3-1 安穏と日常


 

 バイト先がある最寄りの駅まで歩くと、私は埼京線に乗って大学へと向かった。

 夜中まで降っていた雪は途中で雨に変わったらしく、道路は雪が溶けてびしゃびしゃになっていた。車が通る道路は汚れた雪のせいで黒く、歩道はそれらを寄せているせいで更に汚かった。


 やはり、昨日は知らない道だったから遠く感じただけだったようだ。道の様子を見ながら実際に歩くと十五分もかからずに駅に着いた。


 仕事用のスラックスに普段着のロンTとコートという変な格好の自分が、いつも通りぼんやりとした特徴のない顔でトイレの鏡に映っている。レイカが衣類を洗って乾燥機にかけてくれたおかげで、昨日のような不快感はない。


 昨夜は不思議な体験をした。知らない人の家に泊まるなんて。全く自分らしくない。


 人生初の無断外泊を、家族はどう思っているだろうか。この歳にもなって叱られるだろう。色気付いた理由でないにせよ。今更ながら、そんな事を考えた。母からは何度もメールや着信がきていたが、気付かないフリをしていた。実際、バイトの後マナーモードを解除するのを忘れていたから、先程携帯を見るまでそれに気付いていなかった。

 少し考えて、メール画面を開く。受信箱の一番上のメールは母からで、『どこにいるの?』とだけ表示されている。私は『このまま学校に行く』とだけ返そうとして、頭に『ごめんなさい』を追加して送信した。

 もしかしたら夢だったのかも知れないと、それから何度も携帯で日付と時間を確認した。けれど間違いなく時間は経っており、雪で濡れたスニーカーがまるで証明のように重たい。

 急いでレイカの家を出たものの、一限は案の定間に合わず、私は昼の倫理学まで時間を潰す必要があった。


 初めて講義を欠席したにも関わらず、爽快感も罪悪感も抱かなかった。ただ、どこか非日常を感じて据わりが悪い気がする。


 どこに行こうかと視線を巡らせ、カフェテリアを意識した途端に空腹を感じた。通常であれば、朝食を取ってから家を出る。講義に遅刻する事さえ今まではなかったので、何だか新鮮な気持ちだ。

 一先ず、何か食べよう。

 あそこならば、講義の合間によく学生がレポートを作成しているのを見かける。勿論、中にはサボり目的もいるだろう。

 今日の自分はいつもと違う朝を迎えた。いつもと違う行動を取るのに向いた日なのだ。意味のわからない理由付けをして、足は自然とカフェテリアへ向かった。


「……おーい、絢音!」


 コーヒーとセルフのサンドウィッチを持って席を探していると、少し離れた席から大きな声で呼び止められた。私は緩慢な動きで振り返り、声の主を探す。


「……優里亜」

「久しぶり! なに、珍しいじゃん。こんな所で会うの。時間潰し?」

「うん、ちょっと一限間に合わなくて」

「そりゃもっと珍しいわ!」


 どこかはしゃいだようなハイテンションで優里亜はそう言うと、派手な長い金髪を豪快に後ろに払って明るく笑った。両目に入ったサイズの大きなカラーコンタクトのせいで、以前よりも目力が強調されていて少し怖い。視界が青くなったりはしないのだろうか。


 優里亜は大学の同期で、簡単に説明するならば『ギャル』だ。


 講義が被っている事は少なく、あまり接点はない。けれど、入学当初にオリエンテーションで話す機会があった。それ以来、彼女は私を見かければ声をかけてくれる。見た目は派手だが、学業にも真っすぐで気の良い人物だ。


「ここおいでよ! ウチも暇つぶしに課題やってたから」

「ありがと」


 自分を歓迎する雰囲気に少し安堵しつつ、誘いに甘えて同じテーブルについた。

 優里亜はゴテゴテに飾られたネイルを見せて、「見て、ネイル変えたん」と言って笑った。前回のネイルを知らないが、優里亜はいつも全体的に尖ったネイルをしている。反骨審という意味ではなく、文字通り鋭利な角度の爪に、尖ったパーツが溢れんばかりに付いているのだ。ストーンがゴテゴテについたネイルを見ながら、私は曖昧に頷いて無難に「かわいいね」と返した。


「絢音、最近どう? なんかいい事あった?」

「うーん……」


 優里亜の言葉に、私は少し考えながら斜め上に視線を投げた。今朝の事はイレギュラーだったけれど、他人に話していい話題なのかイマイチわからない。優里亜のリアクションが想像できない話題は避け、私は愛想笑いを浮かべた。


「特に変わらないかな。在学中に資格たくさん取ろうと思ってたのに、結局今もバイトに明け暮れてるし」

「分かる〜! ウチもサークルとバイトで全然勉強できてないや」


 優里亜はテニスサークルに入っている。話を聞いた時は「いかにも」と思ったが、案外健全なサークルらしく、安心した記憶がある。

 パソコンを閉じると、優里亜は顎の下で指を組んで完全に『雑談モード』に入った。


「バイト、カフェだっけ?」

「うん。カフェってより、喫茶店って感じのかっちり目な所」

「絢音っぽい。チャラくない感じ。ウチ行ったら浮くでしょ」

「そんな事ないよ。いろんな人がいるから、良かったら今度おいでよ」


 優里亜の言葉に、私は肩を竦めて笑った。

 優里亜は私を大分真面目な人物だと思ってくれているようだ。けれど確かに、優里亜ならば私の勤め先ではなく飲み屋の方が似合っている。私では彼女のバイト先では務まらないだろう。それがお互いのキャラクターなのだと思う。どちらが良いとかいう話ではない。


「バイト、居酒屋だっけ? どう?」


 前回の会話を思い出しながら尋ねると、優里亜は苦いものを食べさせられた犬のように顔をしわくちゃに顰めて、心の底から嫌そうな顔をした。


「んや、もう、あそことっくに辞めた。店長がさ、高校生のバイトの子ばっか贔屓するから。マジウザい。別の居酒屋にしようかとも思ったけど、結局今はガルバで働いてるよ」

「ガルバ……?」


 聞き覚えのない単語に私が首を傾げると、優里亜は少し考えるように視線を彷徨わせ、無意味に爪の先を弄った。


「えっとね、ガールズバーだよ。男に酒飲ますとこ」

「……キャバクラとかスナックみたいな?」

「んー、それより少し軽いってか、安くて行きやすい感じかな。女の子も若い子が多くて、ノリが軽くて楽しい。接客も隣じゃなくてカウンター越し」

「そうなんだ」


 知らない世界に私が感心して頷くと、優里亜は少し警戒したようにチラリとこちらを見上げた。


「夜職にヘンケンとかある?」

「ううん。大変そうだなって」

「うん、でも枕とかないし。……枕ってお客さんとエッチしたりとかね。そういうのもないし、ノルマもないし、楽。外でビラ配りしなきゃいけないのはダルいけど。昨日とか雪で死ぬかと思った」

「ビラ配りもするの? こんなに寒いのに大変だね」

「ん。でも配ってお客呼べたらバック付くし」


 爪をいじりながら話す彼女の言葉を、単語はわからないながらも真剣に話を聞いて頷いた。優里亜は下ネタでもあっさり話すので、男性経験のない私も過剰に驚いたり照れたりもせずに聞ける。

 優里亜はテーブルの上のミルクティーを持ち上げると、ストローで半分程一気に吸い込んだ。息継ぎをして、また一口飲む。


 少し空気が変わったのがわかった。


「……でもちょっと気をつけてる。ガルバからどんどん落ちてって、風俗とかで働く子多いし。実際、働いてるガルバに一緒に入った子、今はデリヘルで働いてるんだよね。ホストにハマっちゃって、お金がもっと必要とか言って」


 少しトーンを下げた声で言われ、私は彼女をそっと見つめた。

 優里亜はもしかしたら、誰かにこの話をしたかったのかも知れない。ただの雑談という感じにしては内容が重い気もするが、聴いて貰えれば誰でもよかったのだろう。ここにいたのが私でなくても。

 何と言ったらいいものか迷いつつ、重い口を開く。


「私、全然詳しくないんだけど、やっぱりそうやってディープな所で働くようになる子多いんだね」


 ドラマや漫画の世界だけではないのだろう。

 何も知らないながらに同意すると、優里亜も頷いて指を立てて説明してくれる。


「最初はガルバで、キャバ、風俗ってどんどん稼ぎ増やさないと追いつかなくなるんだと思う。結局、体で稼いだら昼の仕事には中々戻れないし。お酒飲んで時給二千円、エッチして一時間なん万って稼いでた子が、急に時給九百七十円とか、フツーに無理だよね」


 あと、絶対に昼夜逆転するしね、と優里亜は顔を顰めた。飲み過ぎて退勤後動けなくなり、朝帰りする事もざらにあるらしい。太陽が黄色い、とぶつぶつ言う優里亜を見て、眉を下げて笑う。


 そう言っている、優里亜自身は大丈夫なのだろうか。ふと私は心配になったが、どう訊いたものか暫し逡巡した。


「……エンコーとかもね、戻れないだろうね」


 優里亜は暗い声で、周囲を気にするように声のボリュームを少し下げた。私は返答に迷って視線を優里亜に向け、次の言葉を待つ。

 彼女は無表情で自分の唇に爪を立てて、てらてらと光る唇から淡々とした声音を出して話しだした。


「同期のセナって子、風俗で働いてるって噂になってる」

「サークルの子?」

「ううん、全然関係ない子。関係ないのに、ウチの周りで言ってる子結構いる。“セナは高校の時エンコーしてて、今は風俗”。……どこでそんな噂仕入れるのかわかんないけど。それ聞いてウチ、あーやっぱ一回堕ちると戻れないんだなって思ったよ。大学生になっても、普通のバイトなんてやってられなくなっちゃうんだなって」


 顔は無表情なのに、声はどこか哀しそうだった。


 中学生の頃くらいから、学校で、塾で、援助交際の噂は度々耳にした。ニュースでも時折流れ、漫画や小説のネタにもされる。高校生の書く携帯小説のテーマに選ばれ、大きな賞をとったのはそんなに昔の出来事でもない。

 クラスの誰々がしているだとか、イジメでエンコーを指示されただとか。——噂だ。ただの噂だが、それは私が知らないだけで、どこかでは起こっている、現実なのだろう。


 私には関わりのない世界。それこそ、噂やドラマでしか見ないような世界の話だ。

 優里亜に、かける言葉が見つからない。


 黙ってしまった私に、優里亜が

「軽蔑する?」

と小さな声で言った。私は即座に「しないよ」と頭を振って否定する。嘘ではなかった。


「……なんで?」


 その言葉に、何と言って返せばいいのかわからなかった。どんな返答を期待しているのだろう。

 即答できない私を、優里亜が見定めるように見詰める。優里亜の話ではない筈だ。優里亜はガールズバーで働いていて、援助交際をしていたのは大学の同期で……。

 私は、目線をそっと逸らして答えた。


「私には、関係ないから」


 突き放したように聞こえただろうか。それでも、他に言葉が見つからなかった私に、優里亜が苦笑するように笑って「……まあ、そうだよね」と小さく返した。その笑みに僅かな落胆が混じった気がして、私はもう何も言えなかった。


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