2-3 レイカ
女は一言『レイカ』と名乗ると、すぐにシャワーを浴びに行ってしまった。
――あんなに酔っていたのに、お風呂に入って大丈夫なのかな。
キッチンの奥にある、廊下へと続くドアへ思わず視線を向けた。泥酔した経験のない私は、どの程度の飲酒ならば入浴が可能かも見当がつかない。
私は一先ず濡れた服を脱いで、鞄の中に入っていたおかげで無事だった、バイト用のワイシャツに着替えた。スラックスも濡れていたので着替えたかったが、当然ながら替えを持っていなかったので諦めた。裾だけは折りたたんで捲っておく。
そのまま、柔らかそうなソファに遠慮なくゴロンと横になった。
部屋からもソファからも、微かに知らない花の匂いがした。よくよく嗅いでみると、それは彼女から香ってきた香水の香りだった。花かと思えばバニラのように甘く、簡単に言葉に表せない程複雑に絡み合っている。脳の神経が痺れるように濃密だった。香水の事は詳しく知らないが、一つの香水kらこんなにも様々な匂いがするのかと、私は半ば感心した。
テレビもないリビングは奇妙な程広く見える。無数の額縁と、それに収められた絵が置かれていて、所々重なり合ったそれらをぼんやりと眺めていると、自分がどこにいるのか、明日の予定すらもわからなくなる気がする。
部屋の電気も消さず、上掛けもなかったけれど、暖房のおかげか寒くはなかった。それどころか、そこにじっとしていると自分の部屋のように――否、自分の部屋よりも遥かに落ち着いた。
初めて会う女の、初めて来る家にいるのに。それは不思議な感覚だった。もっと不思議なのは、何一つ不安や不快感がない事だった。
そうして暫くぼんやりしていると、遠くで聞こえていたシャワーの音が止んだ。浴室の重たい引き戸が開く音がして、衣擦れや、化粧品を置くコトリ、コトリという規則的な音が微かに聞こえてくる。届くそれらは夜中の静かな雨のように、よく耳に馴染んだ。
明るいリビングのソファの上で丸くなってじっとしていると、極近くで小さく笑う気配を感じた。
びくりとして顔ごと目線を上げると、いつの間にリビングに戻ったのか、ソファを覗き込むようにしてレイカがこちらを見下ろしていた。化粧を落として素顔になっているが、元々が二重だからか大きな変化は見られない。白い肌も綺麗で、シミの一つも見当たらない。
「……ふ、……なんかアナタって猫みたい」
微かに唇を歪めた表情は、私からすれば老齢した魔女のようだった。
私は言われた言葉を反芻し、そのままの態勢で首を傾げた。
「猫? どうしてですか?」
「だって普通、知らない人の家でそんなに堂々と寝ないよ。静かだから帰ったかと思ったのに、ソファで蕩けてるんだもん」
くつくつと喉の奥で笑うレイカは、先程までの神経質そうな女性とはまた違った顔をしていた。不思議な人だ。コロコロと機嫌を変えるレイカはまるで実態が見えない。無垢な幼い顔と、鋭いシルバーの視線。どちらが彼女の本来の姿なのだろうか。
私は寝転がったまま彼女の顔を見上げ、無言でじっと観察した。
彼女は微かに口角を上げたまま
「シャワー浴びる?」
と柔らかい声で尋ねた。
だらりと力を抜いていた体を片腕で支え、腰を捻って慌てて起き上がる。「いいんですか?」と確認を取ると、レイカは目を細めて頷いた。
「別にいいよ。私の普段使いので良いならルームウェアも貸してあげる」
鼻歌でも歌いそうな機嫌の良さで、レイカは私を手招くと浴室へと案内してくれた。
レイカに続いて入った浴室は壁も棚も真っ白で、分厚い鏡の洗面台には何も出ておらず、生活感は皆無だった。
彼女が棚から出したタオルまでもが白く、それは傍から見ていて何やら執着を感じる程だ。潔癖症なのかも知れない。その割には、随分無抵抗に他人を部屋に上げる。目から僅かな情報を集めるように、レイカが引き戸を引いて腕を伸ばすのを見詰めた。手に持ったタオルが、ドアに設置されたホルダーにかけられる。
「タオルこれ。こっち、シャンプーとかメイク落としとか」
「メイクしてないです」
「そう?……洗顔はこれ。スクラブ使う?」
「スクラブ?……って何ですか?」
「……本気で言ってるの?」
――風呂に入るのに必須なものだったっけ?
一瞬嫌そうな表情で言われて私は肩を竦めたが、それを見たレイカはまじまじと私の顔を見下ろし「まあ良いけど」と言って話を終わらせた。
浴室の紹介を終わらせると、レイカは「乾燥かけるから、脱いだ服洗濯機の中に入れて置いて」と言って脱衣所を出て行った。脱衣所のドアに鍵が付けられていて、そんな所に鍵があるのを初めて見たので驚いた。レイカしかいないだろうこの部屋で鍵をかける理由もなく、結局そのまま入浴する事にする。
浴室は清潔だった。清潔過ぎる。水垢の一つもないその光景が、私には少し不気味に思えた。綺麗に立てて収まっているボトルを見て、やはり神経質なタイプなのだと思う。けれどそんな人間が、家に濡れたまま他人を上がらせたり、私物のルームウェアを貸すだろうか。
不思議に思いながらも相当気を使いつつ入浴を終えると、私は借りたパジャマに袖を通してリビングに戻った。ゆとりのあるサイズで良かったと、彼女の下着姿を既に見た後になって思う。
レイカは無音のリビングでペットボトルの水を飲んでおり、私が足を踏み入れるとチラリとこちらに視線を向けた。
「……私、もう二階行くからね」
「はい。シャワーと着替え、ありがとうございました。……おやすみなさい」
私が軽く頭を下げると、奇妙な沈黙が落ちた。
「……?」
顔を上げると、レイカは驚いたような顔で目を見張り、ペットボトルを持ったまま静止している。
声をかけた方が良いのだろうか。「あの」と口を開きかけた時。
「……おやすみ」
やっと再起動を終えたレイカに神妙な顔をして言われ、私は首を傾げながらもう一度「おやすみなさい」と返した。
壁にかけられた時計は、もうすぐ二十三時になろうとしていた。
レイカが電気を消して行ったリビングで、私はソファに横になって眠った。バイトの後、慣れない雪道を歩いた疲れが出たのか、然程時間も空けずに重い睡魔が襲ってきた。意識が遠のく寸前、誰かがリビングのドアを開けたような気がしたが、眠気に抗えず私はそのまま意識を手放した。
夢を見ていた。
自分の自宅で、母と父が口論していた。私はその声をリビングのドア越しに聞いている。二人は私を起こさないように、小声で話している。二人と言っても、主に詰問しているのは母だ。押し殺したその低い声が、まるで私をも責めるように感じるのだ。
「どうして」
母は何度もそう言って父を責める。
私は何かを言いたかった。けれど、父にかける言葉も、母にかける言葉も持ち合わせがなく、ただ黙って、じっと気配を殺してドアの前で立ち竦んでいる。
「どうして……」
母の声はまるで鬼のようだ。低く、地獄の底から響く重い鉛の声。
場面が変わり、リビングで私は進路希望の紙を母に見せていた。母はじっと黙り込み、ただその紙をじっと見下ろしている。私は背中が汗で冷えていくのを感じながらも、何も言えない。
「どうしてなの? 絢音」
ため息と共に母がそう尋ねる。私はまた何も言えない。
進路希望の紙には何も記入がなく、母は学校に呼び出された。その日の夜の事だった。
私は夢の中で体を固くして、その夢が覚めるのをじっと待った。
現実のその時と同じように、ただ嵐が過ぎるのを待つ船乗りのように。
痙攣のように目が覚めると、リビングのカーテンからは朝日が入っていた。日差しが開けたばかりの目に眩しく、私は思わず顔をしわくちゃに歪める。やはりソファで眠ると体が重い。ぐっと腕を伸ばすと
「あなた、食いしばりが凄いから、早めに病院に行ったら」
「うあっ!」
横から声をかけられて慌てて振り返ると、レイカがマグカップを片手に無表情でこちらを見ていた。マグカップからは温かそうな湯気が立っていて、けれど嗅ぎ慣れたコーヒーの匂いはしない。
「びっくりした……えっと、おはようございます」
私が声をかけると、レイカはまた昨夜と同じように、驚いたような顔でこちらを見た。表情の理由がわからず、私は寝ぼけ眼でぼんやりとその顔を見上げる。
「……おはよう」
どこか納得のいっていないような、小さな声だった。私はただ頷きを返した。
「何飲んでるんですか?」
「白湯だけど」
「白湯って……お湯を飲んでるんですか?」
私が驚いて目を見開くと、レイカは何でもない顔をして頷いた。
「美容に良いの。飲む?」
「……コーヒーが良いです」
「ふ……遠慮しないよね、本当。悪いけど、カフェインは摂らないの。ハーブティーで良ければ」
気を悪くした様子もなく、レイカは静かに首を振った。今日は首元まで黒のレースで覆われたブラウスに、厚手のグレイのロングスカートを履いている。どこかに出かけるのだろうか。――出かける?
「あっ!」
「……何?」
「……大学……今日一限から講義あったの忘れてて……」
「こんな大雪なのに、休校にならないの?」
「うちの大学、そういう所融通がきかないので……どうだろ……」
一応携帯を出してメールボックスを確認してみたが、大学からは何も連絡が来ていなかった。つまり、通常通り講義は行うのだろう。
私は右手で顔を覆って、思わず大きな溜め息を吐いた。レイカは横目で私の様子を見て、黙って白湯を飲んでいる。
「……とりあえず、帰ります」
「そう」
何でもないことのように頷いて、レイカは私が寝床にしていたソファの横を指差した。カーテンレールに、私の着ていたワイシャツとロンT、スラックスがかけてある。わざわざ乾燥機から出して、皺がつかないようにかけておいてくれたようだ。
「ありがとうございます」
「うん」
少し迷って、私はソファの影でコソコソと着替え始めた。同性とは言え、よく知らない人の前で自分だけ下着姿になる事に躊躇いがあった。
準備が終わると、彼女もちょうど白湯を飲み終わったようだった。マグカップをシンクに置いて、静かにこちらを見る。
玄関まで行こうとしたが、レイカは後ろを着いて来なかった。見送るつもりはないらしい。
「あの……泊まらせてくれて、ありがとうございました。シャワーと服も。……えっと」
「…………」
「……さよなら」
頭を軽く下げても、レイカは無言だった。シンクに背中をつけて、真っ直ぐ私を見下ろしている。唇は薄く笑っているように見えたが、笑っているというよりかは元々の形なのだろう。目には何の感情も浮かんでいない。
私は玄関に向かい、黙って扉を開けて外廊下に出た。もう一度頭を下げておく。
扉が完全に閉まりきる直前、背後から「さよなら」と小さく聞こえた。
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