第66話 天国から地獄へ

「もう……待たせすぎですよ」


 シャルが腕の中から抗議してくる。

 ……待っててくれたんだ。

 どうしよう。一応不満を言われてるはずなのに、ニヤけが抑えられない。


「ごめんね。でも、どうせならこういう記念日にしたくてさ」

「そういう事なら許してあげますけど、不安だったんですからね? ノア君が実はただの女たらしなんじゃないかって、疑ったりもしましたし」

「まさか。シャル以外の人にこんな事はしないよ。好きだからしてるだけ」

「っ……そういうところが女たらしだと言われるんですっ」


 シャルが頬を染め、胸をつねってくる。

 先程の叩いてきた時とは違い、しっかりと力が込められていた。


「痛い痛い。なんかつねるの上手くなってない?」

「いっぱいつねらなきゃいけない人がいるもので」


 シャルがクスッと笑った。

 イタズラが成功した子供のような、大変可愛らしい無邪気な笑みだ。


 今、僕は幸せだ。言うまでもなく、幸せの絶頂だ。

 しかし、はたと気づいてしまった。


「……ねぇ、付き合う前と後で、全くやってる事が変わってない気がするんだけど」

「……そもそも、これまでがおかしかったんですよ」


 シャルが恥ずかしげに目線を逸らしながら呟いた。


「間違いない。けど、ちゃんと一線は守ってたもんね」

「守ってたと言えるのでしょうか……」

「言えるよ。だって、こんな事はしてなかったじゃん?」


 僕はシャルを力強く抱き寄せ、その耳元に口を近づけて、


「——大好きだよ」

「ふえっ⁉︎」


 シャルが素っ頓狂な声をあげた。

 その頬がグラデーションのように赤に染まっていく。


「い、いきなり何を言うのですかっ!」

「好きなんだからしょうがないじゃん。僕の誕生日の時も、すまでは言いかけちゃってたんだよ?」

「そ、そうだったのですか……」


 その口元はゆるゆるになっているものの、シャルは澄ましてみせていた。

 その余裕を取っ払いたくなる。


「それに、ハグまではしていても、ここには何もしてなかったしね」

「っ〜!」


 シャルの唇に手を当ててゆっくりとなぞれば、彼女は再び熟れたリンゴのように真っ赤になった。

 やばい。キスしたい衝動が抑えられない。


「シャル……いい?」

「あの、そのっ、えっと……!」


 わたわたと一通り慌てふためいた後——、

 シャルは、こくんと頷いた。


 その背中と後頭部に手を回せば、シャルの両手が僕の首に回された。

 ゆっくり、自分の唇を彼女のそれに近づける。


 触れ合う直前、シャルの手が僕の胸を押した。

 無視して唇を奪う事は容易だっただろう。

 それくらい、弱い力だった。


 しかし同時にそれは、シャルの明確な拒絶の意思だった。

 浮かれていた熱がスッと引いていく。


「嫌……だった?」


 僕はおそるおそる尋ねた。

 シャルは勢いよく首を振った。もちろん、横に。


「そ、そんな事はありませんっ! ただ、その……は、恥ずかしくてっ……」


 シャルの瞳はうるみ、耳まで真っ赤に染まっていた。

 嘘でない事は明白だった。

 僕はホッと胸を撫で下ろした。


「良かった……嫌がられてたら一週間は絶食してたよ」

「すみません……あの、本当に嫌ではないのですっ! ただ、いきなり唇は恥ずかしくてっ……」

「そっか」


 残念ではあるが、無理強いさせるつもりはない。

 ただ、これまでずっと我慢してきた反動か、欲求は簡単に収まってはくれなかった。


「じゃあさ、唇以外ならいい?」

「は、はい……多分、大丈夫です」


 シャルの肩に手を置く。

 顔を近づけると、彼女はぎゅっと目をつむったが、先程のように抵抗はしてこなかった。


 その柔らかい頬にそっと唇を当てる。


「あっ……」


 シャルがつやっぽい声を出した。

 唇を離すと、彼女は力が抜けたように倒れ込んできた。


「大丈夫?」

「何とか……ただ、いきなり何回もされると、昇天してしまいそうです」


 シャルの口調はどこかふわふわしていて、表情は夢見心地だった。

 瞳もとろけてしまっている。

 なるほど。これは本当に昇天しそうだ。


「わかった。少しずつ慣れていこう」

「はい……すみません、こんなところで物怖じしてしまって」

「気にしないで」


 眉を下げてしょんぼりとするシャルの頭を撫でる。


「むしろ、今のを耐えられただけでもすごいよ」

「えっ?」

「ほっぺすらも無理な可能性だってあると思ってたからね。シャル、ヘタレだから」

「なっ……!」


 僕がニヤリと笑いかければ、シャルの頬が再び真っ赤に染まった。

 きっと、その意味合いは先程とは異なるけど。


「あはは、冗談だって。揶揄からかってごめ——」


 ——チュッ。

 すぐ横から軽やかなリップ音。頬には、熱を持った柔らかい感触。

 まさか——?


 そろそろとシャルに目を向けると、彼女は真っ赤に染まった顔を隠してプルプルと震えていた。


「しゃ、シャルっ? 今のは——」

「う、うるさいです! お風呂入ってきます、ノア君のばか!」


 それだけを言い残して、シャルはリビングを出て行ってしまった。

 引き止める間もなかった。


 バタンと勢いよく扉が閉められる。

 ただの照れ隠しである事はわかっているので不安にはならないが、もう少しイチャイチャしたかったな、という名残惜しさはあった。


 だが、結果としてはこれで良かったのかもしれない。


「ふぅ……」


 僕は長く息を吐き出した。

 頬に溜まった熱を、外に逃すように。


「格好悪いなぁ……」


 苦笑いを浮かべる。

 フォローのためとはいえシャルの事をあおったのに、同じように頬にキスをされただけでこんなに照れてしまうとは、情けない限りだ。

 あの様子だと、おそらくバレてはいないだろうが。


「……いや、さっきのは予想外の不意打ちを喰らっただけだから。まさかあそこで反撃してくるとは微塵みじんも思ってなかったから、仕方なかったんだ、うん」


 誰に対してかわからない言い訳を並べ立てた後、僕は浮き足立っている心を鎮めるために、机に置いてあった本を手に取った。




 シャルが再びリビングに姿を見せたのは、それから一時間後の事だった。

 いつもより長風呂だったせいか、顔が赤い。

 足取りも少しおぼつかないようだ。


「シャル、大丈夫? のぼせた?」

「はい……頭がふわふわします」

「もう、長く入りすぎだよ。取りあえず座って」


 シャルを支えてソファーに座らせる。

 彼女の体は火照っており、熱を持っていた。


「水持ってくるよ」

「はい……ありがとうございます」


 シャルが弱々しく微笑んだ。

 この時はまだ、水分補給さえしっかりすれば大丈夫だろうと思っていた。


 ——ドサッ。

 水を用意している最中、何かが地面に落下した音がした。


「シャル? どうしたの?」


 返事がない。

 何かあったのか。

 動悸どうきが早くなる。


「シャル、大丈夫——シャルっ⁉︎」


 台所からリビングの様子を見ると、シャルがソファーから転げ落ちていた。

 慌てて駆け寄り、抱き起こす。

 呼吸が荒い。


「シャルっ、しっかりして! 大丈夫⁉︎」

「す、すみません……少し体調が悪くて……ゴホッ、ゴホッ!」


 シャルが激しく咳き込む。

 口元を抑えていた彼女の手は、真っ赤に染まっていた。


 ……えっ、血? はっ?

 頭が真っ白になる。


統一とういつ】を使った魔法師が、その直後は元気だったのに三日後に急死した、なんて話もある——。


 ルーカスの言葉が、脳裏によみがえった。

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