6-2 彼女の愛
レイカと二人がかりで男の衣服を剥がすと、彼女は私に男の体の上に乗り、右腕を支えるように言った。その通りにすると、レイカは力を込めて男の肩の辺りにノコギリの歯を当てる。思うように進まないようで、時折舌打ちが聞こえた。
想像のように血が吹き出すことはなく、刃はでっぷりとした肉に沈んでいく。水音と共にノコギリはゆっくりと進んだ。
カツン、と、低い音を立てて何かに阻まれた。レイカはまた舌を一つ打って、手を離した。
骨だ。骨にぶつかって刃がとまり、ノコギリはそれ以上進まなかった。
「ああ……だめだ……電動じゃないと、これ以上は無理」
まるで学生が作業に詰まったように、レイカは面倒臭そうにそう言って上体を起こした。罪悪感や後悔など、まるで感じていないように見える。
気付けば、レイカも私も春先だというのに滝のように汗をかいて、肌も服も血塗れになっていた。
「でも、早くしないと臭ってくるよね……。電ノコってアマゾンで売ってるかな……。ここまでコンセント届くかな……」
ボソボソと呟く声は、低く潜もって聞こえ難い。
私は茫然と彼女を見て、男の死体を見た。俯せになった男はもう顔は見えないけれど、先程見た死体の顔が脳裏に浮かぶ。
「……ぉえ、」
「あ……あーあ……」
突然、勢いよく胃の中身が迫り上がってきて、私は顔を背けてその場で勢いよく嘔吐した。レイカは一瞬億劫そうな声を上げて、大きく溜め息を吐く。
浴室の中は血と吐瀉物の臭いで満ちていて、酷い悪臭だった。
「……大丈夫? もう全部出しちゃいな」
かつてない程優しい声で、レイカは私の背をそっと撫でた。私は大きく目を見開いたまま、次々と出てくる胃の中の半分消化された食べ物や、熱い胃液を吐き出した。
どれ程の時間が経っただろう。
レイカは黙って私の背を撫で続けた。
吐くものも無くなり、涙が乾いてこびり付いた頃、レイカはそっと私の腕をとった。
「今日はもう無理だから、シャワー浴びよう」
その言葉を聞いて、私はゆっくりと視線を下げた。視線の先には半分腕の捥げた死体があり、『彼』を退かさない事にはシャワーを浴びる事も難しい。
私の無言の訴えがわかったのか、レイカは同じように死体を見下ろし、納得したように「ああ」と独りごちた。
「もう死んでるんだから、気にしなくていいよ」
私はその言葉を聞いて、愕然とした。
彼女はいつの間にか狂ってしまったんだと思った。そうでなければ、そんな言葉は出なかっただろう。
レイカは男の死体を浴槽の中に無理矢理入れると、シャワーの水流で浴室に付いた血を流していった。しつこい汚れを忌々しそうに見下ろしている。
死体を運び入れる際に難儀したからか、いつも等間隔に並んでいたボトルがいくつも倒れている。あの病的なまでに清潔な浴室は、最早どこにもなかった。
レイカはその場でルームウェアを脱ぐと、湯や血を吸って重くなったそれを音を立ててその場に放った。そして、同じように湯と血でびしょ濡れになった私を見て、目を細めて笑った。
「……脱いで」
私のロンTの裾を引っ張って、レイカはそっと服を剥いでいった。私は抵抗する事も言葉を発する事も忘れて、ただ黙って彼女を見ていた。
二人とも裸になると、湯気が籠った浴室内で見つめ合った。
互いに何も言わず、シャワーが湯を出す水音だけがただ響く。
レイカの顔がゆっくりと近付いて、そっと冷たい唇が合わさった。突然触れた他人の感触にびくりと体が大きく震えた。けれどまるでそうするのが当然のように、疑問は抱かなかった。
もしかしたら、私たちはとっくにおかしくなっていたのかも知れない。
血に酔って、非日常に混乱して。そうでなければ、互いだけに耽るなんて事は出来ないだろう。まだ血痕の残る浴室で、浴槽に死体を放り込んで。
私たちは目を開けたまま、ゆっくりと深く口付け合った。そのうちに奇妙な興奮が沸き上がって、目の前が何度も点滅した。
降り注ぐ湯の中、もつれるようにどちらともなく舌や脚を絡ませている間に、お互いの体に付いた血は跡形もなく綺麗に落ち切った。
そこには、ただ白い裸体を何度も合わせて、必死に口付け合うただの女が二人いた。年齢も性別も、全て概念ごと溶けてしまったように、私たちは熱を与え合うように体を合わせた。そうしていれば、何も考えなくて良かった。
体をタオルで拭う事もせず、レイカは裸のまま、私の手を引いて寝室へと向かった。
階段を駆け上がっている間、まるで子供のようにレイカが声を上げて笑った。誰かが見たら、気が触れたと思っただろう。ふふ、と泡が弾けるような笑みを浮かべて、私とレイカは寝室へと駆け込んだ。
玩具箱のような部屋の白いベッドに押し倒され、レイカの長い濡れ髪がカーテンのように私の顔の周りを囲った。何もわからない代わりに、抵抗もしなかった。レイカの目がじっと私を見下ろす度、足の指先のずっと先まで熱い痺れが走った。
どうして彼女の側を離れられないのか、どうしてどんな時でもこの部屋に駆け付けてしまうのか、やっとわかった。
あの冷たい雪の降る日、一人で真っ直ぐに立つ彼女を、私は愛したのだ。
孤独な彼女と、どこまでも墜ちていきたかった。
彼女の深い悲しみに寄り添い、共に罪を背負い、傷を癒し、誰よりも近くで彼女を見る為には、今日までの全てが必要な事だった。
浅い眠りを繰り返しながら、私とレイカはシーツの中で常に互いの体に触れていた。まるでそうしていなければ、二度と会えないかのように。
「……結局、汚してしまった」
何度目かの眠りから目覚めて、レイカが小さな声で呟いた。長い睫毛が上下する度、はらはらと涙の雫が零れる。
「レイカさん……?」
私の声に反応して視線を寄越したけれど、レイカの涙は止まらない。出会った頃には想像もつかないくらい、彼女の泣き顔を何度も見ている事に今更気付いた。
「アナタの事、気に入ってた。綺麗で、真っすぐで……電話をかけたら走ってきてくれたの、うれしかった。そんな人、今までいなかった。……それなのに……汚してしまった……お気に入りだから、大事にしなきゃいけなかったのに……」
「……そういうとき、好きっていうんですよ。……多分ですけど」
苦笑して返すと、レイカは視線を彷徨わせた。迷子の子供のような、不安げな表情を浮かべるレイカの涙を、唇でそっと拭ってやる。
「……愛してる」
「――……」
大粒の涙がレイカの眦を伝った。
私は言われた言葉が理解できずに、暫くそのまま彼女を見ていた。レイカがもう一度震える声で
「愛してるの」
と言って泣いた。
それを見た瞬間、私は思わず頭を強い力で引き寄せて、彼女の唇を塞いだ。もう何も言わないで欲しかった。何度でも、そう言って欲しかった。
それなのに、頭の中で何度もリビングの、浴室の惨状がフラッシュバックする。
「……愛しています。あなたの為なら、なんだってできる……」
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