2-2 まだいたの?
風が強くなってきたせいで、顔に当たる雪の粒が殊更固く感じる。
大通りを曲がると、雑多な印象の裏路地を抜けた。進んでいくと次第に辺りは住宅街になり、庭付きの大きな家や、アパートがちらほらと見える。
あんなに強かった風はいつの間にか止み、冷えた頬や手足の感覚も既に無い。
酷く静かで、数メートル先を行く彼女の立てる物音一つしない耳が痛くなりそうな程の静寂だ。目の前の彼女が時折肩から頭や肩から雪を払い落とすのを見て、倣ったように私も自分の体から雪を落とした。
実は彼女は雪女なのだろうか。あそこで、次の獲物を待っていたのだろうか。私はこのまま彼女に生気を吸われ、雪よりも冷たい死体になるのかも。突拍子もない妄想だった。けれど、この現実の方が余程物語じみている。
そのまま、三十分以上歩いただろうか。――知らない道では時間感覚が曖昧になる。
前を歩く彼女が、一つのマンションの前で足を止めた。ブルーフォグの冷たい外観と、雪の白が絶妙に映えていて美しい。
私が躊躇いながらも追いつくと、彼女は今思い出したかのように突然振り返った。
「……まだいたの?」
「っ……?」
そこに浮かんでいたのは、先程までの無垢な笑顔が跡形もなく消え去った、至極つまらなそうな無表情だった。
息を飲んだ私が黙って目を見開くのを見て、彼女は興味が失せたように前を向いて、何も言わずにまた歩き出した。
マンションの自動ドアを潜り、鞄から出した鍵でオートロックを解錠する。淀みない手つきを呆然と見ていると、無骨な音を立てて自動ドアが開いた。
「入らないの?」
自動ドアの向こうで立ち止まった彼女に小さな声で問われて、私は考える間もなく咄嗟に小走りでドアを潜った。見知らぬ住宅街から今更帰る手段がない事や、寒さで凍えたからでもない。ただ、そうするのが当然で自然な事だとどこかで思っていた。
彼女が僅かに息を飲んだ事に気付いたが、何故かはわからなかった。雪を蹴って突然スピードを上げたからか、呼吸を整えるので精一杯だ。
二人でエレベーターに乗ると、彼女が指定した階まで、エレベーターは重い機械音と共に登って行った。横目でボタンを確認すると、向かっているのは最上階のフロアらしい。
フロアの一番奥まで歩き、玄関の前に着いたらしい彼女は、その場で体の雪をパタパタと払い落とした。そのどこか慣れた手付きを見よう見まねで真似している間に、彼女は重たい音を立てて鈍いグレイのドアに手をかけた。
ドアの正面にやや狭い階段、その左側に廊下があり、廊下は奥の扉へと続いていた。私はマンションの玄関の中に更に階段があるという事実に驚いたが、我に返ると閉められる前に急いで玄関に滑り込んだ。背後で重い音を立ててドアが閉まる。
室内は電気も点いておらず、無音だった。一人暮らしなのだろうか。
あまりじろじろ見回すのも失礼に感じ、私は僅かに俯いた。
「……名前、何?」
「え、…………」
突然の質問に面食らった私は、言葉を失って彼女の顔を見上げた。
名前? 私の名前を訊いたの?
いつまでも答えない私に彼女は少し気分を害したようだった。僅かに眉を寄せ、ブーツを脱ぎ捨てて、広い玄関に片足ずつ放る。ストッキングを履いた足が露わになりフローリングに置かれると、明らかに苛立った声でもう一度問われた。
「聞こえないの?」
「……中川絢音……です」
「そう」
自分は名乗らないんだ。
自分から聞いてきた癖に興味が無さそうな声音も、玄関に私を放置したままずんずん廊下の奥へ進んで行ってしまう事も、余りにも衝撃的で私はまた言葉を失った。
茫然としている私をそのままに、彼女は廊下の突き当たりにあるドアを開けた。キッチンがあるのか、冷蔵庫を開ける音、未開封のペットボトルを開封するパキパキという特徴的な音が遠くから聞こえてくる。
雪や泥で濡れてずっしりと重くなったスニーカーを脱ぐと、私もその後を着いて行った。足音を消して進んだ私を一瞥すると、彼女は冷たい目で私を睨んだ。
「靴下、脱いで。床が汚れる」
「……ごめんなさい」
冷たい声に素直に謝罪すると、靴下を脱いで丸め、自分の鞄の中に適当に放り込む。濡れた素足は痛い程冷えて、触れたフローリングが少し暖かく感じる程だった。
ドアの向こうはキッチンで、その奥にリビングダイニングらしきスペースがあった。白いローテーブルとアイボリーの背の低いソファが置かれた、そこだけで十二畳くらいはありそうな比較的広い部屋だ。
私が部屋を見渡している間に彼女は無言で暖房をつけ、ワンピースを脱ぎ始めた。肋の浮いた細い体が見えて、咄嗟に視線を外す。自分が客と呼べるのかわからないが、他人がいるにも関わらず平然と衣服を脱げる神経がわからない。
視線を彷徨わせると、部屋の中の至る所に様々な額縁が置かれているのが目に入った。視線の向け先に困った私は、一先ずそれらに視線を固定する。
額縁には繊細なタッチの水彩画が入れられていた。壁にかけるのではなく床に立てかけてあるので、“飾られている”というよりかは“置かれている”という印象が強い。
私はまじまじと改めてその絵たちを見下ろした。
私には絵の教養なんてない。けれど、見れば見る程美しい絵だった。私が知らないだけで、もしかしたら高名な画家の絵なのかも知れない。
描かれたモチーフは女性が多く、その次に蝶が多かった。乱雑に置かれている風なのに、雑多ではなく纏まっている印象を受けたのは、絵の系統がかなり定まっていたからかもしれない。淡い彩色と柔らかなタッチが、美術の知識がない私でも美しいと感じた。
私は少しずつ絵画たちに近付き、間違っても触れない距離でじっと観察した。
使われている色は灰色が最も多く、その他の色にしても灰色がかっている。原色は皆無と言って良かった。それだというのに決してぼやけた印象はない。
無数のそれらを中腰になって見つめていると、左側から「ねえ、」と声をかけられた。
「私、上で寝るから起こさないでね。どこで何をしていても良いけど、絶対二階には上がらないで」
「あ、はい……」
苛立ちが見えた先程とは違い、どこかゆったりとした口調で言われた。機嫌が直ったのだろうか。だとしたら相当の気分屋だ。私は咄嗟に頷いて、、慌てて口を開いた。
「あの……」
一度口を閉じる。何から聞くのが適切なのかわからない。
――どうして私に声をかけたの? 何であんなに酔っていたの? 私はどこで眠ればいいの?
様々な疑問が浮かんでは消え、喉が微かに震えた。
一向に次の言葉を発さない私に、彼女は柳眉を寄せて「何?」と尖った声を出した。また不機嫌そうな表情に戻ってしまった。早く尋ねなければ。私は更に困って情けなく眉を下げた。
首を傾げた彼女を前に、私はこれだけは訊いておかねばならないと思っていた。
「名前、なんて呼べばいいですか?」
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