第68話 最悪のパターン

 ルーカスは、エリアを抱えたまま検査室に直行した。

 検査室の前でのベンチでは、ノアが項垂うなだれていた。


「ノア!」


 エリアが駆け寄っていく。


「エリア、ルーカスさん……」

「お姉ちゃんは⁉︎」

「まだ検査中だよ」


 ノアの声は弱々しい。

 ルーカスは二度ほどしか彼と会っていないが、憔悴しょうすいしているのは見てとれた。


「そっか……」

「ごめんっ……ずっとそばにいたのに、異変にも気づけなくてっ……!」


 ノアが唇を噛みしめた。

 その拳は硬く握りしめられていた。


「ううん、ノアは悪くないよっ!」


 エリアが励ますが、ノアの表情は曇ったままだ。

 思考が悪い方、悪い方へと転がってしまっているのだろう。


 できれば意識を別の事に向けさせてやりたいが、現状ではそうもいかない。


「ノア」


 ルーカスは、あえてゆっくりと話しかけた。

 顔を上げたノアの瞳には、雫が溜まっていた。


「エリアの言う通り、お前は何も悪くない。まだ検査中だ。気を確かに持て」

「……はい、すみません」

「謝らなくていい。すまないが、状況をできるだけ詳しく教えてくれ」

「はい……」


 昼の検査では異常は見当たらなかった事、二人で料理をした事。

 そして、告白をして無事に恋仲になった事。


 ノアは時折気持ちを落ち着けるように深呼吸を挟みながら、静かな口調で話した。


「お風呂に入るまでは普通でした。上がった直後も少しのぼせている程度で、いつもより長風呂だったため、特に違和感は抱きませんでした。でも、その直後に突然倒れて血を吐いて、呼吸も苦しそうになっていって……ここに来るまでにも何度か吐いていて、到着する頃には意思疎通もままならなくなっていました」

「そんなっ……!」


 エリアが両手で口元を覆った。

 その瞳から、涙があふれる。


「エリア……」


 ルーカスが視線を向けると、シャーロットの双子の妹は、すがるような視線を向けてきた。


「いきなり血を吐いて倒れるって……! 師匠っ、お姉ちゃんは……お姉ちゃんは大丈夫ですよね⁉︎」

「……わからねえ」


 そうとしか、答えられなかった。

 シャーロットの容態が急変した理由として考えられるのは、大きく分けて三パターン。


 一つ目は、昼の検査では見つけられなかったほどの小さな異常が原因である場合。

 だが、ハンナでも見つけられないほどのものであるならば、ここまで急変するのは不自然だ。


 二つ目は、そのハンナの検査に見落としがあった場合。

 シャーロットの容態的にはこれが一番ありがたいパターンだが、人柄も腕も信頼しているからこそ、ルーカスはハンナにシャーロットを託した。

 そんな些細なミスをするとは思えない。


 そして三つ目は、ハンナでも見つけられない、体調が急変してもおかしくない異常がある場合。

 すなわち、魔法構造自体に傷がついている場合だ。


 魔法構造は、内臓の制御や血液の循環などを司る、生命活動の根幹だ。

 魔法構造が傷つく事など普通はないし、【統一とういつ】を使ったとしても確率は低い。


 だが、シャーロットは全力を出し、さらにはケラベルスに手痛いダメージを喰らっている。

 魔法構造に異常をきたしている可能性も、ないとは言えなかった。


 一番最悪なのはこの三番目のパターンだが、一番可能性が高いのもそれだった。

 容態の急変は、魔法構造に傷がついている者によく見られるのだ。


 皮が剥けても数日で再生するように、魔法構造にも自己修復機能があり、それが間に合っているうちは異常は表面化しない。

 追いつかなくなった時に初めて、体調に異変が起こる。


 そうなると、魔法構造はその異変に対処しなければならなくなり、他の臓器やら器官やらの制御ができなくなる。

 こうして、容態が一気に急変するのだ。


 正直、魔法構造自体に傷がついているなら、助かる見込みはない。

 何もしなければまず間違いなく死ぬだろうし、魔法構造への干渉は、干渉する側にもされる側にも大きな負荷がかかる。

 その負荷は、心中に使われるほど大きなものだ。

 今のシャーロットには、とても耐え切れるものではない。


 間違ってもノアとエリアの前で口にはしないが、ルーカスはシャーロットの死すらも覚悟していた。

 だから、大丈夫だと断言する事など、間違ってもできなかった。


「お姉ちゃんっ……!」


 エリアは顔を覆って涙を流していた。

 ノアも一見冷静さを保っているように見えるが、その顔色は蒼白で、唇も色を失い、瞳は不安げに揺れている。


 恋仲になったばかりの彼女が重体で、さらにノアはシャーロットが【統一】を使う事になった直接の要因。

 その精神的ショックは計り知れない。

 むしろよく、まだ正気を保っていられるものだ。


 ルーカスには、二人を安心させてやる事はできない。

 だが、励ましてやる事ならできる。

 たとえ気休め程度のものであったとしても、それがこの場にいる唯一の大人としての責任だとも思った。


「エリア」


 ルーカスが声をかければ、エリアはのろのろと顔を上げた。

 その目元は赤くなっていた。


「俺がお前に魔法を教え始めた頃の修行、覚えているか?」

「えっ……? はい、まあ」


 エリアは困惑しつつも頷いた。


「きつかったか?」

「そうですね。あの時が過去一キツかったと思いますが……それがどうしたのですか?」


 エリアの声にはとげがあった。

 精神的に追い詰められている時に、一見関係ない話をされているのだ。

 苛立って当然だろう。


「シャーロットに最初に課した修行は、お前の二倍だった」


 エリアが目を見開いて驚きを露わにした。

 彼女に魔法を教え始めたのは、シャーロットの師匠になってから半年後の事だ。


「暴走障害を持った貴族のガキなんざ、面倒事の匂いしかしねえからな。さっさと音を上げさせてやろうとした。だが、あいつは死にそうになりながらも弱音一つ吐かずにやり遂げた。そんな根性バカが、こんなところでくたばるはずがないだろう」

「っ……!」


 エリアがハッと目を見開いた。


「ノアもだ。シャーロットを信じろ、お前の彼女だろう」

「……そうですね」


 ノアの瞳にも、わずかながら光が戻る。


「俺らには何もできないかもしれねえが、信じる事はできる。信じても何も変わらないかもしれねえ。というより、変わらねえだろう。それでも、信じないよりはマシなはずだ」

「はい」

「そうですよね。私たちが信じてあげないと」


 ノアとエリアの顔色がいくぶんマシになったところで、イーサンが姿を見せた。

 テイラー家の執事は、エリアの顔を見て口元を緩めた。


「あっ、イーサン。お姉ちゃんはまだ検査中だよ」

「そのようですな」

「ごめんね。途中で置いてっちゃって」

「いえいえ、ルーカスさんが拉致しただけですから、エリア様に責任はございませぬ」

「おい」


 ルーカスはイーサンを睨みつけた。


「人聞き悪い言い方してんじゃねぇ」

「何? エリア、ルーカスさんに拉致られたの?」


 ノアまで話に乗ってくる。


「そうなの。いきなり車の横に降り立ったと思ったら、扉開けて私の事を引っ張り出して空飛んで。で、さっき二人で到着したの」

「傍から見れば完全なる誘拐じゃん。僕がその場にいたら警察に通報していますよ」

「はっ、警察ごときが俺を捕まえられるわけねえだろうが」

「師匠、そこじゃないです」


 エリアのツッコミにノアとイーサンが肩を揺らし、その場の空気は軽くなった。

 しかし、それは一瞬だけだった。


 検査室の扉が開かれると、全員の顔に緊張が走った。

 ハンナが出てくる。顔色は蒼白だった。


「ハンナ。検査の結果は」


 ルーカスの問いに、ハンナは震える声で答えた。


「くまなく検査をしたのですが……シャーロットさんのどこにも、異常は見当たりませんでしたっ……!」


 拳を握りしめるハンナの瞳から、一筋の雫が流れ落ちた。


 異常なし。

 これまでは——シャーロットが健康だった時は——待ち望んでいたが、今はもっとも聞きたくない言葉だった。


 ハンナが異常を発見できないという事は、彼女の目が届かないところ、すなわち魔法構造そのものに異常があるという事だからだ。

 打つ手なし。

 シャーロットを救える可能性は、無に等しくなった。


「そ……ん、な……」


 エリアが崩れ落ちた。

 イーサンがその側に駆け寄る。


「エリア様……」

「嘘でしょっ……お姉ちゃんっ、お姉ちゃんっ……!」


 エリアは人目をはばからずに大声で泣き叫んだ。


 ルーカスは必死に考えを巡らせた。

 噛みしめた唇から血を流している事にも気づかずに。


 しかし、解決法など見つかるはずもなかった。

 当然だ。対象に負荷をかけないまま魔法構造治を治す事など、不可能なのだから。


(そういえば、ノアは大丈夫か?)


 ハンナの報告以降、一言も発していないノアの事が心配になり、ルーカスが視線を向けた瞬間、


 ノアがハンナに詰め寄り、その胸ぐらを掴み上げた。

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