6-1 桃の花とSOS

 以前来た時のように、私はオートロックの数字を『0000』と入力し、マンションの自動ドアを潜った。

 エレベーターで最上階まで登っている間も、玄関で門前払いをされるとは欠片も想像しなかった。そしてその予想通り、玄関の鍵に鍵はかかっていなかった。

 玄関のドアを潜ると、何だか独特な臭いがしていた。あまり嗅いだ事のない、鉄っぽいような臭いだ。暖房で温められた、じめっとした湿気が、部屋全体を包むように漂っている。


「レイカさん……?」


 ドアの閉められたリビングに向けて控えめに声をかけたが、返事はなかった。シンとした暗い廊下を眺め、私は視線を階段の上へと向けた。

 恐らく、前回のように二階の寝室にいるのだろう。

 そう判断し、私は迷う事なく階段を上っていった。


「レイカさん、すみません……勝手に入って……」


 寝室のドアはらしくなく開け放たれており、暗闇で目を凝らすと中のベッドには俯せになったレイカが見えた。

 右手でスマートフォンを握っており、何度も鼻を啜っている事からも、起きているのだとわかる。けれど、私の言葉に返答はない。

 不審に思った私は、ゆっくりとレイカに忍び寄った。


「レイカさん、大丈夫ですか……?」


 私の言葉に反応して、レイカはゆっくりとこちらを向いた。ぼんやりとした目で私を見て、けれど口を開く事はしない。呼んでないと言われなくてよかった、と僅かに安堵した。


 涙の膜が張った眼球は、廊下からの光を浴びてキラキラと光る。白目は血走って所々真っ赤になっていた。いつも綺麗に整えている茶色の髪の毛も、くしゃくしゃになって至る所に跳ねている。


「また悲しくなっちゃったんですか……?」


 入り口からゆっくりとレイカの元まで進む。ベッドの脇に膝たちになり、前回のレイカの言葉を思い出して尋ねると、彼女は無言で頭を振った。

 説明の言葉を待って、数秒黙り込んでいると、案の定彼女は震える唇で語り始めた。


「……終わらせようって、言われたの……」


 レイカは泣きすぎてガラガラにしゃがれた声でそう言うと、重くて水っぽい咳を二回した。

 誰にそう言われたのかは、尋ねなくともわかった。――『あの男』だ。

 予想外のレイカの発言に言葉を失った私に、彼女は喉が絡むのか、時々咳をしながら続けた。


「ここに別の女の子を住まわせるから、出て行ってくれって言われた……私だってちゃんとわかってたの。最近来ないから、そろそろ終わりだなって……」


 レイカは俯せになっていた体ごとこちらに向けて、遠くを見るように、譫言のように呟いた。


「冷静でいようと思った……でも、『もう歳も歳だし、潮時だろ』って言われて……他にも、酷い暴言を吐かれた……。十代の頃から体を売ってる私は、他の女の子よりずっと汚れてるとか……詰まらない女だとか……絵の事も…………アイツ……」


 頭にきて。


 掠れた声でそう言って、レイカは嘲るように薄っすらと笑った。


「殴ったの。……イーゼルで何回も、何回も。血がいっぱい出て、……でも私、止められなかった……」

「え……?」


 聞き返した、私の声も掠れていた。言われた言葉を理解しようとして頭を働かせても、上手く処理できない。ただ、それ以上続く言葉を聞きたくないと思った。

 そんな私には気付いていないのだろう。レイカは唇を歪めたまま、ぼろりと新しい涙を一粒溢した。


「……殺したの」


 ガツン。


 もう一度、後ろから殴られたのかと思う程の、強い衝撃を感じた。


 私は彼女にかける言葉を失い、無言のままその場で動けなかった。力を抜けば、その場で簡単に崩れ落ちそうだった。

 レイカは泣きながら、淡麗な顔をしわくちゃにして私を見た。真っ直ぐに射抜くような、それでいて縋り付くような瞳で、じっと。


「……助けて、絢音ちゃん」


 私はゴクリと知らず溜まっていた唾を飲み下して、震えながら頷いた。知らない言葉のように聞こえた。


 ――レイカは、男の死体はまだリビングにあると言った。


 私はリビングに行く為に階段を降りようとしたけれど、脚がフワフワと宙に浮いているようで上手くおりられず、壁伝いに何とか一階に辿り着いた。


 玄関は変わらず異臭がした。

 湿ったような重い空気を感じて、私は知らず知らずの内に呼吸を浅くした。

 震える手でリビングの扉を開けると、臭いはずっと強くなった。


 ドアを開けた向こうは酷い有様だった。玄関まで漂っていた臭いの原因はこれだったのだと、頭のどこかの冷静な自分が思った。


 白い壁に血液が放射状に飛び散り、辺り一面を赤く染めていた。抵抗したからか、彼女の言葉通りに何度も殴ったからか。血は広範囲に飛んでいた。

 部屋の中央で大きく伸びている男の顔は苦悶に歪み、ツルツルとしたシャツも見る影もなかった。

 どれ程の力で殴ったのだろう。何度振り下ろしたのだろう。男の後頭部は大きく陥没し、その傍には血に染まったイーゼルが確かに倒れていた。


 逃避のように視線を巡らすと、至る所に所々真っ赤に染まった白いタオルが放られている。レイカがそれで、壁やフローリングを何度も何度も擦ったのが見るだけでわかった。


 自然と、床に置かれたレイカの絵に視線が向かった。男の血の飛沫で多くの絵が真っ赤に染まっていた。


 部屋の惨状よりも、男の死体よりも、その事に私は頬を張られたようなショックを受けた。もうきっとあの絵は復元できない。あんなに綺麗な絵だったのに。酷い頭痛と目眩がする。異常事態に、私の頭も少しおかしくなっている。


 ――どうしたら。


 レイカは『助けて』と私に言った。けれど、私にはこの惨状をどうすれば良いのかわからなかった。

 現状を理解出来ずに茫然とする私の耳に、レイカが階段を降りてくる微かな足音が聞こえた。


「……レ、イカさん」

「…………」


 レイカは真っ青な顔で、真っ赤に充血した目で、静かにリビングを見渡した。部屋着らしい、いつか見たショートパンツは、今見れば確かに赤黒い染みがついている。


 ――彼女が殺した。


 今更ながら、目の前にいるレイカがこの惨状を引き起こしたのだと理解して、私の胃は軋んだ。直ぐにでも胃の中のものを、全て吐き戻してしまいそうだった。


「……とりあえず、解体しないと」


 レイカは虚ろな目でそう言って、男の死体に近寄った。びくりと体を竦ませた私に気づかず、躊躇いもなくその腕を掴むと、力を込めてずるずると引き摺っていく。相当重いらしく、少し引き摺っては嫌そうに手を止めた。


 解体? 解体って、何?


 私は彼女を見たまま、何もできずにその場で立ち竦んでいた。


「な、なにを……」


 やっと震えながらも声を発した私に、レイカは視線も寄越さなかった。死体を引き摺る度に、床に血の跡が伸びていく。


「風呂場で解体するの。それでどっかに埋めないとか、しないと。よくドラマとかでやってるでしょ」

「……で、でも、警察に見つかったら……」

「このままにしたら腐って、どっちみちすぐに、通報されて見つかる」


 レイカは冷静に答えながらも、男の死体を力任せに引き摺る。ハア、と短い溜め息を吐いた顔は、いつか見た苛立ったような顔と同じだった。


「……何してるの、手伝って」


 レイカは鋭い目で私を睨みつけた。潜めた眉の下のその目が余りにもいつも通りで、私は思考停止したまま、咄嗟に「はい」と頷いていた。

 レイカと私は男の死体を何度も休憩しながら引き摺って、浴室へと運んだ。女二人がかりでも、でっぷりと肥え太った成人男性一人を引き摺るのは、こんなにも重労働なのだと、私は内心場違いに驚いた。


 何度かシャワーを借りて、見慣れたレイカの自宅の浴室が、男から出た赤黒い液体で汚れていく。

 男を浴室に完全に納めると、レイカは一度浴室を出て行き、二階へ上がって行った。


 私は死体と二人きりにされて、今にもこれが動き出して襲ってくるんじゃないかと、幼稚な妄想に囚われてゾッとした。

 苦悶の表情を浮かべた男の顔は正しく土気色で、先程まで生きていた人間とは到底思えなかった。


 こんなにも死体と生者とで差があるだなんて、私はちっとも知らなかった。


 そのまま浴室に立ち竦んでいると、五分も経たない内にレイカが大きく長い物を両手で持って戻ってきた。


「……なんですか、それ……」

「ノコギリ。絵だけじゃなくて立体にも手を出してみたくて、昔買ったの。……こんなことに使う予定はなかったけど」


 真剣な表情でそう言っている彼女が、これからやろうとしている事に気付いて、私は激しく動揺した。もとより、彼女は先ほどからずっとそう言っていた。そんな事にも気付かないくらい、私は思ったより気が動転していたらしい。至って当然の事だけれど。誰だって、他殺死体を見たら冷静ではいられない。


 それなのに彼女はこの男の死体を、手に持ったノコギリで分割しようとしているのだ。


「……あ、私……」 


 そんなことはできない。


 そう言おうとした私を、レイカが目だけで止めた。

 昏い目だった。いつもと変わらない静かな表情で、目だけがどんよりと昏かった。


「助けてくれるんでしょう?」


 感情の抜け落ちた血走った目で見られて、私はもう、何も言えなかった。


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