲。


 (夫は旅先々で恋をして、まるで物珍しい料理の数々に舌鼓を打つように女をとっかえひっかえしている)あの田村から夫の実態を知らされてからというもの、興信所に調べさせている。


 美咲は、夫ジョ-をその様な色眼鏡でしか見る事が出来なくなっているが、実態はどうなのだろうか?

 確かに欲求が勝って浮気をすることはあるが、それはそれ。可愛い子供たちと妻美咲を心のより所にして心から愛していた。自分の命を守ってくれている妻を心から大切に思っている。


 只創作活動に焦りストレスを抱えているのは確かだ。


 この2人の考え方の食い違いから思わぬ方向に進んで行く。

 


 ★☆


 美咲は、水野から(越前医療センター)の病院長として福井に一緒に行こうと言われているが、全く行く気がない。


 そればかりか、水野との関係を何としても終わらせたいと頭を悩ませている。

 

 


 あの時は、絶対権力者水野を怒らせたら病院での居場所がなくなってしまう。そう思い付き従うしかなかった。


「君の未来は僕が握っている。ここで断れば君の出世の道は断たれたも同然だ。僕に任せて付いて来なさい」 



 更には美咲が脳動脈瘤の破裂を防ぐクリッピング手術の名医「神の手」と持て囃されている事への嫉妬は相当なもので、医局内でも足の引っ張り合いが水面下で横行していた。


 (強者を味方につけておかないと、この荒波をどうやって抜け出せようか!そして……ここで水野まで怒らせてしまったら完全に、この病院にいられなくなってしまう)


 大学病院ともなると医局人事だの派閥だの選挙だのとしがらみも多い。誰を味方に付けるかで選挙結果が変わってしまうから、偉い教授や医局長を味方につけてライバルの粗探しをして蹴落としてと、常に足の引っ張り合いをしている。


 敵はこちらの弱いところを突いてくる。


 確かあれは3年前の事だ。


 美咲が37歳で水野はまだその頃は教授だった。病院の患者だった26歳の木村という男は、姉の子供にオモチャを買ってやろうとデパ-トのオモチャ売り場で買い物をしていた。その時美咲も偶然その売り場で買い物をしていた。


 退院して半年経っていたが、2人はすぐに分かった。


 木村の方がお世話になった先生だったので先に声を掛けた。こうして偶然会ったので食事をしただけの事だったが、優秀な美咲を面白く思わない輩にとんでもない噂を流されてしまった。


 独身同士ならまだしも、美咲は既婚者で相手は独身の教員だ。


「小松先生はどうやら、患者だった木村さんと不倫しているようだ。銀座で食事をしているのを見かけた」


 その頃は既に水野副病院長とは深い中になっていたので水野に責められたが、全く根も葉もない噂で偶然にもバッタリ会っただけの事だった。


 だが、水野にすれば面白くない思いと、こんな噂で美咲の将来に傷が付くのを恐れた水野は早速美咲を呼んで話を聞いた。


「美咲君、患者さんとの不倫騒動の噂は本当の事なのかい?」


「イエイエ全くのデマです」


「だが、何度もスタッフが見たと証言している。一体どういうことだい?」

 水野はかなりご立腹の様子で口調を荒げて美咲に食い下がった。


「誤解するような真似をして誠にすみません。実は私の息子とあちらさんのお姉さんの息子さんが幼稚園が一緒という事もありまして、仲良くさせてもらっていまして、会ったりする事もあるだけです」


 この様に敵は美咲を蹴落とそうと、どんな些細な事でも見逃さず粗探しをして蹴落とそうと牙をむいてくる。


 この一件も水野の速やかな対処で難を逃れる事が出来た。

「君たち小松先生は教授の僕の仕事もよく手伝ってくれているが、聞きもしないで変な噂に惑わされてはダメですよ。あの患者さんの甥っ子さんと小松君の息子さんが幼稚園が一緒だから家族ぐるみの付き合いだったんだ」



 それでは誰がこのような噂を流したのか?


 それは、美咲と同じ医局にいた47歳の講師が噂を流していた。


 その医師は優秀な人物だが、人間関係を築くことが苦手な要領の悪い男だった。

10歳も年の離れた美咲に准教授の座を奪われて、この先の展望、教授になる夢が遥かに遠のいた事へ焦りと憎しみと嫉妬で、こんな根も葉もない噂を流した。


(確かに小松先生のクリッピング術は「神の手」と言われる腕前なのは分かる。その道に関しては知識豊富で手先、指先が器用かも知れないが、研究面ではさした業績も見受けられないのに……研究はこっちの方が上なのに……それなのに)男の嫉妬は怖い。



 それでも……水野がいなかったら大変なことになっていた。大火になる前に小火で消火できた。


 この様に水野がいたからこそ、この荒波、粗探しや蹴落とし、そして…常に足の引っ張り合いの汚い世界からのし上がる事が出来た。


 美咲は窮地に立たされている。


 夫ジョーの心の奥底も知らずに自暴自棄になり、水野に求められるがままに、水野との不倫に走った美咲。


 一方の水野は、只々余りの高い理想と高い目標を押し付ける病院長一家に疲れ果てて、嫌気がさして、美咲に救いを求めただけだったのだが、美咲に夢中になってしまった水野。


 美咲は、どの様な判断を下すのか?


 










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