5-3 私を打ちのめす人
優里亜と連絡がつかないと気付いたのは、飲み会から暫く経った後だった。
先日の飲み会の後、謝罪のメールを一通送ったが、それに対する返答がなかった。彼女はいつもレスポンスが早いので不思議に思いつつも、多忙なのだろうと特に気にしないようにしていた。
けれど、後日送ったレポートについてのメールにも返答がなく、もしかして不快にさせてしまったのではないかと、携帯を持つ指先が震えた。飲み会を途中で抜け出した事で、優里亜の気分を害してしまったのだろうか。
相変わらずレイカに日々メールを送りながらも、優里亜からの連絡はなかった。
このままでは、春休みに入ってしまう。大学の春休みは長い。怒らせてしまったのならば、春休みに入る前に、早急に謝罪したかった。
大学は広く、偶然優里亜と会える事にあまり期待はできない。構内で長い金髪を見かける度、優里亜ではないかと視線を送ったが、相変わらず彼女を大学で見かける事はなかった。
大学に住み着いている猫がよく中庭にいるので、私は時折中庭に足を運んだ。餌付けする事こそなかったが、猫がよく日向ぼっこをしているベンチは、私の中で特別な席だった。
そうしてベンチに座っていると、目の前をよく同じ大学の生徒が通る。顔も知らない人物たちは、私を視界に入れることはしない。
そんな中、派手な集団が目の前を横切った。
如何にも遊んでいる風体のそのグループは、私をチラリと見つつも一瞬で風景にしてしまう。
けれど、グループの一人が、驚いたような笑顔でこちらを指差した。
「あれ……アヤネちゃん?」
「……ヨシキさん」
いつかの飲み会で隣の席に座っていた、経済学部の男だった。
ヨシキは愛想の良い笑みを浮かべてこちらに駆け寄ると、迷う事なく同じベンチに座った。そのまま、他のメンバーに「先に行ってて」と声をかける。
「……お久しぶりです」
「相変わらず堅いな〜。この間、なんで帰っちゃったの? 優里亜は家が厳しいからって言ってたけど、アヤネちゃんって実は結構お嬢様なの?」
「……家は普通です……あの、優里亜って今どうしてるんですか? 連絡がつかなくて」
『お嬢様』という言葉の不快感よりも、タイミングよく出てきた名前の方が気になった。慌てて尋ねると、ヨシキは少し考えるような難しい顔をした。
「優里亜ねぇ……。あいつさ、大学辞めたらしいよ」
「えっ?」
思わず聞き返すと、ヨシキは硬い表情はそのままに頷く。
大学を辞めるなんて、あの飲み会以前にも彼女は一言も言っていなかった。いくら特別親しい訳ではないとはいえ、あまりにも突然過ぎないだろうか。
動揺する私の心を読んだように、ヨシキは溜め息を一つ吐いて、優里亜について話し出した。
「アイツさぁ、今デリで働いてるらしいよ」
「デリ……?」
「フーゾク。最近持ってるモンが急に派手になってきたから、ヤバいな~って思ってたんだけどね」
ヨシキは投げ出した革靴の爪先を見ながらそう言って、もう一度大きな溜め息を吐いた。
彼の言葉を信じられずに、慌てて否定の言葉を探して口を開く。
「で、でも、優里亜はガールズバーから落ちて行かないように、気をつけてるって……」
「気をつけてても、だよ。……夜の店って怖いよね。優里亜も頑張ってたけど、カード止められたり、色々あったみたいだよ。俺も別に詳しいわけじゃないけどさ。……アヤネちゃんは純粋そうだし、そういうの向いてないから、辞めときな」
端から自分が夜の店で働けるとは思っていないが、ヨシキは本心から忠告してくれたのだろう。真剣な顔で緩く首を振った。
私は優里亜が風俗で働いており、大学を辞めてしまったという彼の言葉に少なからずショックを受けていた。
彼女は夜のバイトをしながらでも真面目に大学に通っていて、経済的に自立した立派な人物だと思っていた。それ自体は今でも変わっていない。
明るくて誰とでも話せる優里亜を好ましく思っていた。テンションや性質は真逆でも、私にいつも声をかけてくれた。もう会えないのかと思うと気持ちが沈んだ。
ヨシキは俯いた私を見て何を思ったのか、ポケットからスマホを取り出して私に声をかけた。
「よかったら連絡先交換しない? 困った事あったら連絡してよ。春休みになるし、どっか出掛けたりとかもさ」
「あ……はい……」
明るい声に促されるように、私は鞄から自分の携帯を取り出した。緑色の折り畳み携帯を見て、ヨシキが突然はしゃいだような声を出した。
「ガラケーじゃん! 懐かしい!」
ヨシキの言葉で、私は簡単に優里亜を思い出した。
かつて、私の携帯を見ては「早くスマホにしな」と言って笑っていた。もう、彼女とそのやり取りはできない。
メールが返ってこないということは、彼女は私との関係を断つつもりなんだろう。
住む世界が変わってしまったような、静かな拒絶を感じた。
「……やっぱりいいです」
「え? アヤネちゃん?」
ヨシキは突然連絡先の交換を拒否した私を、不思議そうに呼んだ。私は彼を無視して、背を向けてその場を立ち去った。
ヨシキの事は、正直に言えばどうでもよかった。ただ、優里亜ともう会う事が出来ない事が切なく、彼女を半ば恨むような気持ちで思った。
何故踏み止まれないのだろうかと思うのは、傲慢なのだろう。彼女が何故夜の世界に身を沈めたのか、きっと私では答えは一生出ない。その世界に足を踏み入れた者しか、きっと分からないに違いない。
夜の街に沈んでいく彼女を愚かだとは思えず、彼女の行く末を想像する事も、何も知らない私には難しかった。
夕方からのバイトに出勤した後も、私は思考の端で優里亜の事を考えた。同じように体を対価に生活している、レイカの事も。
考えている間にもあっという間に時間が過ぎていく。ピークを乗り越えた店内は穏やかだった。
「いらっしゃいませ」
ドアベルの音と共に振り返り、薄く営業スマイルを浮かべた視線の先に、男女の姿が見えた。
私はその二人に視線が釘付けになり、片手にトレイを持ったままその場に無言で立ち尽くした。
客の内、一人はレイカだった。
グレイの温かそうなベロアのロングスカートに、オフホワイトのコートを羽織っていて、緩く巻いた茶髪が艶々と胸まで落ちている。その表情はいつもよりずっと暗く、斜め下を見ていて視線は合わなかった。
もう一人はグレイヘアを後ろに撫でつけた男性で、歳は五〇代くらいに見えた。
パリッとしたスーツを着込んでいるが、指に嵌めたアクセサリーや、垂れた目尻がどことなく嫌らしく感じる。
――『あの人』だ。
私は確信を持ってそう考え、唇を薄く開いたままじっと彼を見上げた。頭から血の気が引いて、足元が崩れていくような錯覚を覚えた。
男は皺の深い顔に愛想の良い笑みを浮かべると、指を二本立てて私を見た。何でもない、ただの風景を見る目だ。
「二人で、窓際の席に座ってもいいかな?」
「は、はい。……お好きな席へどうぞ」
いつもの、マニュアル通りの言葉を言う声が震えた。
男は迷う事なく窓際の席へ向かい、大きなガラス越しに見える大通りに一度視線を向けたのが見えた。
私は冷水の入ったグラスを二つ手に持つと、黙って二人の後を追う。
レイカは柄にもなく俯いて、小さな声で責めるように言った。
「……何も、ここじゃなくてもいいのに」
「いいじゃないか。ちょうど目の前にあったしな。じっと見ていたんだし、入りたかったんだろ?」
男の悪気のない声に、レイカはもう何も言わなかった。
私はグラスを手に持ち、テーブルへと一つずつ置いた。緊張しているからか、指が震える。まるで初めてバイトした日のように。グラスがテーブルと何度も触れて、カチカチと高い音を立てた。
「お冷でございます……」
「ありがとう。アメリカンを一つ。彼女にはロイヤルミルクティーを」
「かしこまりました」
お辞儀をしながら視線を向けると、窓に目を向けたレイカが眉を顰めたのがわかった。
私の中で、言葉にできない不快感が渦巻いた。
それはレイカがいつもカモミールティーを頼む事さえ知らない、彼への反抗心のようにも、私が出勤している事も知らずに、彼と二人で入店したレイカへの理不尽な怒りのようにも思えた。
「君と外で会うのは久しぶりだね」
「……どうして、突然」
「たまには良いだろ」
親しげに会話を始めた二人を視界に入れないように、私はそっと席を離れた。
注文を運ぶ時は誰かに持って行って貰おう。
そう思いながらカウンターへ戻り、オーダーを通したが、直ぐ後に年配の団体客が入った事を皮切りに店内は激しく混雑した。
普段は客足の落ち着いている時間なだけに、店内のスタッフはもう少なく、私はひっきりなしにオーダーを通し、出来たコーヒーや紅茶を運ぶハメになった。
「七番テーブル上がりました」
「……七番テーブル行きます」
カウンターに置かれたのはアメリカンとロイヤルミルクティーだった。私は感情を殺してその二つをトレイに乗せると、滴の一つも溢さないように慎重に運んだ。
「お待たせいたしました。こちらアメリカンでございます」
「ああ。ありがとう」
「ロイヤルミルクティーでございます」
レイカは無言でテーブルを見下ろしていた。既に見慣れた彼女の旋毛を見下ろして、私は出来るだけ動揺を見せないようにソーサーとカップをテーブルに下ろした。
「ミオリが淹れてくれるハーブティーもいいけど、たまには二人でカフェに行くのもいいな」
「!」
穏やかにそう言った男の言葉を、私は始め理解できなかった。
聞き馴染みのない名前を聞いて静止した私を、思わずといった風にレイカが見上げた。
束の間、視線が交わった。
先に逸らしたのはレイカだった。
男は立ち竦んだままの私に不思議そうな目を向けた。
「?……まだ、何か?」
「……あ……いえ……失礼いたしました。ごゆっくりどうぞ」
頭は真っ白だったが、習慣のおかげで自然に頭を下げる事が出来た。
私は慌ててカウンターに戻り、早鐘を打つ心臓を誤魔化すように伝票を確認した。見慣れた筈の伝票の数字が、まるで見知らぬ国の言葉のように見える。
思えば、彼女のフルネームさえ私は知らない。
『レイカ』と『ミオリ』。どちらが本名なのか。否。もしかしたらどちらも本名ですらないのかもしれない。
そう思うと、彼女の事を何一つ知らないような気がした。先日彼女の寝室に入り、浮かれていた気持ちを、天に見透かされたような気さえした。
心を無にしてオーダーを捌いていると、キッチンが落ち着いたらしい早見が無言で近寄ってきた。視線を向けると、早見は垂れ目がちな目を大通り側のテーブルに向けて潜めた声で告げた。
「あのお客さん、今日一人じゃないな」
「……そうですね」
「なんか、ただならぬ関係って感じ。不倫っぽい」
無表情の下に面白がるような気配を感じて、私は手に持っていたトレイを早見に向かって放り投げそうになった。抱いたのは今度は明確に怒りであり、誰彼構わず傷付けたいという、明らかな八つ当たりだった。
「……どうかした?」
「いえ……なんだか、気持ち悪くて」
「おい、大丈夫か? 急に忙しくなったから、目が回ったのか? このまま早退するか?」
先程とは打って変わって、早見は心配そうに表情を曇らせた。私はムカムカする胃を押さえて僅かに俯く。
胃の中に緑色の目の怪物がいて、跳ねながら暴れているようだった。
「おい、顔青いぞ。本当に帰った方がいいわ」
「……すみません。ヤバそうなので、そうします」
「いいよ、いいよ。もうすぐ閉店だし、今いるメンツで回せるよ。気にするな。店長には俺から言っておくからさ」
その言葉に甘えて、私は胃を押さえたまま休憩室に向かった。緩慢な動きで着替えをし、早見や他の少ないシフトメンバーに頭を下げてから裏口から店を出る。
まだ二十一時を回ったばかりの路上は人も多く、私はふらつきながらもバス停へと向かった。
大通りからガラス張りの店内が見える筈だが、私は意識して店は振り返らなかった。
レイカとあの男、どちらと目が合ったとしても死にたくなると思った。
――あの男は彼女の体を貪る対価として、金銭を与えている。
その事実が頭に重く伸し掛かり、酷い目眩がした。
話でしか聞いていなかったその男の姿を見た事で、漠然としていたイメージはよりリアルに、鮮明になって私の脳を占めるようになった。
ぐう、と鳩尾を強く押されたように、強い吐き気がする。気を抜けばすぐにでも吐き戻してしまいそうだった。
憂鬱な気持ちのまま自宅に帰っても、気持ちは晴れる所か不快感が増すばかりだった。
カレンダーに記したシフトよりも早い時間に帰宅した私に、母は具合が悪いのか何度も尋ねた。それに言葉を返す事もできずに、私はジェスチャーだけで自室へと上がった。
頭の中でレイカの細い肢体の上にあの男が伸し掛かり、陵辱する。その映像が何度もループして、頭を振っても離れていかない。
一人きりの自室で、私はベッドの上で膝を抱えて、じっと携帯を握り締めていた。
あの日のように「助けて」と電話が来る事を期待した。メールでも、何でもよかった。レイカからの連絡があれば、私はきっと今日の出来事もあの男の顔も、全て忘れる事ができる気がした。
しかし、当然そんな連絡が来る事はなかった。その事実が、夜が明ける頃の私をただただ打ちのめした。
眠れないまま気付けば明け方になっていて、閉めっぱなしのカーテンの隙間から朝日が差し込んで眩しかった。
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