3-2 母娘
予定していた講義が終わり自宅に帰ると、母は既にパートから帰ってきていた。キッチンの水道の前に立ち、初めて無断外泊をした私を無表情に見て、「おかえり」と小さな声で言う。
「ただいま」
「……昨日はどこで泊まったの?」
予想通りの言葉に、私は用意していた通り、「雪が酷かったから、駅前のネットカフェで泊まったよ」と答えた。
「男の人の家じゃないわね?」
「そんなんじゃないよ」
これは嘘ではないし、母に伝えるのに何の罪悪感もなかった。
その言葉が嘘ではないとわかったのか、希望通りの答えだったのか。
私の言葉をきいた母は途端に機嫌を直し、いつも通りの柔らかな表情で大きく頷いた。
「そうね。絢音がそんな事する筈ないわ。良い子だものね」
「うん。泊まるような男友達もいないし」
母は私の台詞に一人で大きく頷くと、冷蔵庫から野菜を次々取り出し始める。材料を見る限り、シチューかカレーを作ってくれるようだ。
立ったままそれを見ていると、トントン、と母が材料を切る一定のリズムが聞こえてくる。母はこちらも見ずに、言い聞かせるような口調でいつもの言葉を囁いた。
「絢音、お母さんに言えないような事はしないでね」
「しないよ」
「お母さん、絢音が不良になったら悲しいからね」
「うん」
嫁入り前から男の人の家に泊まる事は、母にとって非常に不健全な事らしい。平成の世で、いつまでも昭和の価値観で生きている人だ。
高校生になった辺りから、母は何度も私に繰り返し「良い子とは」と言ってきかせた。
私は母の言う通りに生きてきた。納得しているからではなく、特に不満がなかったからだ。
「今日はシチューにするから、課題でも終わらせときなさい」
「ありがとう、お母さん」
母に対する百点満点の答えを返すと、彼女は満足そうに鼻歌を歌った。昔流行った派手なメロディで、耳に不快な余韻を残した。
それから、時折バイト先の喫茶店でレイカを見かけるようになった。私がレイカを『認識できるようになった』と言った方が正しいかもしれない。
レイカは多い時で二日に一度喫茶店に来た。その頻度の高さを思えば、早見が以前「店で一番客の顔を覚えない」と言っていたのは間違いでもなかった。
私は客を思ったより見ていなかったようだ。例え常連客でも、イメージより実際は覚えていないのかも知れない。
レイカは決まって夕方以降に現れ、無表情で席に着き、雑談に興じる事もなく、注文以外一言も喋らない。
私とレイカは彼女の自宅で別れて以降、一度も会話をしていなかった。業務に必要な事のみを話している。
再会した日にレイカは私を見ても顔色ひとつ変えなかったので、完全にタイミングを逃したのだ。
「あの女の人……」
「だれ?」
雑談のついでに私が漏らすと、シフトが被っていた早見は首を傾げて店内を見た。
「七番テーブルの」
「ああ……あの、よく来る美人の」
テーブルを確認した早見は、納得がいったという風に頷いた。手は紅茶の為にタイマーに触れていて、既に慣れた動作がブレることはない。
私は少し声を顰めて尋ねた。
「結構来ます?」
「一週間に二回くらいは来てるんじゃない? 夕方シフトん時、よく見かける気がする。……何かあった? クレーム?」
「や、そういうのじゃないですけど……早見さんって、あの人と雑談した事ありますか?」
――早見さんも、彼女の家に行った事がありますか?
喉元まで出かかったその言葉を飲み込んだ。
私が珍しく客の事を訊いたからか、早見は不審そうな目で私とレイカを交互に見た。
「いや? ないな。喋りにくる客じゃないんだろ」
「そうですか……」
喫茶店にはただ誰かと話したいという理由で毎朝来店する客もいる。そうでなくても、愛想の良い客ならばこちらも雑談に応じる事もある。
彼女はそういうタイプの客ではないと言い切って、早見は会話を終わらせた。
返事をしながら、私は何故か安堵していた。自分でもどうしてかはわからないが、レイカのあの部屋に、早見が行くのを想像すると嫌な気分になった。優越感に浸りたいのだろうか。自分のことがよくわからないのは不快だった。
喫茶店でいつも通りの仕事をしながら、遠くからレイカを眺めているのはどこか心地よかった。そんな日が何日か続いた。
レイカはいつも通り無表情で席に着いて、細長い指でスマホを弄っていた。時折窓の外を眺める横顔の輪郭がシャープで、煙ぶる睫毛が美しいと思った。
早見との会話から二日経った、何も特別ではない金曜日。
あと三十分もすれば閉店という時間に、レイカは冷たい風と共に店内に滑るように入ってきた。ラストオーダーまで五分もなかったので、本当にギリギリの時間だ。
私は少し驚きながら、マニュアル通り「お好きな席へどうぞ」と声をかけた。水の入ったグラスを席へ持って行くと、彼女からは濃密なアルコールの香りがした。
――また、酔っている。
レイカが飲酒して来店するのは、あの雪の日以来だった。私は俄かに緊張して、注文を控えるバインダーを持つ手が微かに震えた。
「カモミールティーをください」
「かしこまりました」
レイカはいつもの調子でそう言ったが、近くに寄るだけで鼻を押さえたくなる程の強いアルコールのにおいがした。どれだけ酒を飲んだらこんなにも強く香るのだろう。
私は咄嗟に「大丈夫ですか?」と尋ねたくなったが、あのマンションでの会話以降彼女と話していないことが、私を躊躇させた。
「……ねえ」
「!……」
オーダーを通す事もせずにぼんやりと考え込んでしまっていた私に、レイカはニコッと明るく笑いかけた。
自分の心臓が、突然大きく脈打ったのがわかった。
私は中途半端に口を開いたまま、呼吸を止めて彼女を見下ろした。抱いたのは既視感ではなく、震える程の期待だった。
「今日、一緒に帰ろう?」
いつかと同じ、あどけない笑顔でレイカが言った。私は興奮から徐々に顔に熱が集まるのを感じながら、何でもない風を装って小さく頷いた。
顔は赤くなっていないだろうか。不審な動きをしていないだろうか。普段であれば気にしないシャツの皺が急に気になった。そんな私の様子には気付いていないのだろう。レイカは甘いミルクを飲んだように破顔した。
「よかった。これ飲んだら出るから、外で待ってるね」
「……寒く、ないですか?」
震えた私の声に、レイカは「大丈夫」と笑って答えた。その声はマンションで聞いたそれとは違い、とても幸福そうな声だった。その事が余計に私を混乱させた。
私はすぐさま店長にオーダーを通した。レイカと会話している間にラストオーダーも過ぎ、閉店までの時間を何度も時計を見て過ごした。
あと十分程で閉店という時間、店内にはレイカ以外の客はいない。
それまで窓の外をぼんやりと見ていたレイカは、おもむろに伝票を持ってレジにやってきた。私が素早くレジに向かい会計を済ませると、彼女は店で見る普段の姿と見違える程柔らかく微笑んだ。
「外で待ってるね」
「は、はい……」
唇の横に手を添えたレイカに、内緒話をするように小さな声で囁かれて、私も同じように小さく頷いた。
幸いな事に、店長はキッチンに入り浸っていてこちらを気にしている様子はない。この柔らかい表情を、自分が独り占めできたようで胸が弾んだ。
それからの十分、私は気も漫ろで店の閉店準備を急いだ。店長は不審そうに「何か用事?」と頻りに訊いてきたが、上手く誤魔化す事も出来ずに曖昧に同意した。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様。次もよろしく」
店長の言葉に返事もせず店内を後にし、休憩室へと急ぐ。
私が過去最速で着替えを済ませ、急いで店の表に出ると、レイカは先日と同様ぼんやりと景色を見て立っていた。あの日と違って雪は降っていないが、鳥肌が立つ程に寒い。
「待たせてしまって、ごめんなさい……」
軽く息切れしながら謝罪すると、レイカは「いいよぉ」と間延びした声で返事をした。ほやりとしたその表情を見ていると、私の口角は自然と上がった。
レイカの家まで十五分程の道を、緩慢な歩調で進む。冷え切った空気を浴びて、耳が千切れそうな程痛い。
レイカはいつものベージュのコートを羽織って、コツコツとヒールを鳴らして前を歩いている。その足取りは軽やかで、酩酊しているようには見えない。
私はずっと気になっていた事を尋ねるチャンスだと思い、僅かに躊躇いつつも口を開いた。
「な、んで……いつも、私を誘うんですか?」
思わず上擦った声で尋ねると、レイカはこちらを一度も見ずにのんびりとした口調で返した。
「ええ、何でだろ? わかんないけど」
「いつも、酔うとこんな風に誰かと帰るんですか?」
「んー……何でそんな事訊くの?」
質問返しした声が一瞬低く、尖ったように聞こえた。私は慌てて謝罪の言葉を口にする。
「ごめんなさい……」
「別に怒ってないよぉ」
それから、私は何を喋ったら良いのかわからずに無言で歩いた。レイカも口を開く事はなかったが、時折機嫌が良さそうな鼻歌が聞こえてきた。
曲名もわからないそれは、ゆったりとしていて盛り上がりのない曲だった。けれど耳に届くハミングは、不思議と聴いていて心地よかった。
暫く歩くと、レイカのマンションが見えてきた。青っぽいグレイのマンションは、雪がない今日もあの日と同じようにそこにあった。
マンションの前まで来たレイカは、一度大きく溜息を吐いた。そのまま不意に振り返り、私の姿を視界におさめると、つまらないものを見たかのように小さく鼻を鳴らした。
「……酔い、冷めました?」
恐る恐る私が尋ねると、レイカは渇いた笑いを溢して「冷めた」と一言答えた。
酩酊したことのない私には違いがわからないが、彼女の酔い方はよく見る酩酊状態とは違う気がした。翌朝まで長引かず、こんなにも急激に冷めるものなのだろうか。あるいはとっくに酔いは冷めていて、だからこそ黙っていたのか。
オートロックを開けたレイカがこちらに視線を投げたので、私は慌ててマンションの中に小走りで入って行った。レイカはほんの少し驚いた様に刮目して、私の背を目で追った。言葉はなかった。
レイカの自宅に足を踏み入れるのは二度目だ。
相変わらずゴミの一つもなく整えられた部屋に、印象的な水彩画が規則性もなく置かれている。絵が増えた様子はなかったが、それらをまたじっくりと見られる事が嬉しい。
私は前回はよく見なかった家具や家電にぼんやりと視線を向けた。
小さな二人がけのダイニングテーブルや、アイボリー色の広いソファ。白い壁に囲まれた部屋に置かれた、真っ白で湾曲したテーブル。
白とベージュを基調とした部屋は、青や水色の多い水彩画の存在が際立って見える。まるでその為だけに家具を一式誂えたようだった。
レイカは冷蔵庫から水のペットボトルを出すと、キャップを外して大きく二口飲み込んだ。静かな溜め息が聞こえてきて、私はそちらを向く事はせずにソファに座った。
「……勧めてもないのに座るの。相変わらずね」
無礼だ、と詰る響きはなく、どちらかと言うと面白がっているような声だった。私は何も答えずにレイカの方を見た。
体の力を抜くと、ほお、と熱っぽいため息が溢れた。
ここにいると、何故か落ち着く。この部屋に入るまではレイカの事をどこか恐ろしく思っていた。けれど部屋に入った途端、萎縮していた自分はなりを潜め、まるでここが定位置かのようにソファへと向かって行った。
何をするでもなくソファに座ってじっとしていた私に、レイカはまるで旧知の仲のように言った。
「バイト終わりでしょ? お腹空いてる?」
冷蔵庫を覗き込みながらガサゴソと何やら触り、ペットボトルの水を冷蔵庫にしまうのが見えた。
「賄いがあったから大丈夫です」
と、いっそ失礼にも聞こえる口調で私がハッキリと答えると、レイカは然程興味がない様子で「そ。」と簡潔に言って冷蔵庫を閉めた。
もしお腹が空いたと言ったら、どうするつもりだったのだろう。まさか手料理を振舞ってくれるのだろうか。
ふとそう思い、右手で胃の辺りを押さえた。嘘でも、空腹だと言えばよかったのかも知れない。
「シャワー浴びてくるから」
私の方を一度振り返り、彼女は返事も聞かずにキッチンを後にした。また、あの病的なまでに清潔な浴室へ向かったのだろう。その背を見送って、私は力を抜いソファの背に体を預ける。革張りのしっとりとした感触が衣服越しに伝わってきた。
レイカは私を歓迎はしていないが、この部屋にいる事を拒絶もしなかった。
彼女の事は何もわからないのに、自分が拒絶されていないという事は確信を持って言えた。そもそも、何故私を連れて帰るのかもわからないのだけれど。他の人を連れ混んでいるのか訊いても、躱されてしまったし。
どうしてそんな事が気にかかるのか。ふと疑問に思い、顔を顰めた。
彼女が他の男なり女なり、誰かを家に上げたとしても、私には関係ない事だ。けれど、考えるだけで喉が狭まったような錯覚を覚える。
下らない考え事よりも大学のレポートをしようかと一瞬頭を掠めたが、中々その気にはならなかった。この部屋でテキストを開いて課題をする事に抵抗があった。その為、私はレイカが浴室から戻ってくるまで、ぼんやりとリビングの絵画を眺めていた。
私には美術の知識はない。休日に美術館にも行かない。高校でも美術を選択しなかったので、最後に絵画に触れたのは中学生の頃だと思う。
目の前にある絵は、そんな美術の知識のない私にも訴えかけるものがあった。繊細なタッチはもう直ぐ消える生命の儚さを感じ、描かれた女の表情はどれも悲哀に満ちている。絶望を与えない代わりに、生きる事の希望も感じない。
そんな事を考えている内に、どれだけ時間が経っていたのだろうか。
気付けば再び冷蔵庫を開ける音がして、湯上がりのレイカが水を飲んでいた。
「……何?」
「……いえ、えっと……何もないです」
じっと見られている事に気づいたレイカが、軽く眉を顰めて私を見た。私は慌てて頭を振って、話題を探して視線を彷徨わせた。先ほどまで見ていた、一番近くにあるドレス姿の女性の絵に目が留まる。
「レイカさん、これって……誰の絵ですか?」
手が届かない場所にある絵画を指差して尋ねると、レイカは思案するように目を細めた。
教えられたからと言って、知らない人名である事は間違いない。それでも、強い興味を惹かれた私は訊かずにいられなかった。
小さなため息が聞こえてきて、数秒の間の後、レイカが静かに口を開いた。
「別に、ただの素人の絵。どうしてそんな事を訊くの?」
「いえ……ただ、綺麗な絵だと思って」
「は……。……絵の価値なんてわかるの?」
嘲るように笑われて、私は肩を竦めた。そんなものはわからないけれど、綺麗だと思ったのだ。
そう言おうとすると、レイカはあまり見た事のない侮蔑の表情を浮かべて続けた。
「大した事のない……賞にも引っかからない、つまらない絵よ」
「……もしかして、レイカさんが描いているんですか?」
まさかと思って尋ねると、レイカは黙って絵から視線を逸らせた。それはフランス映画みたいに、余りにも色っぽい仕草だった。
暫し無言で絵を見下ろした後、レイカは水のペットボトルを持ったまま私のいるリビングのソファへ向かってきた。
「こんなもの、ただの趣味。数ばかり増えて、置く場所もないからリビングに置いてるの。二階にはもっとある」
「えっ? もっとあるんですか? あの、それ、見せてくれませんか?」
慌てて言った言葉に、レイカは嫌そうに顔を顰めた。
「二階には行かないでって言ったでしょ」
「……駄目ですか」
請うように言ったが黙殺された。
やっぱり駄目か、と肩を落としたが、レイカはそんな私の様子をまじまじと見てふと軽く笑う。笑うと無表情の時よりずっと若く見えた。年齢は知らないけれど、いつもは冷淡な印象を受ける美貌がパッと柔らかく華やぐ。
「……変な子。絵画が好きなようには見えないけど?」
首を傾げると、長い茶髪が肩からゆるりと胸下まで落ちた。私は芸術に無知な自分を少し恥じつつも、レイカから絵に視線を移す。
「正直、今まで絵に興味を惹かれた事なんてないんですけど。初めて見た時から、ここにある絵は好きです。見ていると、胸が痛くて切なくなる。目が離せないし、いつまでも見ていたくなるんです」
「ふぅん……」
私の言葉は彼女に響いたのだろうか。満更でもない様子で答えながら、レイカは少しだけ笑った。
特に印象的な絵に視線を向ける。水に浮かぶ女の周りを飛ぶ蝶々達の、鱗粉まで見えるような。何となく、この絵の女はもう死んでいるか、間も無く死ぬのだろうと感じた。それと対照的に見える、生き生きとした蝶々。私の語彙では全体的に水色と灰色としか表現できない、繊細な色使い。
私はそれらを呼吸さえ殺してじっと見た。そんな私の横顔を面白がるように、レイカが見つめる。
私たちは日付が変わるまで、何を話す訳でもなくそうしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます