第12話 教授選の裏側


 美咲は教授選に勝ち晴れて教授になった。だが、話は思わぬ方向に進んだ。

 

「小松先生はくも膜下出血の原因となる、脳動脈瘤の破裂を防ぐクリッピング術の名医「神の手」と騒がれているが、実際は失敗例も多々ある」


 実は……この話はあながち噓ではなかった。


 実は美咲の腕を見込んで患者の多くが、紹介状を持ってこの東都大学医学部附属病院に押し寄せていた。

 

 だが、美咲は准教授となって一段と忙しくなり、教授に付いて学生の講義、講演、学会等があり、また教授選に向けての準備が必要なため、論文執筆などに多くの時間を割くことになり、患者に付きっ切りになれないのが現状。だから美咲は初回診察しただけで後は、脳神経外科の担当医が診察することが多々あった。

 

 更には「神の手」と言われて久しいクリッピング術も、紹介状持参でやって来た患者の全てに関わっていなかった。その事実はもう1人同じ医局の准教授「橘医師」が一番よく知っていた。


 この橘准教授は基礎研究のiPS細胞 を用いてもやもや病の病態を探ることがテーマで、もやもや病は当科で力を入れている病気のひとつだが、原因不明の難病だ。その病態に焦点を当てた研究には高い成果を上げている准教授だった。


 それなのに、美咲が橘医師を差し置いて教授になったことが許されなくて、選考委員会に噂を吹聴したのかもしれない。


 ★☆


 教授は医局でトップの立場となり、50歳前後の医師が選ばれることが多い。教授になると診療に携わる時間は減り、講演会や論文執筆などで多忙になることが多い。



 教授の定年退職に伴い、次期教授には外部ではなく医局から准教授があがってほしいと、医局員の多くが熱望していた。対抗馬は旧帝大出身の新進気鋭の医師。研究業績は十分にあるが、臨床の実力は未知数。若くして脳神経外科のオピニオンリーダーとして活躍していた人物だ。一方、自分たちが専門としている基礎研究のiPS細胞 を用いてもやもや病の診療と研究を継続するには、内部の准教授が昇進するしか道はない。なにより、准教授の人柄の良さは前任の教授を遥かに上回っていた。


 医局長も橘と同じチ-ムなので医局員の意見をまとめ、教授選投票前に全医学部教授に挨拶に行くことを決めた。


「お忙しいところ失礼します。次の教授選ですが、うちの橘准教授をお願いします!」


 臨床の教室から基礎の教室まで、医局長は教授のアポイントメントを取り付け丁寧に挨拶回りを行った。


「分かっているよ」


「彼は評判が良いから」


「なにも心配しなくていい。私は彼に投票する」


 反応は想像以上だった。ほとんど全ての教授から「准教授に投票する」意向を聞くことができた。何も心配することはなかった。大学の教授陣は、やはり中のことを良く見ている。


 一抹の不安を抱えながらも、医局長はじめ当事者の橘准教授は朗報を待ちながらその日を迎えた。


 夕方を過ぎ、メールをチェックしていた准教授は頭を抱えた。


「ええええええマズイ」


 パソコンから顔を上げ、斜め向かいに座る医局長に声をかける。


「教授選負けたよ」


 医局はお通夜のように静まり返った。


 結果は惨敗。生え抜きの准教授は選ばれることなく、同じ医局の准教授小松先生が教授となった。


 教授選は恐ろしい。だれも本心を見いせない。腹の探り合い。表ではニコニコと笑顔を作りながら、裏ではしっかり算盤勘定を行う。建前の言葉に惑わされず、敵か味方かをきちんと見分けなければならない。



 ★☆

 教授選の票集めの手段はこのような方法だった。


 20時頃、橘は人気の少ない研究室へと移動し、軽く深呼吸をして誰かに電話を掛けた。事前に登録していたその先生の教室の番号を押す。


 プルルルルル

 プルルルルル


 2回ほど呼び出し音がなり、ガチャッと受話器を取る音が聞こえた。


「はい、免疫学教室の田代です」


「お久し振りです。橘です」


「ああ、先生どうも」


「お忙しい中、お電話致しましてすみません」


 学会で田代教授の発表を何度か聞いたことがあったが、とても紳士的な立ち振舞いは強く印象に残っていた。また研究会で座長を務めてくださった、あのときのあの先生の声は鮮明に覚えていた。実は……田代教授は地方の私立医大教授だが、実績が認められて東京の橘の医大病院の教授選の最終選考の3人に残っていた。


「先生が私共の大学の教授選で出ていらっしゃるとお話を伺いました。先生に我が医大病院に来ていただけたら私としては大変嬉しいです」


「ありがとうございます」


「ただ残念ながら、私は教授選考委員ではないのです」


「そうなんですね。でも、貴学に知り合いがいないので、先生が来て下さったら助かります」


「先生の力になります。なんでもおっしゃってください」


 橘は信頼できるこの優しそうな先生に話したことを喜んだ。とても協力的で良い先生だ。


「先生のように研究が出来て、研究費の稼げる先生が来てくれるのはうちの大学も大歓迎ですよ」


「そちらに決まった際はぜひ共同研究をお願いします」


「ぜひ」


 ここでわずかに田代教授の会話が途切れた。


「橘先生は研究実績といい、お人柄といい教授選には何の支障も見当たりません」


「と言いますと?」


「先日行われたうちの教授選ですが、実は……穏やかそうな先生だったのですが、その候補者のセクハラが発覚しまして」


「そんなことがあったんですか」


 ここ最近の教授選はパワハラやセクハラにとても厳しい。それがたとえ何年も前に起きたことだとしても、だ。


「先生はそのような様子は全く見受けられませんけど……」


 この意味深な言い方にドキッとし、すぐに否定をした。


「私はこれまでそういうことは一切ありません」


「それは見れば分かります。そんなことは疑っておりません」


 田代教授の笑い声が聞こえ、橘は一安心する。


 緊張も解け、思わず本音を語った橘。


「ぼくは手術がちょっと苦手というだけです。医局の人は気付いていないが、手が震えてしまって……」


「そうなんですか」


 笑いながら返事をする田代教授。


「はい。研究をメインでやっていたので」


「そのようにご謙遜を……うちの大学病院ではこれまで研究業績や知名度で教授が決まっていました。中々両方パーフェクトとはいきません。先生の業績があれば手術が得意でなくとも問題ないでしょう」


「ありがとうございます」


 橘は電話越しに深く頭を下げた。


 田代教授は最後まで丁寧な言葉使いで橘を応援してくれた。


「頑張ってください」そう言って電話が切れた。


 強い援護射撃を受けて大満足の橘。


 外様だろうが中には応援してくれる人物がいる。それが分かるだけで十分だった。政治やしがらみ、学閥も関係なく、純粋に業績で判断してくれる教授がいれば、きっと今回は大丈夫だろう。



 ★☆


 この電話をきっかけに、教授選考の大きな議題は「手術の腕」に決まった。


 どうして急に方向転換してしまったのか、確かに手術は最も大切な医療の1つだ。 それでもやはり研究も最も大切な未来に光を灯す重要なもの。この変わりようは只事ではない。手術件数が多ければ研究はそれほどできなくても良い。


 手術をしてないということは、臨床もできないということ。


 脳神経外科の診療は手術がもっとも重要。こういった間違った論調が広まった。


 弱点を晒した橘は、自分が不利な状況に置かれたことを知る事となった。


 味方のフリをした田代教授は水野副病院長と繋がっていた。

「今度の教授選は私に任せなさい。田代くん、他にはなにか聞いてないか?」


「そうですね、次に連絡が来た時にさらなる弱点を探っておきます」


「また何かあれば報告してくれ。教授選、私の方から選考委員長に田代くんを推薦しておくよ」これは副病院長水野の言葉だ。


 こうして田代は「国立東都医学部附属病院」の内科教授の椅子を勝ち取った。


「ありがとうございます。振り返れば先生にはお世話になりっぱなしです。私がここの教授に決まったのも水野先生のおかげです」








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