6-3 失われたもの
何度も行為を重ねて、浅い眠りを繰り返した。起きる度に、彼女は明らかに感情のふり幅が大きく、情緒は不安定になっていった。当然だ。人間を殺して冷静でいられる人は、きっと余りいない。
レイカが通販で電動のこぎりを買ったと知った頃には、私はこの部屋に閉じ籠って何日経ったのかもわからなくなっていた。私が眠っている間にレイカが受け取ったらしいそれが、段ボールのまま廊下に置かれている。
「本当に買ったんですね……」
思わず呟くと、レイカは段ボールを開け、いつもの冷めた目で大ぶりの機械を見下ろした。
「だって、私たちの腕力じゃとても無理でしょ。……刃も脂で役に立たなくなっちゃったし」
そう言ってレイカは中にあった説明書にざっと目を通した。大した大きさでもなそれを重そうに持ち上げているのを見ると心配になり、そっと手から奪い取る。ずしりとした重さに、不安が過ぎった。
これから死体を解体するのだ。
それがどれ程罪深い行為なのか、宗教にも法律にも明るくない私にはいまいちわからない。ただ、今ならばまだ、その罪は軽くできるのではないか。彼女がこれ以上罪を重ねるのを、防げるなら今しかない。
「やっぱり、警察に言った方が」
安直な思考で口にした言葉は、彼女の顔を見てすぐに後悔した。
無言のまま顔を上げて、レイカはあの昏い目で私を見ていた。見慣れた筈の薄茶の瞳に諦念や失望、嘲りのような、様々な感情が浮かんでいる気がして、私は咄嗟に頭を振った。
「レイカさん……違う、私は」
「私の事、見捨てるの。愛してるって言ってくれたのは、嘘だったの?」
「違う! 嘘じゃない!」
必死に否定しても、レイカは無言で見つめるだけだった。どうしたら彼女に信じてもらえるのか、先程の言葉を取り消せる魔法の呪文がないか、私は頭を記憶の引き出しを徹底的に開けた。
「レイカさんの事を、愛しています……」
「私の何を知っているって言うの? どこを愛してるって言うの」
「ッ……それ、は……」
冷たく問われて、私は一瞬息を飲んだ。そんな事をきちんと言葉に出来る人が、一体どれ程いるというのか。私はゆっくりと、言葉を選んで口にした。
「あなたの、目が好き……不安そうで、寂しそうで……何でもしてあげたくなる。性格も、冷たそうに見えて、優しいところもちゃんとある……さり気ない気遣いとか……あと……」
「…………」
レイカの目が、雄弁に「つまらない」と語っている。こんな陳腐な事を言わせたいわけではないだろう。けれど、人生で誰にも好意を持った事がなかった私が、彼女に言える言葉はけして多くない。
「全部……全部好きです……あなたの描く絵も」
「……絵?」
それまで黙って聞いていたレイカが、眉根を寄せて不快そうに聞き返した。
何かおかしいだろうか。
私は困ったまま頷いて、視線をリビングへと向ける。
「あなたの絵、好きです。私は絵とかよくわからないけど……繊細で……レイカさんみたいに、綺麗」
それを聞いたレイカはぐっと喉を詰まらせたように顔を歪めて、素早く身をひるがえした。名前を呼んでも振り返らない。
リビングはあの日と変わらないまま、あの男の血で汚れている。品よく纏まった家具も、並べて置かれた絵もあの日のままだ。
「ッ……レイカさん⁉」
レイカはまるでヒステリーでも起こしたように、床に置かれた絵をひたすら破いた。額を叩きつけガラスを割り、むき出しのものは爪で裂き、泣き出しそうな顔をしてひたすらそれを繰り返す。
「やめてください!」
「こんなもの……! アナタもあの人と同じなの⁉ 私が詰まらない女だから、私の描く絵も、こんな……こんなもの……!」
「……ッそれはやめて‼」
レイカの手が最後の一枚に伸びた。あの日彼女が描いた、猫の絵だ。白い、青い、綺麗な猫。私の一番、好きな彼女の絵。
必死に伸ばした手は空を切った。――筈だった。レイカは勢いよく絵を床に叩き付けようとし、私の伸ばした手はちょうどそこに届いた。
触れた手に、嫌な感触がした。
「……あ……」
重い音を立てて、キャンバスに張られたままの絵が落ちた。猫は無残にも伸びた爪で裂かれている。
茫然と見下ろしていると、暫くしてレイカは荒い呼吸をやっと落ち着かせた。私を伺い見るように視線を向けている事に気付きながらも、顔を上げる事ができない。
「……私の事を、愛しているんでしょ」
不機嫌そうな声だった。微かに怯えを感じて、私はのろのろと顔を上げる。頭の中は、目の前の絵の事でいっぱいだった。
「……愛しています……」
「こんな、くだらない私の絵じゃなくて、私自身を」
「……はい」
「じゃあやってよ」
怒りなのか、不安なのか。レイカの声は震えていた。あの男がレイカに何を言ったのかは知らない。けれど、彼女の絵と彼女を同列に扱い愛す事は、彼女にとっては許せない事だったのだろう。
憶測でそう考えて、鈍くなった思考のまま、小さな声で問いかける。
「……やるって……?」
「切るの、アナタがやってよ」
「……は」
笑えない冗談を聞いた時のように、口端が引きつった。レイカは変わらず、睨むように私を見ている。
「これで、あの人の体をバラバラにして。ゴミ袋に入るくらいの大きさまで、体全部、細かくして。ゴミに混ぜて捨てられるように。私を愛してるなら、信じさせて」
何を言われたのかわからなかった。水分もろくに摂っていないのに、だくだくと汗が噴き出したのが不思議だった。
永遠にも感じられる沈黙を破ったのはやはりレイカだった。
「もういい。私がやる。……信じてたのに」
何でもしてくれるって言ったのに。
悲しさを殺すような、拗ねた子供のような、場違いな程に甘えた声だった。
「……やる」
背を向けようとしたレイカの肩を掴んだ。弱い力で引き寄せようとしても、まだ彼女はこちらを向かない。
「やるから、だから……私の事、信じて。レイカさんを、裏切ったりしない……」
震えた語尾に、彼女は満足したのだろうか。振り向いた顔は無表情で、その胸の内はわからなかった。
震える体をごまかしながら浴室へと向かう。未練がましく背後の絵を振り返りそうになったのを、必死に耐えた。見ないようにしていた浴槽を、恐る恐る覗き込む。
男の死体は少しずつだが確実に傷んできていた。
まだ朝晩の気温は低く、浴室暖房を冷風で回し続けてはいたものの、肉は肉だ。風呂場という湿気の多い場所だという事も要因の一つだろう。生理的な吐き気を催して、私は無理矢理、喉を鳴らして唾を嚥下した。
「早くしないと、腐ったらもっと大変になる」
他人事のようにつまらなさそうな声でレイカが言った。まるで監視でもするように浴室のドアに凭れてこちらを見ている。――否、きっと彼女は監視している。私が逃げ出さないか。約束を違えないか。
私は彼女の愛の言葉に、報いらなくてはいけない。彼女は、誰よりもそれを欲しがって、怯えながらも与えてくれた筈だから。
電動のこぎりのスイッチを入れると、想像していたより作動音は静かだった。震える手で死体に刃を押し当てる。滑らかとは言わないが、振動と共にゆっくりと刃が肉を裂いていく。青白い乾いた皮膚は豚のようで、血も噴出さない肉の断面を見下ろしているのは、どこか現実味がない。
これは必要な事だ。
頭の中で必死に唱えた。これは彼女の為に必要な事だ。これがあるせいで、このままではレイカは幸せになれない。私がやらなければ。これは必要な事だ。必要な事だ。……
男の四肢が細かく分断される度、頭の回路が一つずつ千切れるように、私は冷静になっていった。慣れたのか、狂ったのか。無感動に手を動かしている間、どちらなのか自分でも判断がつかなかった。
肉と骨を見る事に慣れた辺りで、何も考えずに胴体に刃を入れた。次の瞬間、私は予備動作もなく勢いよく嘔吐した。
「おぇ……ッゲェッ」
露出した内臓は余りにもグロテスクだった。切断面から見える汚物と饐えた臭いが吐き気を更に誘う。作り物とは明らかに違う。これは。この死体は。
「……あ……」
吐瀉物が男の顔にかかったのを見て、何故か私はとてもいけない事をした気がして恐ろしくなった。今更何をと、誰かが聞けば言ったに違いない。けれど私は男の死体を切り刻む事よりも、苦痛に歪んだまま事切れている彼の顔に嘔吐する方がずっと罪深い事のように思えた。
喫茶店で見た、生きていた頃の男の顔。動作。声。自分が人間を切り刻んでいる事を、まざまざと実感した。
「あ……あ……ッ」
意味を為さない言葉と共に、決壊したように涙が溢れた。口元を手で覆いたくて持ち上げたが、とっくにその手は死体の血で真っ赤に汚れていた。
「ひっ……ヒッ」
耐えられずにただしゃくりあげていると、いつの間にか背後に座り込んだレイカが、そっと私の肩を抱き寄せた。後ろから抱き締められて、大きく体が震えた。
「……ありがとう」
耳元でそっと言った、レイカの体は鳥肌が立つほど温かい。死体はずっと冷たくて、その血に触れ続けた私も、いつの間にか冷え切っていた。
子供のように泣きじゃくる私を、レイカはただ抱き締めていた。
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