4-3 都会の男と呼び出し


 大学のカフェテリアは、講義の合間に入るのに丁度いいという事を先日学んだ。以前までは資料室や中庭にいる事が多かった私は、今日も時間つぶしの為にカフェテリアへと足を運んだ。

 視線を巡らすと店内には様々な人がいて、『こんな人、うちの大学にいるんだ』と、感心する事も少なくない。


 優里亜と久しぶりに会ったのは、講義までの時間潰しにカフェテリアに入るのを覚えて、暫くしてからだった。


「絢音!」


 背後から声をかけられた私は驚いて、慌てて声のする方を振り返った。とはいえ私に声をかける人はあまりいないので、声の主を予想する事は難しくなかった。


「優里亜、久しぶりだね」


 優里亜は金髪を後ろで一つに纏めて、大きなお団子にしていた。ひらひらとこちらに向かって伸びた指から、鋭く尖ったネイルが見えているのも変わりない。


「最近どう?」

「相変わらずバイトばっかり。優里亜は?」

「うーん。ウチもそんな感じかな」


 肩を竦めた優里亜から常とは違う空気を感じながらも、私は愛想笑いを浮かべて曖昧に頷いた。疲れているのか、どこか気怠そうな雰囲気が彼女から漂っていた。

 暫く雑談や講義の話に興じていたが、優里亜は思い出したように「そういえば」と改めて口を開いた。


「今日同期の子たちと飲み会するんだけど、良ければ絢音もおいでよ」

「んー……今日、かぁ」


 母の了承が得られるか、という疑問が真っ先に浮かんだ。母は飲み会の類に良い顔はしない。

 返答に迷う私に気付いたのか、優里亜は軽く首を傾げた。彼女の耳を飾る大振りのピアスがじゃらりと揺れる。


「バイト?」

「バイトは休みだよ」

「じゃあおいでよ!」


 このように積極的に誘われる事が普段はないので、断らなければならないことに少し胸が弾んだ。優里亜程声をかけてくれる相手は貴重だ。

 私は「母に連絡をとってみるね」と言って携帯に手を伸ばした。

 メールをしている間、まじまじと私の携帯を見た優里亜がいつもの言葉を口にした。


「スマホにしないの?」

「うーん。……実は、スマホにしようかなって、最近考えてる。別に今が不便なわけじゃないんだけど」

「お、前はこれでいいって頑固に言ってたけど……まさか、男かッ?」

「違うよっ」


 優里亜のはしゃいだ声を慌てて否定したが、彼女はにんまりと猫のように口端を上げて私を見た。


「スマホの方が連絡とか便利って、優里亜も言ってたでしょ。だからだよ」

「スマホで連絡したい相手ができたんでしょ〜! 吐けよ~!」

「だから違うって!」


 彼女の言葉を強い口調で否定しながらも、二人でクスクスと笑い合った。

 暫くして机の上に置いた携帯が震え、母からメールの返信が届いた事を知らせた。


「……あ、オーケーだって。珍しい」


 ハメを外さないように、とだけ返ってきたメールを見て伝える。

 予想外の返信に驚いたのは私だけではなく、優里亜も目を見張りつつも嬉しそうに声を弾ませた。


「やった! じゃあ行こうよ。十八時に駅前のトリキね」

「わかった」


 了承すると、優里亜は目に見えて喜びを露わにした。手をパチパチと叩いた後、持ってきたカフェラテに口をつけて啜り、喉を潤す。私も真似るようにコーヒーを口に運んだ。


「それにしても、絢音ってお嬢さんだよね」

「そんなことはないけど……」


 確かに男女交際に厳しい親だが、経済的には一般人だ。

 私が苦笑して否定すると、優里亜はつまらなさそうな顔で組んだ指に顎を乗せた。


「だって、ウチは門限もないし、飲み会に行くな、なんて言われた事ないよ」

「私も門限は一応ないよ」

「そうなんだ? でも、結構男関係とか厳しいって、前言ってなかった?」


 優里亜に以前飲み会に誘われた時、「男の人がいる飲み会には行けない」と言って、結局断ってしまった時の事を言っているのだろう。

 私は肩を竦め、「そうだね」と同意を口にした。


「男の人と二人で会うとか、母親に言ったら『不良』って怒られると思う」

「うげ……あり得な。過保護すぎじゃない? ウチら学生って言っても、もう成人した大人じゃん」

「不便はないけどね」

「実際今はよくても、もし三十、四十になって処女だったらどうするの?」


 明け透けな言葉にドキリとして、私は咄嗟に優里亜から視線を逸らした。

 優里亜は少しの不機嫌を滲ませた声で、私の親を非難する。


「親は一生一緒にいられないでしょ。だからパートナー探す訳じゃん」

「そう、だね……」

「その時になって、大学の頃、彼氏作っとけばよかったと思っても遅いんだよ。お母さんは上手く誤魔化して、今のうちに慣れといた方がいいって」


 優里亜は母親に対する文句に少しばかり熱が入ったようで、一度ふん、と鼻を鳴らした。けれどすぐに切り替えたようで、彼女はニッコリといつも通りの綺麗な笑みを浮かべた。


「なので、今日は追加で男の子呼んでおきます」

「えっ?」

「絢音の為に、私の大学の友達を駆使して、会を盛り上げます」


 かしこまったように優里亜はそう言って、素早くスマホを取り出した。驚くような速度で指を動かし、何やら方々に連絡をしているようだ。


「ちょっと、優里亜」

「いいのいいの。みんな集まって飲みたいだけだし、人数多い方が楽しいじゃん。予約もウチしとくし」

「もう……」


 首を竦めたものの、彼女の気遣いは純粋に嬉しい。集まりが嫌いな訳ではない。普段と違う事をするのも、たまには良いのかもしれない。

 美味しい物があったら写真を撮って、レイカに送ろう。

 そう思い付くと、夜が来るのが待ち遠しくなった。


 ――結局の所、期待は外れ、写真を撮る余裕などはなかった。


 十八時を少し回った頃に居酒屋に顔を出すと、既に店内には溢れんばかりの人がいた。優里亜の姿を探して辺りを見回すと、遠くから

「絢音! こっち!」

とよく通る声で呼ばれた。


 視線を向けると、優里亜が右手に大きなビールジョッキを持って手を振っているのが見えた。


「ごめん、少し遅れちゃった」

「大丈夫! 何飲む?」

「あんまりお酒飲んだことなくて……」

「じゃあカシオレにしとくか。オレンジジュース平気?」


 頷くと、レイカは店員にすぐに注文を伝えた。

 私は端っこの席に小さくなって座ったが、乾杯の音頭はなく、既にテーブルには何人もの大学生がグラスを空にしていっているのが見えた。

 直ぐに注文した酒が届き、私はその赤い液体をどうしたものかと視線を彷徨わせる。左を見ると、すぐ隣に座っていた男と目が合った。


「初めまして」


 低く落ち着いた声と共に、真横に座っていた男が、私を見てニコリと愛想よく微笑んだ。傷んだ茶髪に、少し日に焼けた肌をして、如何にも『遊び人』という風貌の男だ。


 私は戸惑いつつ一瞬優里亜を探したが、既に彼女は別のテーブルで競うようにグラスを空けていた。幹事である彼女に頼りっぱなしになるのも気が引けて、私は出来るだけ愛想の良い笑みを浮かべる。


「初めまして、中川です」

「俺はヨシキ。下の名前は?」

「絢音です」

「アヤネちゃん、アヤネちゃん。乾杯ね」


 ヨシキは私の目を見て、覚えるように私の名前を繰り返した。そのまま自分の持っていたビールジョッキを私のグラスに軽く合わせ、ごくごくと美味しそうに飲み干していく。


「あんまりお酒飲まないんだ」


 優里亜との話が聞こえていたのか、ヨシキは小首を傾げて私が手に持ったままのグラスを見た。


「そうですね、あんまり。えっと……ヨシキさんは、結構飲まれるんですか?」

「もう四杯目」


 快活に笑って、ヨシキは手で持っていたビールのグラスを掲げた。


「お酒、強いんですね」

「まぁまぁ。アヤネちゃんも、飲んでみたら意外と飲めるんじゃない」

「ちょっと⁉ 絢音の事潰さないでよ! そういう目的で呼んだんじゃないからね」


 遠くから優里亜の鋭い声がして、ヨシキは肩を竦めて「はいはい」と優里亜に聞こえない音量で軽く返事をした。優里亜は離れた席にいても私を気にかけてくれているらしい。少し照れ臭い気持ちを隠して、細長いグラスを傾けた。


 そのまま、話題は大学の話へと移った。

 ヨシキは同じ大学の経済学部で、私とはほとんど接点がなかった。挟まれる大学のあるあるネタも私は知らないものが多く、感心したり笑ったりと忙しい。彼は人気なスポットの情報にも強く、最近話題のカフェの話で盛り上がった。


 東京の人なんだな。洒落た小物や流れるような会話捌きに、私は少し距離をとりたくなった。いつも、洒落たファッションや自信のある佇まいに、私はたじろいでしまう。自分は浮いているのではないか。流行にも疎い私は、そういった事に自信がないのだ。


「アヤネちゃん、可愛いよね。なんか擦れてない感じがする」


 不意に沈黙が落ちて、黙ってグラスを傾けていた私に、ヨシキはそう言って椅子に乗せた自分の片膝を抱え込んだ。下から見上げられ、至近距離で見た彼の顔が意外と整っている事に今更気付く。


「そうですか? 確かに飲み会とかはあんまり来ないです」

「うん……なんかいいな。俺さ、アヤネちゃんと仲良くなりたいなァ」

「……ヨシキさん、もしかして酔ってますか?」


 苦笑しつつ返すと、彼は緩慢な動きで首を振る。テーブルに目を向けると、空になったジョッキが置いてあった。これで何杯目だっただろうか。


「酔ってないよ~。俺さ、最近彼女にこっ酷く振られたの。それで、癒してくれる女の子、募集中なんだよ」


 薄気味悪い空気を感じた。頭の中で危機を告げるセンサーが働いていた。

 彼は都会の男だ。流行を追う事を当然とし、女を貪る事に慣れた、東京の男。

 私は徐々に伸びてくる手から逃げるように、そっと鞄に手を伸ばす。優里亜の所へ行って、今日はもう帰ると告げて――頭の中で今から行うべき行動を考えていたその時、鞄から微かに振動が伝わってきた。


「あ……すみません、電話」

「ええ……折角の飲み会なんだから、そんなの後にしなよ」

「母かもしれないので」


 甘えるように言われたが、私は急いで鞄を持ってテーブルから離れた。携帯を取り出しながら店の自動ドアを潜り、エレベーターの前で開く。

 表示されたレイカの名を見た瞬間、考える間もなく電話に出ていた。


「も、しもし……っ?」


 初めてのレイカからの電話に、思わず声が上擦った。

 私は薄暗いエレベーターホールで、反響する自分の声を聞いてそれを恥じた。電話の向こうからは声ひとつしない。絶え間なく聞こえる水音だけが、電話が繋がっている事を主張していた。


 ――かけ間違いかもしれない。


 そう思い、電話を切ろうとした時だった。


『……助けて』


 小さな、簡単に聞き逃してしまえそうな声がした。


「えっ……レイカさん? どうしたんですか?」

『ごめん、ごめんね……本当にごめん。助けて欲しいの……』


 鼻水を啜るような音と、震えた小さな声が聞こえた。

 私は一瞬呼吸が止まって、瞬きも忘れて一点を見つめた。エレベーターの隅の、剥げかかった注意書きを見つめた。その間にも、電話の向こうから鼻を啜るような絶え間ない水音がする。


「今、家ですか……?」


 問いかける声も自然と潜めたものになった。電話の向こうから、しゃくりあげる音と共に何度も同意が返ってくる。

 私は鞄から財布を出すと、一万円札を一枚出した。


「すぐに行きます」


 脳裏にあの広いリビングで、レイカが一人で泣いている想像が過った。

 それは恐ろしく孤独で、悲しい光景だった。

 急いで自分から電話を切って、私は体を反転させて居酒屋に戻った。優里亜は戻ってきた私に何事かと問うような目を向けたが、直ぐに持っていた一万円札を無理矢理押し付けて握らせる。


「優里亜、ごめん。すぐに帰らなきゃいけなくなっちゃった」

「ええっ? 大丈夫なの?」

「本当にごめんね。また連絡する!」


 優里亜の返答も聞かずに、私は居酒屋を飛び出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る