5-4 ボーダーライン

 

 連絡をしようと思えないまま、気付けば三月を迎えていた。二月から大学が春休みになった私は、バイトのシフトを増やして考える時間を無くすように、馬車馬のようにひたすら働いた。


早見は

「あんまりシフト入られると、俺が入る隙間がなくなるんだけど?」

などと嘯いたが、その顔を見れば心配している事がわかった。


 私は彼に愛想笑いを返し、店長に有り難がられつつも、春休み前よりもずっと長くバイト先にいた。


 けれど、レイカはあの日から一度も店には来なかった。


「最近、あの人来ないね。毎週来てたのにさ」


 グラスを磨きながら早見が何でもない事のように言った。誰の事を言っているのかは、すぐにわかった。

 人気の少ない二十時の店内で、私は無表情のまま、「誰のことですか?」と興味のないフリをして尋ねた。


「あの美人。キモいオッサンと、二人で来てたのが最後か」


 脳裏にレイカと男の姿が甦り、私は咄嗟に自分を落ち着かせるように深呼した。

 早見の言葉で、私が休みの日にたまたま来ているのかも知れないという、微かな希望が消えた。レイカは私を避けているのだ。――否、毎日のように送っていたメールをやめた時点で、避けているのは私かも知れない。


 そのまま無言で早見の言葉を無視すると、彼は気にした風もなく次のグラスを磨いていく。結局、彼女の話はそれで終わった。


 いつも通り、特筆すべき事もなく時間は過ぎていく。レイカは今日も店を訪れず、いつも彼女が座っていた席には彼女とは違う客が座っている。


「中川さんあがっちゃってー」

「はぁい」


 カウンターでしか聞こえない程度の声量で、店長が私を呼んだ。

 最近は大学生が多いからか、閉店前の客足があまり無ければ、メンバーの内数人はシフトの時間より早めに上がる事がある。

 素早く着替えた私は、裏口の隅に立ててある自転車に乗ると、地面を蹴って走り始めた。


 暫く走っていると、暗い夜道の中、視界の端に街頭に照らされた派手な桃色が目について自転車を停めた。覗き込むように脇道を見ると、早咲きの花の付いた桃の木が一本だけ立っている。


 濃い桃色の花弁が、溢れんばかりに咲き誇っていた。


 あまりの存在感に、私は思わず数秒そのままでいたが、ふと思いついて携帯を取り出し、カメラを起動した。近付いてピントを合わせ、アップで一枚撮ってみる。


 夜の暗い空に濃い桃色が映えて、素人目に見ても中々に良い写真に思えた。


 そのままメールのボタンを押して、躊躇う事なくレイカへ送った。本文は何となくつけなかった。あの日以来連絡していない彼女に何と送ったら良いか、わからなかったというのもある。

 自転車に跨って再び走り出すと、先程まで陰鬱としていた気持ちが僅かに晴れたように思えた。

 今までレイカに連絡もできず、彼女の心を推し量ろうと悩んでいた時間が、あの写真を送ったことで全て溶けていったようだった。

 レイカはきっと、連絡のなかった期間の事は触れずにいつもの調子で返信をくれるだろう。


 無責任にそう思って、私は自宅へと自転車を漕いだ。まだ冷たい夜風が頬に当たって、僅かに紅潮した熱を冷ましてくれた。


「ただいまぁ」

「ああ……絢音、おかえり」


 リビングに向かって声をかけると、機嫌の良さそうな母がにこやかに返事をした。そのまま、鞄をフローリングに置いてやっと一息つく。

 夜風に冷えた体を、リビングの暖房がじんわりと温めてくれた。


「最近、夜遊びもしなくなってお母さん安心だわ」


 不意に、母がそう言って穏やかに笑った。私は平常心を装ったが、嫌な気持ちだった。


「一時期は酷かったものね。一か月くらい? 遊び歩いて、全然帰ってこなくて」

「……大袈裟じゃない?」


 直接的に責めるように言われて、私は眉を寄せた。母は機嫌の良さそうな顔はそのままに、私の顔を見ずに調理を続ける。


「鈴木さんだって、きっと困ってたんだから」

「そんな事ない。……迷惑だったら迷惑だって、言ってくれる人だから」

「……はあ……あのね、絢音」


 母は大きく溜息を吐くと、睨むように私を見た。先ほどまでの機嫌のよさは消え去っている。


「大人は、迷惑だからってそんな風に言えないの。アナタを気遣って、鈴木さんは我慢してくれていたんでしょうね」


 母は包丁を置くと、顔を顰めて嫌そうに言った。

 その言葉に頭に血が上ったのがわかった。母にレイカの事を語られるのは、何故か我慢できない程の怒りと屈辱を感じた。


 咄嗟に言い返そうとした瞬間、テーブルに置いていた携帯が激しい音を立てて震えた。シンと静まり返った室内で、バイブレーションする携帯が跳ねて机を叩く音だけが響く。


 閉じたままのサブディスプレイには『レイカ』と表示されていた。それを理解した私は慌てて携帯を引ったくるように掴むと、開いて通話ボタンを押し、一言も聞き漏らさないように耳に押し当てた。


「……もしもし?」

『…………』


 電話の向こうは無言で、荒い息遣いと、鼻を啜るような水音だけが聞こえた。

 また、あの日と同じだ。

 何も話さないレイカに、私は何故かホッとしていた。

 この電話は、彼女が私に助けを求めているという事だ。――あの玩具箱のような部屋で、ひとりきりで。きっと彼女は、『あの男』にはそんな風に弱さを曝け出したりしないのだろう。


 それは昏い歓びだった。


「レイカさん……?」

『…………』


 名前を呼ぶと、躊躇うような沈黙の後、暫くしてブツリと唐突に電話が切れた。私は思わず顔を顰めて下した携帯を見て、数秒沈黙する。


「絢音……? 誰からの電話?」


 母が不審がって尋ねたが、私はそのまま無言で背を向けた。素早く玄関に向かうと、自転車を出す為に庭へと走る。後ろから何度も母が私を呼ぶ声が耳に届いた。


「絢音ッ! 待ちなさい、こんな時間にどこに行くの‼︎」


 追いついた母が、近所中に聞こえるような大声で私を叱責した。息を荒げたまま、進もうとする自転車の籠を掴み、私の行手を阻む為に力を込める。母は全力だったのだと思う。けれど、私の行動を阻む程の強さはなかった。


「どいて。私、行かないと」


 母を押し退けるように、無理矢理自転車を発進させると、母はたたらを踏んでのけ反った。


「絢音、戻りなさいッ! 絢音‼︎」


 背後から母の悲痛な程の声が聞こえたが、私は自転車をどんどん加速させて、夜道を走った。やがて母の声も聞こえなくなり、夜風の冷たさで耳が痛くなってきた頃。


「はは、は……」


 何故か笑いが込み上げてきて、私は自転車を漕ぎながら、一人で大きな声で笑った。

 母を振り切って走り出した事が、今更ながらおかしかった。こんな事が自分の人生で起こるなんて、思ってもみなかった。


 レイカの自宅のある隣の駅までの三十分、私は自転車を漕ぎながら高熱のような笑いを溢し続けた。

 その時ばかりはレイカの事も頭になかった。


 ただただ、今まで母の言いなりになっていた自分が、ひたすらおかしくて笑った。

 

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