2-1 カモミールティーとアルコール
夕方から降り始めた雪はいつの間にか地面を覆い、テレビは「大寒波」「各地で大雪警報」と何度も唱えた。交通は麻痺し、道ゆく人は傘を差すのも諦めた様子で、皆一様に頭に体に雪を積もらせている。
バイト先である喫茶店の店長は、グラスを磨きながら「これは……今日は早上がりかな」とため息を吐いた。グレイヘアを後ろに撫で付けた、見た目だけならばダンディな男性だ。
普段ならば二十三時まで営業している店なのだが、台風の日や今日のような大雪の日は店を早く閉める事もあるらしい。この店でのアルバイトも二年目になったが、自分がシフトに入っている日にクローズを早めるのは初めての事だった。
「中川さん、俺がラストまで残るからそっちは先に上がってもいいよ」
年上だがほとんど同期の早見が、いつも通りやる気なさげに私に言った。垂れ目とパーマが特徴的な、いつもお洒落だがやや軽薄な印象のある男だ。
「いや、私が残るんで大丈夫ですよ」
私がお手拭きの在庫を出しながら視線も向けずに言うと、早見は不思議そうに首を傾げた。
「なんで? バスある?」
「今日は自転車で来たんで」
「お前……馬鹿なのか?」
特に何も考えずに発した私の言葉に、早見だけでなく店長まで目を剥いた。
私は磨いていたシルバーを片付けると、「なんですか、そのリアクション」と言って顔を顰めた。親しくもないのに「お前」呼ばわりされた事も、馬鹿扱いも不快だ。
早見は信じられないものを見るような目で私を見て、顔をしわくちゃに歪める。
「いや、今日大雪だって、何日も前から言ってただろ……。なんでチャリで来るんだよ」
「だってバス、動かないじゃないですか」
「バスは大体止まらねえよ。遅れはするけど結構運行するよ。電車みたいに脱線する訳でもあるまいし。今日チャリなんか乗ったら、お前死ぬぞ」
早見の言葉に、店長も横でうんうん、大きく頷いている。納得できないまま、顰めっ面で二人を睨んだ。
「だったら今日、歩いて帰ります」
「ああ……家どこだっけ?」
「川口です」
「バスで帰れっての!」
「早見くん、声が大きいから……」
カウンターの中で、店長が慌てたように口元で指を一本立てた。早見は慌てた様子もなく、「もうお客さんいないでしょ」と怠そうな声で店長に返す。雇い主に対して話しているとは思えない、尊大な態度だ。とはいえ彼は客に対しても気に入らなければ笑顔一つ見せないので、大体いつもの事だった。
「まだお客様いらっしゃるから、二人とも静かに仕事して。それとも、二人とも早上がりする?」
呆れたような溜め息を吐いて、店長は横目で奥のテーブル席を見た。カウンターからは遠く、ガラス越しに表通りに面した席が一つだけ埋まっている。
「あの人が帰ったら、もう閉めちゃうんだけどね」
店内のジャズに掻き消されるような小声で、店長が肩を落とす。こんな雪の日なので、彼も出来るならば早く帰りたいのだろう。
「ああ、あの人よく来ますよね。すげー美人だし、バイト中じゃなかったらナンパしたのになぁ」
早見がテーブルに視線を向け、残念そうに肩を落とした。
「常連様にそんな事したら、早見くんクビだからね」
「だと思って声かけてないッス」
「……そんなによく来るんですか?」
早見は女性客だけはとにかくよく見ているので、彼がそう言うのならば確かなのだろう。
私は女性客の遠い横顔を見ながら記憶を探る。――残念ながら、全く記憶に該当しない。雑談もした事がない人なのだろう。
私が脳内で検索をかけていると、早見は呆れたように口端を上げた。
「中川さん、うちのスタッフの中で一番客の顔覚えないもんな」
「……会話したら覚えてますよ」
――流石に覚えているはずだ。多分。
あまり自信がない私は彼女の顔を確認する為にも、素早くトレイを小脇に抱えた。
「お冷行ってきます」
私がグラスに水を注ぎながら言うと、二人揃って「お願いしまーす」といつもよりやる気のなさそうな声が返ってきた。
こんな大雪の日に、喫茶店で冷たい水ばかり飲むのは体に悪そうだ。彼女は最初に注文したカモミールティーの他は何も注文せず、三十分以上席に居座っている。そういう客は少なくないので、誰も気にしないが。
「失礼致します。宜しければお冷お取り替え致します」
声をかけると、客は無言だった。
こちらに視線を向ける事もせず、手の中のスマートフォンに視線を落としている。私はその指の先を見てぼんやりと『綺麗なネイルだなぁ』などと考えていた。ゴテゴテしていないのに、妙に目を引くデザインだ。水彩のようなぼんやりとしたラインが白い指に映えていた。
女は早見の言う通り美しい顔立ちをしていた。歳は二十五くらいだろうか。もっと下にも見えるし、上にも見えた。長い茶髪を巻いて胸まで下ろし、細身の体に青みのあるグレイのワンピースを纏っている。涼しげな目元はパッチリとした二重で、長い睫毛に彩られて存在を強調していた。
何かを言う事もなく、無言でグラスを交換する。なるべく顔を見ないようにしたが、意識を逸らそうとすればする程、何故か彼女の存在を強く感じた。
「お済みのカップお下げします」
奥にあるカップに気付き、腕を伸ばした時。
「……ねえ」
どこか甘えたような声音だった。あまり身近で耳にした事のない、どちらかといえば異性に使うような。
私が驚きのあまり黙って視線を向けると、女性は薄っすらと笑みを浮かべていた。
「……今日、一緒に帰ろうよ」
薄茶色の潤んだ瞳が真っ直ぐに私を見ていた。然程意識せずとも、彼女の吐息からは、咽せ返るようなアルコールのにおいがした
――酔っている。それも、かなりの量を飲んでいるようだ。
アルコールのにおいと混じり合った、重たい香水の香りで眩暈がした。媚薬と言われても納得するような、どこか目眩を誘う香りだ。
「外で待ってるから、一緒に帰ろ」
言い含めるように首を傾げて、彼女は言った。
肩から落ちた茶色の巻き髪を緩やかに背に払って、もう一度「ね?」と繰り返す。甘えてはにかんだような笑顔は、彼女を随分幼く見せた。
まるで小学生が同級生に声をかけるような、あどけない表情。間違いなく不審な誘い。普段であれば決して頷く事はなかったと思う。
大きな窓の向こうで降り続ける雪が、すっきりとした彼女の頬に影を落とす。思わずそれを注視して、気付けば私は黙ったまま頷いていた。
まるで化かされたような、覚束ない足取りでカウンターまでゆっくりと戻る。
「――店長、私、お先に上がってもいいですか?」
トレイを置いた私はすぐに店長に尋ねた。店長は特に疑問も抱かず、興味なさげに頷いた。
「ああ、勿論。この時間ならまだバスもやっているだろうし、気をつけて帰るんだよ」
「チャリ置いてけよ」
「わかりました」
短く答えて、「お先に失礼します」と頭を下げた。背後からかけられた「珍しく素直じゃん」という早見の言葉も無視して、私は素早く休憩室へと入った。
早見の「伝票お預かり致します」と言う、接客用の落ち着いた声が遠くから聞こえた。
黒いエプロンをカバンに押し込み、仕事着であるワイシャツをロンTに着替えて分厚いコートを羽織る。首に毛玉のついた赤いマフラーを適当にぐるぐる巻きにすると、靴を履き替えるのを忘れた事に気付いた。履いていた革靴を、ロッカーに入れていたスニーカーに履き替えて、私は急いで裏口から出た。
表に回ると、上質そうなコートを羽織った女性がぼんやりと立っていた。豪雪なのに屋根もない歩道で何をするでもなく立ち尽くしている。
帽子も被っていないお互いの頭に、どんどん雪が降り積もる。彼女のベージュのコートが雪の白に溶けて、輪郭を更に曖昧にしていた。
何と声をかければ良いか迷って、彼女の背後に立ったまま、私は口を開けずにいた。
そもそも、彼女は誰で、どうして私に声をかけたのだろう。どうして一人っきりこんな所にいたのだろう。こんな、魂まで凍りそうな雪の日に。
彼女はどうして私に気付いたのか、ふと顔を上げて目線だけでこちらを見た。
そのまま目線が合い、呼吸が止まった私に
「ね、……帰ろ」
と言って、解けるように微笑んだ。
その笑顔が余りにも自然で、私は暫し茫然と彼女の顔を見上げ――座っている時は気付かなかったが、彼女は私よりも随分と背が高かった――親しい友人に向けるような柔らかな微笑が、余計に私を混乱させた。
どこへ帰るというのだろう。
間違いなく多量に飲酒している筈の彼女は、よろける事もなく真っ直ぐに歩き始めた。私も慌てて後を追うが、慣れない雪道に足を取られ、スピードは出ない。雪の中、どうしてあんなにも真っ直ぐ歩けるのだろうか。
いつまでも彼女の背に追いつく事は出来ず、私達は数メートルの距離を保って歩いた。
――何故、私は大人しく後を着いて行っているんだろう。私たちはどこへ向かっているの。
頭の隅で考えたが、不思議と声をかけようだとか、彼女を無視して自宅へ帰ろうという気にはならなかった。今ならば最終より早いバスにだって余裕を持って乗り込める事すら、今の私にはどうでもよかった。
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