5-1 レイカの過去


 部屋ナンバーを押すと、インターホンには応答がなかった。戸惑う間もなく、すぐさま携帯に電話がかかってきた。


『動けなくて……0000って押すと自動ドアが開くから、入ってきて。玄関は開いてるから……そのまま、二階に上がってきて』


 水っぽい声と共に、通話は切られた。部屋番号ではないその数字は、恐らく緊急用の解除番号なのだろう。


 動けないとは、どういう事なのだろうか。


 私は言われた言葉通りにオートロックを開け、レイカの住む1201号室を目指した。エレベーターの速度が、前回よりもずっと遅く感じる。


 許されていなかった、二階への入室を許可された。

 緊急である事に違いなかった。彼女は体を壊しているのかも知れない。インターホンにも出られないのなら、余程悪いのだろう。

 救急車を呼ばずに、何故私を呼んだのだろう。最悪の事態を想定して足がすくんだ。嫌な考えを振り払うように頭を振って、私は急いで廊下を足早に進んだ。


 レイカの言葉通り、玄関の鍵はかかっていなかった。中に入り、一瞬迷って玄関の鍵を閉める。


「レイカさん、入りますよ……」


 返事がない事を予想しつつも、一応声をかけてみる。案の定レイカの返事はなく、私は目の前の初めて上る階段を、はやる気持ちを抑えて一歩一歩踏みしめた。

 階段を上ると、扉は二つあった。向かって左の扉は開いていて、階段のライトが中をぼんやりと照らしていた。薄暗い中、奥に私のものより広いベッドが見える。躊躇いつつも、私はその部屋に片足を踏み入れて覗き込んだ。


「レイカさん、絢音です。大丈夫ですか……?」


 ダブルはありそうな白いベッドの上で、丸い布の塊のようなものが見えた。よく見ると、それは毛布に包まってひとかたまりになったレイカだった。


 レイカは顔を上げて私を視界に入れると、涙でぐちゃぐちゃになった顔を歪めて

「ごめん……」

 と一言謝罪した。


「何がですか?」

「後ろ、音がしてた……出先だったんでしょ」

「……大した用事じゃないですよ。ちょうど帰ろうかと思ってたんです」


 嘘ではなかった。普段は見せない申し訳なさそうな姿を見ていると、私は自然と笑みが浮かんで、優しい声が出せた。

 レイカは鼻をぐずぐずと啜って、また膝に突っ伏してしまう。


「……たまになるの。自分をコントロールできなくなるの。一人でいると、死んでしまいそうになる」


 くぐもった声を聞いて、私はふと納得して尋ねた。


「もしかして、そういう時にお酒を飲むんですか?」


 意識すれば、レイカからは強いアルコールのにおいがした。きっと、今日も深酒をしている。レイカは私の言葉に微かに頷いた。


「うん。……今日は飲んでも飲んでも、酔えなかった。だから、真っ直ぐ家に帰ってきたの」


 初めて見る弱りきった姿に動揺して、言葉が紡げなくなる。どうやら、このように弱っている姿ではあるが、彼女からすれば酔っている訳ではないらしい。

 私が戸惑って何も言えないでいる事に気付けないくらい、レイカは悲嘆しているようだ。


「耐えられないくらい悲しくなって」

「……」

「誰か、って思った時、……アナタしか」


 不謹慎な事に、その言葉に私は胸がじわりと熱くなった。そんな事を言われたのは、人生で初めてだった。彼女の、特別な相手に選ばれた気さえした。

 緊張感を無視して思わず口端が上がりそうになったのを、咄嗟に唇を噛む事で堪える。

 シンと静まり返った室内で、レイカの鼻を啜る音だけが響いていた。蹲ったまま、暫く二人でそうして黙ったままでいると、レイカがおもむろに呟いた。


「私ね。……働いてないの」


 私はその言葉に直ぐに納得した。


 彼女は学生である私が何時にメールを送っても、あまり時間を置かずに返信がくる。経済的に困窮しているイメージはなかったので、フリーランスなどで在宅で働いているのだろうと勝手に思っていた。無職とは思わなかったが、どのように生活しているのだろうか。


 私の心中での疑問に答えるように、レイカが俯いたまま呟いた。


「愛人生活、ってやつ。わかる?」

「え……?」


 予想外の言葉に面食らって、私は間抜けな声を出して固まった。

 レイカはその反応を予想していたのか、言葉を失った私を気にした様子もなく、そのまま話し出す。


「うんと歳上の男の人に、お金出してもらって生活してるの」


 顔を上げて自嘲を浮かべたレイカに、私は始め何も言えなかった。徐々に頭が働くようになると、一つの考えが浮かんだ。


「えっと、……パトロンみたいな感じですか?」


 リビングの絵画たちを思い出して咄嗟に尋ねると、レイカはぼんやりした顔で首を振った。


「ううん、あれはただの趣味だし、あの人は絵とか全然わからないから」


 『あの人』。


 レイカに金銭を渡している人物が不意に現実味を帯びて、私は思わず一瞬肩を震わせた。レイカはそんな私に気付かず、抱えた膝に頬を乗せて続ける。相変わらず長い睫毛が上下する度に、ふるふると涙が溢れた。


「本当に、ただの愛人。『ウリ』してる時に出会って、月にいくらで男の人に囲われてるの。このマンションも、全部あの人の持ち物なんだって」


 どこか幼いその喋り口調に何と返したら良いのかわからずに、私は視線をうろうろと彷徨わせた。


 その時やっと、今いる部屋の中が、リビングと随分テイストが違う家具で纏められている事に気付いた。完全に現実逃避である事に気付かず、私は部屋の小物や鏡に視線を向ける。

 レイカは黙ったままの私を不審に思ったのか、硬い声で尋ねた。


「驚いた?……気持ち悪い?」

「そんなわけ……でも、どうして……?」


 つい最近も聞いたような言葉だ。レイカの言葉を否定しつつも、何故そんな話を急に始めたのかわからず、私は動揺した。


「なんで、そんな事をしてるんですか」


 言ってから、私の発した言葉が、彼女を侮辱する意味になってるのではないかと思い、その重さに震えた。

 踏み入って良いラインを超えた私に、レイカは静かに語り始めた。


「中学生の時ね、……初めて売ったのは下着だった」


 まるではるか昔の旅の思い出を語るように、内容に反してどこか懐かしむ目だった。


「私の家は貧乏で、父親はいなくて、母親は男好きで、家に何日も帰ってこないのが当たり前だった。中学の同級生が下着を男の人に売ってるのを知って、私も始めたの。……一枚五千円だった」


 今の彼女からは想像もつかない。――否。私はそんな生活を知らない。父の稼ぎと母のパートで生活できている、ただの一大学生の私には。


 かける言葉も持たない私に、レイカは膝を抱えたまま小さな声で続ける。


「私は北海道出身なんだけど、北海道の冬はね、とにかく寒くて。暖房がないと凍死してしまうのに、お金がなかった。ストーブにいれる為の、灯油が買えなかったの。私が高校生の頃、初めて下着じゃなくて体を売ったのは、それだけの理由だった。……笑えるでしょ」


 笑える筈がなかった。


 こちらを見たレイカの目は、私の心の内を探るように、階段の光を反射して鈍く光る。


「セックスするのは別に初めてじゃなかったから、どうでもよかった。一回体を売ったら、下着なんてもう売っていられない。だって、その方がお金になるんだもの。あんまり長くは続かなかったけど」

「なんで……」


 何に対しての言葉なのか、自分でもわからなかった。けれど、レイカは「何故長く続かなかったのか」という意味にとったらしい。肩を竦めた。


「警察に捕まったの」

「え、……」

「再犯の危険性があるからとか言って、家裁送りになって、ベッカンに入れられた」

「カサイ……? ベッカン……?」

「知らないよね。家庭裁判所と、少年鑑別所の事。大まかに言うと、少年院の一歩手前かな。とか言って、私も別に詳しい訳じゃないけど」


 犯罪を犯せば、未成年の場合少年院に入れられるという事は、私の知識にもあった。けれどレイカの言う『ベッカン』の事は全く知らなかった。


「そこでは何をするんですか?」


 私が疑問を口にすると、レイカは記憶を辿るように目を細めて答えた。


「警察の人が何度も来て、話を聞かれたかな。あとは弁護士の人が来たり。反省していれば出られるし、再犯しそうなら少年院に行く。シャワーが……結局一ヶ月いて一回しか入れなかった気がするな。どうだったっけ。二回くらいは入れたかな。母親が世話できないって言うから、十八までは施設で過ごして、そのまま上京した」


 『ベッカン』について、レイカはやけに饒舌だった。夢を見ているような目で、ぼそぼそと続ける。


 レイカの話は止まらなかった。


 母親が迎えに来てくれた事。『ベッカン』で弁護士が母親に対して虐待だと指摘した事。結局母親は保護してくれず、施設に送られた事。――彼女の話は母親の事についての話が多くを占めていた。


 レイカの体は話しながら徐々に左に傾いていき、今にも倒れそうに見えた。


「レイカさん、大丈夫ですか? お酒、回ってきましたか?」

「……ううん。……そこでね、弁護士の人に言われたの」


 体に触れる事は躊躇われて、彼女の体を支える事は出来なかった。レイカは静かに首を振ると、そのままベッドにぽそりと倒れる。


「弁護士の人には、なんて言われたんですか?」


 床に勝手に座り、ベッドに横になったレイカを覗き込むように目線を合わせた。彼女は酔いが回ったのか、瞼を薄っすらと開いて、眼球をうろうろと彷徨わせている。

 レイカは暫く何も言わなかった。私は規則的な呼吸を繰り返す彼女の言葉を根気強く待って、黙ったままでいた。


 薄暗い部屋で、眠ってしまったのかと思った頃、レイカは細く溜め息を吐いた。


「……”あなたは誰も傷つけてない”」


 静かな声だった。


 私は聞き返す事も出来ずに、黙ったまま話し始めたレイカに耳を澄ませた。


「“あなたは物を盗んだ訳ではないし、誰かを傷付けてここに入れられた訳じゃない。あなたは悪くない”……そう、言われたの」


 レイカの言葉に、私は納得するべきか迷った。

 未成年売春で彼女は警察に保護されている。弁護士の言葉は間違いではないのだろう。正しい教育を与えなかった母親が、この場合は一番悪いのだろうか。

 けれど――。


「それはそうだよね。ちょっと時代を遡れば、体を売ってる女の子なんていくらでもいた。今の時代だから、条例に引っかかるだけ。私はただ自分の体を売り物にしただけ。……は、は……」


 自暴自棄にも見える、乾いた笑いを溢したレイカに、私は何も言えなかった。


「親の支配から抜け出す、なんて偉そうにアナタに言って、結局は今も男に支配されてる。……本当、バカみたい」


 吐き捨てるようなレイカの言葉を聞いて、先程から感じていた、違和感の正体がわかった。


 結局、今もレイカは男に体を売る事で生活している。彼女は体を売る事をやめる事ができなかった。弁護士の言葉は優しく、彼女の為に発した言葉だっただろう。けれど、果たしてそれは適切だっただろうか。警察に保護された彼女は、その言葉に救われただろうか。


 それでも、生活の為に文字通り身を削る彼女に、かける言葉はなかった。親の金で平凡に生活している私に何を言われても、彼女に響く事はないだろう。

 ベッドに身を預けたレイカの目から、ハラハラとまた涙が溢れる。私はそれを止める事も拭う事もできずに、じっとその人魚のような美しい眦を見ていた。


「こっちきて」


 レイカが私の腕を縋るように両手で掴んだ。腕を引かれるままに、レイカと同じようにベッドの上で丸まる。分厚いマットが乗せられたアイアンベッドが軋んで、鈍い金属音を立てた。


「一緒にねよ。……ごめんね」

「なんで謝るんですか」

「……私が、良い大人じゃなくて。……お母さんに、怒られちゃうね」


 酔いが回ったのか、レイカの舌はまた縺れて、どこかあどけない口調になっていた。強いアルコールのにおいのする体に抱きしめられて、居心地悪く身を竦ませる。

 彼女の過ごすリビングはあんなにも落ち着いたのに、初めて入った寝室は身の置き所がなかった。耳に心臓があるかのように、すぐ近くで自分の鼓動の音がする。


「……レイカさんが良い大人じゃなくても、私は……あなたのことが好きですよ。次にあなたが悲しい時は……絶対に私が助けますから……」


 迷った挙句言った声は、もう眠ってしまったレイカには届かなかった。こんな陳腐な言葉では、到底信用されないだろう。寧ろ彼女が起きていなくて良かった。

 私も眠ろうとしたが、先程のレイカの泣き顔が瞼の裏にチラついて、上手く眠れなかった。




 翌朝目を覚ますと、至近距離にレイカの顔があった。抱き締められたまま、身じろぎ一つもしなかったらしく、体の至る所が痛い。

 レイカの寝顔を初めて見た。

 まじまじと見ていると、その容貌の幼さに驚く。彼女の年齢は知らないが、初めて見る寝顔は同い年と言われても納得するいとけなさだった。


 体勢はそのままに、目だけで室内を見た。カーテンの閉められていない室内は、朝日が入って明るい。

 寝室は鮮やかな紅色と白で統一されていて、リビングを見た後では彼女の印象が変わる。猫足のチェストの上に置かれたカラフルな様々な小物や、床に転がった巨大なぬいぐるみを見ると、一見十代の少女の部屋のようにも思えた。意外にも、以前言っていた言葉に反して、リビングに置かれているような絵画は一枚も置いていない。


「子供っぽいでしょ」

「……びっくりした……いつ起きたんですか」

「アナタが部屋をキョロキョロ見始めた時から」


 ほとんど同時に目を覚ました事になる。

 レイカは抱き締めていた私の体を離すと、ベッドに座ってぼんやりと室内を見渡した。


「これも、あれも……子供の頃欲しかった物を集めたら、キリがなくなっちゃって。……誰にも見せられないから、この部屋に全部、置く事にしてるの」


 そう言って、レイカはぬいぐるみや、ガラスでできたお姫様のティアラや、小さな置き物に視線を巡らせた。何一つ与えられなかっただろう、彼女の幼少期を思うと、胸が苦しくなった。彼女は自分の悲しい子供時代を昇華する為に、この部屋を作ったのだろうか。


「本当はこういうの、好きなの。……似合わないでしょう」

「そんな事ないですよ。かわいいです」


 慌ててそう言うと、冗談めかした口調でレイカが唇を歪める。


「いつか、テーマパークで跪いてプロポーズされるのが夢だって言ったら?」

「それは……意外です」


 その言葉にひとしきり笑ったあと、レイカはもういつも通りだった。

 落ち着いた表情を浮かべ、無言で立ち上がる。無意識に支えようとした私の手は黙殺された。


「朝ごはん食べよ」


 独り言のようにそう言って、レイカは階下へ降りて行った。私も慌てて追いかけるように部屋を出る。

 扉を閉める寸前、振り返って部屋を見た。少女の部屋は、朝日を浴びてキラキラと輝いていた。

 


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