3-3 距離感
日付が変わって少し経った頃、突然目の前から消えたレイカから、前置きもなくパジャマを渡された。前回渡されたものとは違い、今度は冬用の柔らかい暖かそうなデザインだ。
「お風呂入るでしょ」
当然の事のように言われ、咄嗟に頷いた。他人の家で風呂を借りる事が当たり前になっている事に落ち着かなさを感じたが、仕事終わりのままの体では横になるのにも抵抗があった。
シャワーを浴びる為に浴室へ向かって、私は恐る恐る浴室の扉を開けた。
何故かはわからないけれど、この家の浴室が怖かった。
幽霊だとか、そういうオカルトの話しではない。じわじわと滲み出る、緊張感のようなものがここにはあった。シャンプーボトルの向きを間違える事さえ許されないような、切迫した何かを感じる。
私は体を洗い流しながら、早くここから出たいと、そればかり考えていた。
「お風呂、ありがとうございました」
慣れない変な形をしたドライヤーで髪を乾かしてリビングに戻り、軽く頭を下げると、レイカは無言で頷いた。冷蔵庫の前まで移動すると、真っ白な扉を開けながらこちらを振り返る。
「何か飲む? あったかいのもあるけど」
「……お水をください」
キッチンで水のペットボトルを受け取ると、私はすっかり定位置になったソファへと歩を進めた。レイカは全く気にした様子もなく冷蔵庫を閉めると、小さなダイニングチェアに座って気怠そうにこちらを見た。脚を組み、テーブルに片肘をついている姿が映画のポスターのようだ。
「最近の大学生って、どんな事するの?」
雑談を振られたのが意外で、私は暫く返答を忘れた。「ねえ」と再度声をかけられ、ハッと我に返って口を開く。
「……うーん……飲み会ばっかりしてるんじゃないですか」
「あなたも?」
「私はお酒を飲まないですし、サークルにも入ってないので……バイトばっかりしてます」
「ふぅん」
至極詰まらなさそうな返答に首を竦める。
もし私がお酒を好きだったなら、彼女は一緒に飲んでくれただろうか。
彼女と楽しく飲み交わす姿をイメージしようとして、上手くできない。この部屋以外で彼女と会う想像ができなかった。同じテーブルを囲んで外食する事なんてあるのだろうか。そもそも、友達とも呼べない関係だというのに。
「何でお酒飲まないの?」
レイカがダイニングテーブルに肘をつきながら尋ねた。私は少し考えて、お酒の味を口の中で再現してみる。初めて飲んだ日のビールの独特の苦味が口の中で広がって、思わず顔を顰めた。
「アルコールの独特な味、美味しいと思えなくて。ジュースの方がマシです。……子供っぽいですかね?」
肩を竦めると、レイカは面白がるように口端を上げて答えた。
「味に関しては慣れもあるかな。美味しいから飲むと言うより、大学生なら酔うのが楽しいから飲んでるんじゃない? 何か失敗しても、酒のせいにできるし」
話を聞きながら、「なるほど」と返す。
以前大学の付き合いで飲みに行った際、席についたみんなは酔っ払う速さを競っているかのようにグラスを次々空にしていた。確かにあれは美味しいから飲んでいる風には見えない。
「まだ学生の内に酒は失敗しておいた方が良いと思うけどね。大人になって泥酔して間違いでもおこしたら、目も当てられない」
そう言ったレイカの顔は皮肉そうに歪んでいた。それを見て、彼女は大人になってから失敗したのだろうか、と考えてみる。
饒舌な今ならこの質問にも答えてくれるかもしれないと思い、私は徐に口を開いた。
「レイカさんは何であんなに酔っ払うまで飲んでるんですか? 体に悪いんじゃないかって、思うんですけど……いつもあれくらい飲むんですか?」
「普段はあんなに飲まないわ。……大人は、飲まずにいられない日があるの。アルコールで思考を麻痺させて、遣り過ごすしかない日がね。子供にはわからないよ」
突き放すわけでもなく静かに返され、私は肩を竦めて「もう二十歳なんですけど……」と答える。レイカは声に出さずに笑って、
「子供だよ」
と言った。昔を懐かしむような、優しい表情だった。見惚れてしまう程愛らしい顔だった。
私が何も言わないでいると、レイカはふとスイッチが切り替わったように無表情になって椅子から立ち上がった。
どうやら、雑談は終わりらしい。
長い髪を掻き上げて背中に放ると、彼女は真顔のまま私の方へ向いた。
「私、そろそろ寝るから。あなたは明日、私より先に出るなら鍵はかけなくていいよ」
「わかりました。おやすみなさい」
「……おやすみ」
また不思議そうな顔をされた。もしかして、挨拶をする習慣がないのだろうか。毎回そんな顔をされると、慣れるまで何度でも言ってやろうかなと思う。自然に挨拶を返してくれるようになるまで、どれだけの時間がかかるだろうか。いつか、笑顔で「おやすみ」と言ってくれる日が来るだろうか。
当たり前のように、次も一緒にこの家に来ると思ってる事がおかしかった。
私たちの関係は何だろう。
顔を合わすだけならば何度もあったが、マトモな会話をしたのはまだ二回目だ。それも、毎回酔った彼女の自宅まで着いて行っている。酔いが覚めた後も、彼女は迷惑そうには見えない。部屋の中での彼女は、珍しい生き物を見るように、面白がって私を見ているような気がする。そして、自分の触れて欲しくない事には絶対に触れさせない。
ソファに横になって、床に直で置かれた絵画を見る。真っ暗なリビングで、白っぽい淡い色彩だけがぼんやりと浮かんで見える。
それでも、絵の事は教えてくれた。
何となく、今はそれだけで十分な気がした。
レイカがダイニングテーブルにコトリ、コトリ、と何かを置いている微かな音で目が覚めた。
私は暫し目だけでぼんやりと彼女を見て、彼女がキッチンへ歩き始めたタイミングで背中に向かって小さな声で「おはようございます」と口を開いた。室内は暖房がよくきいていて暖かく、もこもこのパジャマに包まれた私は軽く汗ばむ程だった。
「……おはよう」
どこか居心地悪そうな顔でそう返すと、レイカはゆっくりとした足取りでキッチンへ向かう。また何か器のようなものを持って戻ってきた。
最後にマグカップを二つ持ってきて、レイカは振り返って私を見た。
「朝ごはん、食べる?」
その声がどこか固く、何故か緊張している風だったので、寝起きのぼんやりした私は思わず素直に笑ってしまった。甲斐甲斐しく世話をやく姿が意外で、この状況がおかしく感じた。
「……何?」
「いえ。いただきます」
怪訝そうな声を出されたが、私はそれには答えずに席に着いた。
何故急に、食事を用意してくれたのだろう。ダイニングテーブルに敷かれたランチョンマットの上に、お洒落な食器が並んでいるのを見下ろす。
否。考えてみれば、前回も今回も、何か飲むか訊かれたり、パジャマを貸して貰ったり、何かと世話を焼かれている。それが、喫茶店で見るあどけない笑みとも、マンションに入る前の冷めた表情の彼女とも上手く重ならない。どれが彼女の本質なのだろうか。
食卓は彩り豊かだった。まずお互いの席の目の前に大きなサラダボウルが一つずつ置かれ、ゆで卵やささみと一緒に葉物やトマトなどの野菜がふんだんに入れられていた。ついでのようにその隣に、皿に乗せたクロワッサンが一つ、置かれている。
「糖質制限してるから、パンがそれしかなくて……」
私の視線に気付いたのか、まるで言い訳するようにレイカは言って、私の目の前のクロワッサンから目を逸らした。テーブルの上を見る限り、節制した生活を送っているらしい。匂い立つ程飲酒する彼女と、目の前の野菜だらけの朝食がイコールで結びつかずに、私は目を瞬かせた。
「凄い、お洒落なカフェのご飯だ」
私が勤めている『喫茶店』ではなく、もっとお洒落な今時の若い人が行く『カフェ』の朝食だ。
レイカは私の言葉にどこかホッとした様子を見せ、そのままフォークを握って無言で食べ始めた。
「いただきます」
食べる前に手を合わせると、レイカは目を軽く見張って自分の目の前のサラダを見下ろした。そして、引き続き無言で口を運ぶ。
「ドレッシング、何ですか?」
「オススメはにんじんのやつ。紫蘇とかサウザンドとか、他にもあるよ」
「じゃあオススメのやつでいただきます」
見た事のないお洒落なボトルのドレッシングを回しかけ、口に運ぶ。野菜以外の硬い食感や、春雨のような柔らかい食感の食べ物も入っていて口が楽しい。
「この、硬いのは何ですか?」
「クルトン」
「へぇ。美味しいです。こっちは何ですか?」
私が質問すると、意外にもレイカは次々と食べ物の名前を教えてくれた。色んな物が入っているからか、大量のサラダでも飽きる事はなかった。
合間にクロワッサンも摘んでみると、普段食べているパンとは何か違う。甘味が少ないような、時折苦味を感じるような、不思議な味だ。とはいえ、美味しい事には変わりはないので、私は気にせず黙々と咀嚼した。
「知らない食材が多いです。食べたことのない物ばっかり。レイカさんは料理上手なんですね」
「ただのサラダだけど。……そっか。若いっていいなぁ。知らない食べ物が、まだまだ沢山あるんだ」
始め感心したような声が、それとは違う嫌な響きを含んでいったような気がして、私はヒヤリとして一瞬手を止めた。それには気付かなかったようで、レイカは目を伏せて続ける。
「今日は大学は?」
「今日は講義がないので、午後からバイトです」
「ふぅん」
私はもう完食目前だったが、レイカはまだ半分も食べていないようだった。食欲がないのかも知れない。あまり進んでいないように見える。
「美味しかったです。ご馳走様でした」
手を合わせると、レイカは困った顔をしてこちらを見た。悩んだ様子で暫く沈黙した後、結局、「うん」と一言返ってくる。
マグカップには温かなお茶が入れられており、匂いからしてハーブティーのようだった。馴染みのないそれをゆっくりと口に含む。花のような草のような、独特の味がした。お茶については美味しいとは思えなかったので、気の利いた感想を言えなかった。慣れないだけで、慣れたら美味しいのかもしれない。
一人だけ先に食事が終わると、手持ち無沙汰になった私はまた室内の絵を眺めた。頭の片隅で、食事も頂いてしまったし、洗い物をしたら帰ったほうが良いだろうと考える。
他所ごとを考えていると、レイカは食事の手を止めてこちらを見た。
「また見てる。……そんなに好きなの?」
どちらかといえば目よりも頭を使っていたので、絵の事を言われたのだと一瞬わからなかった。レイカを見ると、先ほどまで私が見ていた絵の方に視線を向けている。私は慌てて口を開いた。
「好きです。正直、こんなに絵に惹かれたのは初めてです」
「……そう」
困ったような、居心地悪そうな顔をして、レイカは曖昧に頷いた。いつもの鋭利な雰囲気はそこにはなく、眉の下がった表情は彼女をより幼く見せた。今日は朝から、何だかレイカの様子がおかしい。
それからゆっくりと時間をかけて朝食を摂ったレイカは、無言で食器を片付け始めた。私も慌てて席を立ち、自分の使った食器を持って後を追いかける。
「洗います」
「要らない。人にキッチン触らせるの、嫌だから」
「えっ……すみません、えっと、……ごちそうさまでした」
泊めて貰って食事の御礼もできないとなると、流石に申し訳がない。どうしよう。
私が肩を落としたのがわかったのか、レイカは小さく溜め息を吐いた。ちらりとこちらに視線を向けると、無表情のまま口を開く。
「今日、新しいキャンバスの準備をするけど、見ていく?」
「いいんですか? 見たいです」
思わず即答すると、レイカは予想通りと言った風に少しだけ笑った。
片付けを終わらせると、レイカは二階へと向かった。
「座って待ってて」
と言われ、大人しくソファに座って絵画を眺める。二階からは何か重い物を動かしているような物音が時折聞こえてきた。
見たこともないこの家の二階を想像してみる。手持無沙汰だった。
このリビングよりも絵が多いと言っていたから、作業部屋のようになっているのだろうか。――レイカは二階で眠っているとも言っていた。ならば、作業部屋というよりかは、寝室にここと同じように絵が並んでいるのかも知れない。
暫くして、レイカは小脇に抱えられる程度の大きさの板と紙、バケツのようなものと刷毛を持って降りてきた。初めて見る道具をまじまじと見ている私に気付くと、板を私に見えるように角度を変えて向けた。
「この板に、絵を描く紙を貼っていくの」
そう言うと、彼女はバケツのようなものに水道水を汲んできた。案外たっぷりと満たされていて、重そうに見える。
――ただ紙に絵を描くだけじゃないんだ。
レイカは『準備』と言っていた。絵を描く前に、準備が必要な事すら私は知らなかった。
リビングの湾曲したテーブルに紙と板を置いて、レイカは刷毛を握る。
「これをすると、どんな効果があるんですか?」
口にしてから、もしかしたら彼女は不快に思うだろうかと心配になった。作業中に話しかけられるのを嫌いそうなタイプに見える。
レイカは手を動かしながら真面目な顔で一つ頷いた。
「紙って、水を含むと波打ってしまうから。これをすると、水彩を置いて、乾いても紙がピンと貼ったままになるの」
「へええ!」
レイカは大きくバツを書くように刷毛で紙に水を塗った。そのまま、どんどん刷毛を滑らせていき、紙は水浸しになっていく。
「これを専用のテープで留めるの。糊になってるから、水が渇く前に急いで塗る」
絵の話をしている時、レイカは意外にも饒舌だった。
「ここを伸ばさないと、綺麗に貼れないの。テープがここにかからないようにして。……これ、水張りっていうんだけど」
綺麗に整えられた、長い爪の乗った指を器用に操って、レイカは見る見るうちに紙を板に貼り付けた。何だかよく見る形になった気がする。時間感覚を失っていたけれど、実際は十五分もかかっていたかわからない。
「これが乾いたら、色を乗せても大丈夫」
「どれくらい乾かすんですか?」
「自然乾燥なら半日くらいかな」
「そうですか……」
つまり、今日は絵を描いている所は見られない、という事だ。
私が残念がっているのがあまりにもわかりやすかったのか、横目で見ていたレイカが小さく吹き出す。
「ふ……。準備って言ったでしょ?」
「絵を描いてる所も見たいです」
躊躇わずに素直に言うと、レイカは少し考えるように目を斜めに向けて、
「じゃあ、連絡先交換する?」
と真顔で言った。
余りにも意外な言葉に、聞き間違えたかと思った。けれど、レイカは無言のまま私の返答を待っているようだ。
「いいんですか?」
「別にいいよ」
頷いたレイカの気が変わらない内に、急いで自分のバッグから携帯を取ってきた。
慣れた動作で連絡帳を開くと、それを見たレイカがギョッとして二度見する。
「今時ガラケー!?」
初めて聞く声のボリュームだった。
言われ慣れている言葉だったので、私は驚きを隠して軽く目で咎めるだけに留める。
「何ですか、大きな声で……別にいいでしょ……不便じゃないですもん……。早く、レイカさんのメールアドレスと電話番号、教えてください」
「はは……メールの機能なんて随分使ってない」
軽く笑って、レイカは自身のスマートフォンを持ってきた。本当に使う事がないようで、四苦八苦しながら自分の連絡先を表示し、私に見せてくる。
私は急いでそれを携帯に登録すると、何度も何度も打ち間違いがないか確認した。
「メールするから、返信ください」
「……気が向いたらね」
肩を竦めてレイカはそう言うと、用のなくなったスマートフォンをテーブルに置いた。
携帯で時間を見ると、正午までそんなに時間がない。昼のバイトに出る為には、そろそろ向かわなくてはならない。この家からバイト先が徒歩圏内な事が救いだ。バッグから昨日着ていた服を出して、着替えの為にのそのそと部屋の隅に行く。
レイカは着替えている私の方は見ずに、ぼんやりと真っ白なキャンバスを見下ろしていた。小さく欠伸を噛み殺す音が聞こえた。
「じゃあそろそろ、帰ります」
着替えの終わった私が声をかけると、レイカは無表情のまま「うん」と頷いた。私は積極的な気持ちで、はっきりと
「また、来ます」
と言った。緊張していたせいで、笑顔は作れなかった。
そう、と言って、レイカが笑った。僅かな戸惑いと照れ臭さが滲んだ笑顔は、今まで見たどの顔よりも魅力的だった。
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