6-4 解けた桃


 切り分けた死体は、日を置いてゴミと混ぜて捨てた。一度には出せず、その殆どを冷凍庫へと無理矢理押し込んだ。今日が何日なのか、何曜日なのかわからなくなっても、特に問題はなかった。レイカの住むマンションは二十四時間いつでもゴミ捨てが可能で、食料も生活用品も通販サイトで買えば家に届く。大学は春休みで、私の携帯はとっくに充電が切れてどこかに転がっている。


「若い女は汗の匂いも違うんだって。甘い桃の匂いがするって……いつか聞いた事がある」


 窓の外から、春の雨が降る音がする。


 私はベッドに横になって、寝惚けた目でレイカを見上げた。レイカはいつも通りの落ち着いた表情で、膝を抱えたまま真っ直ぐ前を向いている。すぐ隣に私がいるのに、まるで独り言を言っているようだった。

 彼女はシャワーを浴びた直後の筈なのに、重い香水の香りがした。花のような、お香のようなそれを目を瞑って嗅ぐ。香水に詳しくない私でも、上等な物だろうと想像がついた。


 レイカの声は濡れて、しっとりと耳に馴染んだ。


「私はもう熟れ切って虫に食い尽くされて……地面に落ちて、もうどうしようもない……種にまで虫が入って、根も生やせないの……」


 空虚な無表情で、レイカはそう言って小さく首を振った。そして、「ああ」と思い出したように私を見た。


「どうしてアナタに構うのか、前訊いたでしょう」


 私はまだ寝ぼけていて、レイカが目の前にいるのに、まるで夢を見ているようだった。遮光カーテンがきっちりと閉まった室内は、昼間だと思えない程に暗い。

 夢現を彷徨う私に構わず、レイカは穏やかな声で続けた。


「信じないかもしれないけど、あの雪の日のずっと前から、アナタの事を見てた。まだ若くて、純粋そうで、愛想の欠片もなくて。声をかけたらどんなリアクションするかなって、酔って魔が差した。……この家に誰かを連れて帰ったのは、アナタが初めてだった」

「……レイカさん……?」


 何だか様子がおかしい気がした。饒舌に話す彼女を見ていると、じわじわと不安を感じた。すぐ隣にいる彼女の腕を掴もうと伸ばした手を、そっと避けられる。


「アナタから来るメール、好きだったな。学校なんてろくに行った事ないし、私の知らない大学の風景とか、見向きもしなかった綺麗な花とか……メールが来ると嬉しかった」

「……どうしたんですか」

「私も、アナタと一緒に新しくなれる気がした」


 その言葉は、いつかの私が思った事と同じだった。


「手を合わせて食べる食事とか、おやすみの挨拶とか……ずっと、そういうのが欲しかったって、アナタが来てから知った」

「そんな……そんな事、これからだってずっと、一緒にすればいい……今日も、明日も、ずっと一緒に……」


 ぎこちなく口角を上げて、出来そこなった笑みを浮かべた私を、レイカは目を細めて眩しそうに見た。柔らかい眦の薄い皺も、潤んだ瞳も、それまで言われたどんな言葉より、雄弁に慈しみをもって私を見ていた。


 遠くから、来訪を告げるチャイムの音がした。少し間を置いて、今度は続けざまに二回。


 レイカは無言のまま、ドアに向かってゆっくりと進んだ。私は彼女の体を包むシーツを掴もうとしたけれど、真っ白なシーツは擦り抜けて、そのままフローリングにゆっくりと落ちていく。


「待って……」


 レイカさん、と呼ぼうとした。


 どれだけ肌を合わせても、あなたの為になら何だってできる気がしても、あなたの言葉を信じたくても。


 私はあなたの本当の名前すら知らない。


 胸が詰まって喉が焼けるように熱かった。泣きたい。泣き叫んで縋り付いて、彼女を留めたい。そう思っているのに涙は出ず、その間にレイカは白い裸体にざっくりとしたワンピースを頭から被った。


 私を呼び出して、寂しいと言って泣いた癖に。子供のように、何度だって愛を証明させたがる癖に。


 出ない涙が、蜷局を巻いて歪む。玩具箱のような寝室で、お姫様のように眠る彼女を見下ろしていた時に感じた確かな幸福が、黒く塗り潰されていく。

 喫茶店で笑いかけてきた顔。ただ光を反射するだけのような冷めた目。挨拶をしたときに浮かべた戸惑い。彼女の描いた、美しい絵の数々が、頭の中に浮かんでは消える。黒く塗り潰されていく。破れてしまった、あの美しい猫の絵も。


 気付けば、チャイムの音は鳴りやんでいた。その代わりに、男たちの荒々しい声やドアを開け閉めする音が聞こえてきた。誰かを呼んでいるけれど、その名前は聞き取れない。聞きたくなかった。彼女の口から以外、何も。


 全部終わる。階段をのぼってくる足音が、私とレイカの全てを終わらせてしまう。


「……さよなら」


 さよなら、絢音ちゃん。


 ドアを開けた途端、強い日の光が差し込んで目が眩んだ。

 振り返って、レイカが笑った。


 あの雪の日の、あどけない笑顔だった。

 



 完

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名前のない青と、喰い尽くされた桃。 水飴 くすり @synr1741

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