夢行き列車、始発駅
島原大知
本編
第1章
雨に濡れた線路が、灰色の空の下で冷たく光っている。梅雨空を切り裂くように、電車が音を立てて夜の町を走り抜けていく。
車内に漂うのは、雨に濡れたコートの匂いと、乗客の疲れ切った沈黙。誰もが、ただ家路を急ぐ。
最後尾の車両で、速水夏樹は虚ろな目で窓の外を眺めていた。不規則に点滅する街灯に照らされ、ガタゴトと揺れるドア横の手すり。それらは、いつもと変わらぬ光景なのに、今夜はどこか違って見える。
ブルートレインと呼ばれるこの特急列車は、都心と地方都市を結ぶ。昼間は華やかなビジネスマンや家族連れでにぎわうが、終電近くになると人影もまばらだ。
ドアが開閉する度に流れ込む湿った空気に、夏樹は目を細めた。過ぎ去った駅の名残りのアナウンスが、虚しく車内に響く。
「次は、南田十字駅、南田十字駅です...」
南田十字。この駅で降りれば、いつものように路地裏の安酒場へ。仕事の愚痴を肴に、安い酒を煽るのが日課だった。でも今夜は、そんな気分にもなれない。
ドアが開き、ホームに出る乗客の後ろ姿を、夏樹は見送る。改札を抜けて、雨の中に消えていく人波。その向こうに、ぼんやりと浮かぶ南田十字の町並み。
雨に煙る夜の街は、まるで古い白黒写真のようだ。情感のかけらもない、鉛色の世界。夏樹自身が、その絵の中に取り残されたような錯覚すら覚える。
ドアが閉まり、すいっと電車が動き出す。南田十字の駅が、瞬く間に闇に飲まれていく。置いていかれる感覚に、夏樹は思わず目を閉じた。
そして、ふと気づく。向かいの席に、見慣れぬ少女が佇んでいる。
彼女は、窓越しに雨の軌跡を指でなぞっていた。色素の薄い頬に、雨粒を追う指先。その仕草は、まるで車窓に広がる鉛色の世界に、何かを見出そうとしているかのようだ。
「南田十字から、どこまで行くんでしょう...この電車」
フと漏らした彼女の言葉に、夏樹は息を呑んだ。南田十字から先? 終点は知っているが、自分の人生の行き着く先なんて、見当もつかない。
「難しい質問だね。電車はレールの上を、ただ真っ直ぐに進むだけだ」
そう答える夏樹に、彼女は静かに目を細める。
「でも、レールだって続いているだけじゃない。いつか、分岐点が来るはず...」
分岐点。夢に挫折した夏樹には、あまりに重たい言葉だ。
「君は、どこへ向かっているんだい? こんな夜更けに」
「探しているんです。私の行く末を」
夏樹は思わず、胸の内で呟いた。君も、迷子なのか。夢を見失った、心の迷子が。
二人の思いは、雨音にかき消されて、ブルートレインはただ闇を切り裂いていく。濡れたレールの上を、夜明けが訪れるその時まで。
第2章
レールの継ぎ目を通過する度に、車内に規則的な音が響く。カタン、カタン、と刻まれるリズムは、まるで時計の針のようだ。
いつの間にか、雨脚は弱まっていた。車窓の向こうに、ぼんやりと夜明けの光が差している。
夏樹と少女は、まるで永遠に続くかのように感じられた夜の中で、言葉を交わし続けていた。互いの孤独や、かつて抱いた夢。そして、いつしか見失ってしまった人生の意味。
彼女の瞳は、夜明けの光を反射して、神秘的な輝きを放っている。その眼差しに見入りながら、夏樹は自問する。自分は、何を探し求めてここにいるのだろう。
「ねえ、あなたの夢は、どんなものだったの?」
少女の問いかけに、夏樹は一瞬、言葉を失った。
「小説を書くことだった。でも、いつの間にか、そんな夢も忘れてしまった」
夏樹の言葉に、少女は何かを思い出したように、小さく頷く。
「夢を忘れるなんて、悲しいことですね。でも、忘れたわけじゃない。ただ、迷子になっているだけ」
迷子。その言葉が、夏樹の心に突き刺さる。
「君は、何を探しているんだい?」
「私? 私は、届けなければならない手紙を探しているの」
そう言って、少女は自分の鞄を開け、一通の手紙を取り出した。
「夏樹さん、お願いがあります。この手紙を、私の代わりに届けてくれませんか?」
夏樹は戸惑いながらも、手紙を受け取る。
「でも、どうして僕に?」
「あなたなら、きっと理解してくれると思ったから」
少女はそう言うと、にっこりと微笑んだ。その笑顔に、夏樹は不思議な安らぎを覚える。
そのとき、アナウンスが車内に響いた。
「次は、終点の新見岳駅です。お客様のお降りはありませんでしょうか」
終点。レールの終わりに、何が待っているのだろう。
少女は立ち上がると、夏樹に手を差し出した。
「さあ、行きましょう。あなたの、新しい旅の始まりです」
夏樹は少女の手を取り、立ち上がる。二人は電車を降りると、プラットホームに佇んだ。
車窓から差し込む朝日が、ホームを温かく照らしている。線路の向こうに、果てしなく広がる地平線。まるで、新しい世界への入り口のようだ。
「君の名前は?」
ふと、夏樹がそう尋ねると、少女は振り返り、柔らかく微笑んだ。
「美羽です。相沢美羽」
美羽。その名前を、夏樹は胸に刻んだ。
「夏樹さん、手紙の宛先、見てください」
そう促され、夏樹は手紙の宛名に目を向ける。そこには、信じられない文字が記されていた。
『速水夏樹様』
自分の名前が、そこにあった。
「これは、どういうこと?」
戸惑う夏樹に、美羽は静かに告げる。
「あなた自身への手紙なのです。過去のあなたから、今のあなたへ」
夏樹の目に、涙が滲んだ。
朝日を浴びた線路が、遠くまで伸びている。その先に、新しい人生が待っているのかもしれない。
美羽の手を握りしめ、夏樹はゆっくりと歩き出した。過去からの手紙を胸に、新たな旅路へと。
第3章
ホームに立ちつくす夏樹の手には、一通の手紙が握られていた。自分宛ての手紙。過去の自分から、今の自分への手紙。
美羽は、そっと夏樹の肩に手を置いた。
「読んでみるといいわ。あなたへのメッセージが、そこにあるはずよ」
夏樹は躊躇いがちに封を切り、手紙を開く。震える手で、一文字一文字を追っていく。
『夏樹へ
君が、この手紙を読んでいるということは、きっと君は、自分の夢を忘れかけているんだろう。
でも、忘れないでほしい。君には、才能があったこと。小説を書くことが、君の生きる意味だったこと。
迷子になっても、立ち止まってもいい。でも、歩みを止めないでほしい。君にしか書けない物語があるから。
君の人生のレールは、君だけのものだ。だから、君の意志で切り拓いていけばいい。
夢を追いかける勇気を、君は持っている。僕はそう信じているよ。
さあ、ペンを取るんだ。そして、君だけの言葉で、世界を変えていこう。
君の分身より』
読み終えた夏樹の頬を、雫がつたっていく。自分をここまで信じてくれている人がいた。それが、過去の自分自身だなんて。
なぜ、自分はこの手紙のことを忘れていたのだろう。いや、忘れたくて、忘れていたのかもしれない。夢を追うことの怖さに、臆病になっていたのだ。
夏樹は大きく深呼吸をすると、美羽に向き直った。
「ありがとう、美羽。君がいなかったら、この手紙に出会えなかった」
「いいえ、私は何もしていない。ただ、あなたが進むべき道を、照らしただけ」
美羽の言葉に、夏樹は小さく頷いた。
「美羽。君は、これからどこへ行くんだい?」
「私は、私の旅を続けます。誰かの迷子になった夢を、探す旅を」
そう言って、美羽は夏樹に背を向ける。
「さようなら、夏樹さん。あなたの夢が、叶いますように」
「ああ、君の旅も、幸多きことを祈ってる」
二人は、朝日に照らされたホームで、静かに別れを告げた。
やがて、美羽の姿は、ホームの向こうに消えていく。まるで、儚い夢のように。
夏樹は、手紙を胸に押し当てた。過去からの、かけがえのないメッセージ。
今度は、迷わない。夢に向かって、真っ直ぐに。
夏樹は、改札を抜け、駅前の広場に出た。朝の光が、町を優しく包んでいる。
ふと、公園のベンチに目をやる。そこには、ペンと紙を広げて、何かを書きつけている男の姿があった。
夏樹は、我が目を疑った。そこにいたのは、紛れもなく、あの日の自分自身だったのだ。
過去の自分は、まるで夏樹の気配に気づいたように、顔を上げる。そして、にっこりと微笑むと、ゆっくりとペンを置いた。
風が、男の書いていた紙を拾い上げ、夏樹の足元へと運んでくる。
夏樹は、それを拾い上げ、目を通した。そこには、こう記されていた。
『美羽へ
君との出会いに、心から感謝します。
僕は、君に伝えたい言葉があったんだ。
夢を忘れそうになったとき、君の優しさを思い出します。君は、僕の心の支えだ。
いつか、君の夢も見つかりますように。
そして、その時は、また会えますように。
夏樹より』
夏樹は、手紙を大切にしまうと、空を見上げた。
旅は、まだ始まったばかりだ。でも、彼はもう、一人ではない。
夏樹は、ペンを取り出すと、歩き出した。心の中で、物語の一文が紡がれ始めている。
ブルートレインが、また闇を裂いて走り始める。新しい旅人を乗せて、どこまでも。
第4章
夏樹が、再び小説を書き始めて、一週間が経っていた。
彼の部屋には、書き散らかした原稿用紙が、床に散乱している。窓から差し込む夕日が、乱雑な部屋を茜色に染めていた。
夏樹は、ペンを置くと、伸びをする。そして、ふと、美羽との出会いを思い出していた。
あの日、美羽は一体何者だったのだろう。夢を取り戻す手助けをしてくれた、謎の少女。
夏樹は、未だにあの出来事が現実だったのか、夢だったのか判然としない。ただ、確かなのは、自分が再び夢に向かって歩み始めたということだけだ。
そのとき、インターホンが鳴らされた。夏樹は顔をしかめる。こんな時間に、誰だろう。
ドアを開けると、そこに立っていたのは、妹の由紀だった。
「お兄ちゃん、ずいぶん久しぶりじゃない」
そう言って、由紀は部屋に上がり込んでくる。
「ちょっと、勝手に入ってくるなよ」
文句を言いつつも、夏樹は由紀を止めない。彼女は、床に散らばった原稿用紙を拾い上げると、パラパラとめくってみる。
「お兄ちゃん、また小説を書き始めたの?」
「ああ、まあな」
そう答える夏樹に、由紀は驚いたように目を見開く。
「どうしたの、急に。前は、もう書かないって言ってたのに」
夏樹は、窓の外を見やる。夕焼けの空が、美羽の髪のように美しく輝いている。
「きっかけがあってな。自分の夢を、思い出したんだ」
由紀は、不思議そうに首を傾げる。
「きっかけ?」
「ある出会いがあってさ。自分の心に、真っ直ぐになれたんだ」
夏樹の言葉に、由紀は小さく微笑んだ。
「そう。お兄ちゃんらしくなったね」
そう言って、由紀は原稿用紙を夏樹に手渡す。
「応援してるから。お兄ちゃんの夢、叶えてね」
「ああ、ありがとう」
夏樹は、由紀の言葉に頷いた。家族の支えがあること、それがどれだけ心強いことか。
由紀を見送った後、夏樹は再び机に向かう。ペンを取ると、真っ白な紙に、新しい文章を書き始めた。
物語は、まだ始まったばかりだ。これから、どんな展開が待っているのか、夏樹にも分からない。
ただ、一つ分かっていることがある。自分の言葉で、真っ直ぐに物語を紡いでいくこと。それが、夏樹の選んだ道なのだと。
そのとき、夏樹の脳裏に、美羽の言葉が蘇る。
『夢を忘れるなんて、悲しいことですね。でも、忘れたわけじゃない。ただ、迷子になっているだけ』
そうだ。夢は、忘れたわけではなかった。ただ、迷子になっていただけなのだ。
そして今、夏樹は、自分の夢を見つけた。迷子ではなくなったのだ。
ペンを走らせる夏樹の目に、かつての輝きが戻っている。まるで、あの日の夜明けの光のように、眩しくて、力強い。
窓の外では、日が沈み、夜の帳がゆっくりと下りてくる。
夏樹の新しい人生の一ページが、今、動き出した。
美羽との約束を胸に、夏樹は再び、言葉の旅に出る。
どこまでも続く、果てしないレールの先へ。自分だけの物語を求めて。
第5章
夏樹の小説が、ある文芸誌に掲載されることが決まった日、外は雪が舞っていた。
冬の訪れを告げる白銀の結晶が、街を静かに覆っていく。まるで、新しい始まりを祝福するかのように。
夏樹は、編集者からの連絡を受けると、思わず雄叫びを上げていた。
「やったぞ!」
その声は、雪に吸い込まれるように、部屋の中に響き渡る。
夢に一歩近づいた。そんな実感が、夏樹の全身を駆け巡っていた。
小説を書き始めてから、半年。夏樹は、誰にも負けないくらい頑張ってきた。何度も挫折しそうになりながらも、ペンを握る手を、決して止めなかった。
美羽との出会いから、すべてが始まった。彼女は、夏樹に夢を思い出させてくれた。そして、その夢に向かって歩き出す勇気をくれたのだ。
夏樹は、窓の外を見やる。雪の降る街並みが、美羽を思い出させる。
今頃、彼女はどこで何をしているのだろう。また、誰かの夢を探す旅を続けているのだろうか。
ふと、そんなことを考える夏樹だった。
夏樹は、美羽に会いたいと思っていた。もう一度、彼女に「ありがとう」を伝えたかった。
そのとき、夏樹の目に、一通の手紙が飛び込んでくる。それは、机の上に置かれていた。
差出人の名前は、そこにはなかった。ただ、夏樹はすぐに、それが誰からのものかを悟った。
震える手で、夏樹は封を切る。そこには、美しい文字で綴られた、短いメッセージがあった。
『dear 夏樹
あなたが小説を書き始めたこと、とてもとても嬉しく思います。
あなたの言葉に込められた想いが、きっと多くの人の心を動かすはず。
あなたはもう、迷子ではありません。夢を、しっかりと見つめられています。
だから、これからは、あなたの言葉だけを信じて、前に進んでください。
私は、あなたの活躍を、遠くから見守っていますね。
いつか、またお会いできることを、楽しみにしています。
美羽より』
夏樹の目から、雫がこぼれ落ちる。言葉にならない感情が、胸の中で渦を巻いていた。
「美羽、ありがとう」
その言葉だけが、夏樹の口をついて出た。
夏樹は、手紙を何度も読み返す。美羽からの、かけがえのないメッセージ。
そっと手紙を胸に押し当てる。まるで、美羽がそこにいるかのように。
夏樹は、決意を新たにしていた。
自分にしか書けない物語を、これからも紡いでいくと。美羽との約束を胸に、言葉の旅を続けると。
いつの日か、必ず美羽に再会すると。そのときまでに、もっともっと、素晴らしい作家になっていると。
雪は、いつしか上がっていた。夏樹の部屋の窓に、冬の日差しが差し込んでくる。
夏樹は、ペンを取ると、新しい白い紙に向かった。
そこから、新しい物語が始まる。
夏樹と美羽の、新しい夢の始まりが。
果てしない大地を、二人の思いが駆け抜けていく。
どこまでも、遠くまで。
終わりなき、言葉の旅路を。
夢行き列車、始発駅 島原大知 @SHIMAHARA_DAICHI
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