1-4 描けない未来
「食事までいただいて、ありがとうございました」
玄関の庇の下で光平が深く頭を下げると、母は恐縮したように慌てて頭を下げた。
「いいのよ。光平さんも息子になるんだから、自分の家だと思っていつでも遊びに来て。絢音は全然帰ってこないんだから……」
「ありがとうございます、嬉しいです。次は両家の顔合わせですね」
特に心配はしていなかったが、母と光平は良好な関係を築けそうで安堵した。
ぼんやりと二人を見ていると、父が「絢音」と私の名前を静かに呼んだ。父に名前を呼ばれたのは、随分久しぶりな気がした。どこか耳慣れないそれを理解するのに、頭が一度停止したような気さえする。
「たまには帰ってきなさい。夕食だけでもいいから」
「……うん」
父はそれだけ言うと、言葉に迷ったようにふいと視線を逸らした。
この人がもう随分長い間私との距離を測りかねている事はわかっていた。そして、それは父だけではなく、私も同じだ。
どこかぎこちない雰囲気の私たちに気付いてか、光平が父に視線を向けた。
「お義父さん、良かったら、今度僕ともお食事に行きましょう。男同士で!」
「ああ……飲みにでも行くか……」
父は光平をまるで実の息子を見るような目で、嬉しそうに見た。初対面の時のような距離感はなくなっている。光平は昨夜晩酌を共にした事で随分と父と打ち解けたようだった。側から見ていて、どちらが実の親子なのか分からない程だったが、不快感はなかった。そう言う所が光平らしかった。
「じゃあ、また」
それぞれが軽く会釈をして、私と光平は実家を後にした。バス停に向かって、首が竦む寒い公道をゆっくりと進む。
背後を振り返っても家が見えなくなった頃。光平はわざとらしい程に大きく深呼吸をした。
「……緊張した?」
「当たり前だろ。ずっと緊張しっぱなしだよ」
少し疲れを滲ませた顔で苦笑すると、首や肩を回し始める。計算ではなく、絶妙に弱さを見せるのが上手い男だと思う。
「でも、娘の私より親子みたいだったよ」
「そんな事ないだろ。でも、ご両親に気に入ってもらえたなら良かった」
私の言葉は本心からだったが、彼はそうは思わなかったようだ。軽く流されて肩を竦める。
いつものように彼の背中をポンと叩くと、彼は安心したようにもう一度息を吐いた。
赤羽駅へと向かうバスに乗ると、日曜日ということもあり座席は埋まっていた。私たちは黙って吊り革を持つと、走るバスに合わせてゆらゆらと揺れる。
「絢音のご両親にも挨拶できたしさ」
不意に、光平が口を開いた。平静を装っているが、どこか緊張しているのが横目で見てわかった。
「俺の実家にも挨拶に来てくれるだろ?」
こちらを見た色素の薄い目に、僅かに縋るような色が見えた。私はじっとこちらを見る光平から僅かに目のピントを逸らす。
先日も、彼に同じ質問をされた。その時は、「うちの親に挨拶に来てくれて、了承されたら」と答えた。
私は頭の中の予行演習通りに直ぐ頷こうとしたが、返答には少しの間が空いた。それを、光平がどう思ったのかはわからない。ただ、密度の濃い睫毛を伏せた。
「……絢音。俺と結婚したいって、思ってくれてるんだよな?」
「勿論。……思ってるよ」
声が上擦った。――けしてわざとではない。私は何か言葉を重ねなければと思ったが、この空気に適切な言葉は浮かばなかった。
そのまま私と光平は無言でバスに揺られた。ぎこちない、慣れない沈黙に指が震える。
駅に着いた頃には既に十一時を回っており、駅前には昨日と同様、様々なファッション、人種で溢れていた。
次にこの駅で降りるのはいつだろうか。その時、私は彼の妻になっているのだろうか。
そんな考えが浮かんだけれど、どこか現実味がない。
二月の冷たい風が吹く度に、私はブルリと体を震わせた。肘の辺りで、チョコレートの入った紙袋が歩く度に揺れている。
電車に乗り、バスとは違いほどほどに人が乗った車内を眺める。マスクをつけて暗い顔をした人ばかりが乗っており、自分たちも恐らく似たような顔をしているだろう。ほんの一時間前までは、私の実家で和気藹々と会話も弾んでいたのに。
このチョコレートはどうすれば良いのだろう。
不意に揺れる紙袋に意識が向かった。衝動に任せて購入したけれど、部屋に飾ろうにも、私の部屋とこのチョコレートの相性が良いとは思えない。機能的に整えた部屋にこれを置いても違和感にしかならないだろうし、かといって真っ青なハイヒールを食べようという気にもならなかった。いっそ、母に渡してしまえば良かったのだろうか。何となく、中のチョコレートが重く、存在を主張している気がしてきた。
私がぼんやりとチョコレートの始末を考えていると、光平が徐に「あのさ」と沈黙を破った。
「今日、これからどうする? 俺の家で映画でも観る?」
気遣うように問われたが、私は即答できなかった。
光平はアクティブに外で遊ぶのを好むが、私は完全にインドア派だ。休みといえば家にいる事が多い。そんな私に合わせて、デートは専ら光平の自宅で動画配信サービスを利用して映画を観てばかりいた。
いつも通りのデートを提案してくれたのは、光平なりの配慮だったのかもしれない。けれど、私は紙袋の中のハイヒールのことばかり考えていて上の空だった。
「……ごめん、えっと、今日はこのまま帰ろうかな」
「…………」
光平の雰囲気が変わったのが、見なくてもわかった。
――怒らせてしまったのだろうか。
五年間付き合っていて、光平が私に対して怒る所など一度も見たことがなかった。いつも笑っている、穏やかな彼を怒らせてしまったかと思うと、内臓が冷えるような心地がした。次に彼の口から飛び出すだろう言葉の予想がつかずに、私は所在なく立ち竦んだ。
私が視線を上げられずにいると、彼は重い溜め息を一つ吐いた。
「……少し話がしたい。お願い、今日はもう少し付き合って」
「うん……わかった」
言葉と共に小さく頷くと、私はなるべく気配を殺して光平の後を付いて歩いた。
再び池袋駅におりた私たちは、駅構内を人の流れに沿うように歩いた。家に帰るのであれば東武東上線に乗り換えるが、光平はまだ電車には乗らないつもりのようで、真っ直ぐ駅構内を歩いていく。地下は空調が効いていて暑い程で、私は時折マスクを少し持ち上げて深呼吸をした。
構内には様々な広告が並んでいた。池袋という土地柄もあってか、見慣れないアニメの広告が多い。サンシャインアルタの広告を横目で見て、私たちはエスカレーターを上った。
「ねえ、どこにいくの?」
駅から出ると冷たい突風が吹いて、それに負けないように私はマスク越しに気持ち声を張り上げた。
光平はセーターの上に羽織った、ベージュのコートのポケットに両手を突っ込んで歩きながら、何も言わない。思考に耽っているのか、私の存在も忘れたようにぼんやりとしている。
「ねえってば」
思わず私が光平の腕を掴むと、彼はハッとしたようにこちらを見た。
「……水族館」
「えっ?」
「サンシャイン水族館に行こう。外デートが嫌いでも、あそこならマシだろ?」
「う、うん……」
返事をすると一度頷いて、また光平は何かを考えているような無表情で歩き始めた。
お互いに考え事に耽っているのに、こんな時にでも気遣いを忘れない光平が、私は少し恐ろしかった。
件の水族館は、中学生のときに行ったのが最後だった。大した思い出もなく、正直当時は「こんなものか」と思ったと思う。
サンシャインシティの入り口の前で、私たちはぼんやりと水色の文字列を見上げた。
「ここって確かリニューアルしたんだよね」
「ああ、十年ちょっと前くらいだったかな。行ったことある?」
「リニューアルしてからは、まだ」
光平は私の言葉に無言で頷くと、寒い空気を振り切るように足早に建物の中に入った。エスカレーターを下り、人通りの多いアルパを通り過ぎると、遥か向こうから伸びる長蛇の列が見える。
「これ、もしかして……」
「……水族館の列みたいだね」
光平が呆気に取られたように呟いた。
水族館へと向かうエレベーターから、インフォメーションまで長い列ができていた。マスクをした親子連れやカップルが、はしゃぐでもなく静かに並んでいる。
「しかも、予約制になってるんだ……」
水族館に入る為にはウェブからの予約が必須らしい。そうでなくても、長すぎる列を見れば、元々水族館に行きたい訳ではない私の気持ちは萎えた。
看板を見ながら私が呆然と呟くと、光平はくるりと体を反転させた。エレベーターの列に背を向ける形で、少し俯く。
「知らなかった……連れ回してごめん」
「大丈夫。……ご飯でも食べようか、せっかく来たし」
光平は無言のままで、虚空を見つめてまた考え事をしているようだった。
インフォメーションの前の大きな館内図に視線を落として、「レストランもたくさんあるよ」と言うと、光平も頷いて館内図を見下ろした。
怒っている風でもない。――どちらかというと、表情は暗く消沈して見える。
光平は少し考えるような間をとって、館内図から視線を上げると首を傾げた。
「お腹、空いてる?」
「……どうかな。まだ空いてないかも」
「四階に広場があるみたいだけど、行ってみる?」
控えめな光平の提案に、私は頷いて了承した。館内図を見る限り、広場は屋外だろう。当然寒いだろうが、館内の暑く蒸された空気の中にいると外気が恋しくなる。
エスカレーターで順番に階を上がっていくと、上に行く程少しずつ人が減っていくのが目で見てわかる。
目的の広場に着くと、数えられる程しか人がいないように思えた。新鮮な、冷えた空気が鼻を通っていく。
視線を巡らせた広場には花もなく、どこか寂しい印象を受けた。葉が落ちた木々が等間隔に並んでいる。
私がベンチに向かっている間、光平がそっと私から離れて自販機に向かったのが見えた。缶コーヒーを素早く購入すると、すぐに戻ってくる。
自分では思い付かなかった気遣いに礼を言うと、光平はまた黙って頷いた。自販機から出たばかりの缶は熱い程で、私は左右交互にそれを持ち替えて冷えた手を温めた。
極寒の広場でデートをする奇特な人間はあまり多くないようだ。日光浴をする老人が遠くに見えるだけで、人は少ない。私たちはそのまま何を話すでもなく、ぼんやりと葉もつけていない木々を眺めた。
「……プロポーズのときも言ったけど、俺は絢音とこれからも一生一緒にいたいと思ってる」
雲がかかり辺りが薄ら暗くなった時、光平はポツリポツリと話し始めた。
「結婚したくない訳じゃないんだろうなって、願望かも知れないけどなんとなくわかる。だからこそ、どうしてハッキリしてくれないんだろう、って思うよ。絢音が不安に思ってることがあるなら、言って欲しい」
「……ごめん」
「謝って欲しい訳じゃない」
光平はこちらから見て分かるほど悔しそうに顔を歪め、ゆるゆると首を振った。私はそれ以外に口にできる言葉もなく、ただ黙り込んだ。
重たい沈黙のせいで、胃の辺りが軋むように痛い。言葉にならない気持ちが、澱のようにそこに溜まっていくようだ。
「……光平と、結婚したいと思ってる」
けれど、と続きそうになって、私は慌てて口を噤んだ。
光平は私の一挙手一投足まで見逃すまいとするかのように、じっと私の顔を窺い見ていた。
けれど、私が言い淀んだ事が全てかのように、彼は暫くして溜め息を吐いた。重い、湿度の籠もった溜め息だった。
「……話してくれないんだな」
びくり、と体が大きく震えた。初めて聞く、明らかに失望の籠もった声だった。私の秘密を知っているかのような、何もかもを諦めたような表情に背筋が粟立ってしまう。
私の肩が大きく跳ねた事に間違いなく気付きながら、光平はおもむろに立ち上がった。「帰ろう」と言って、私に手を差し伸べる仕草はいつもと変わらない。それなのに、二人の間で距離が開いたのを感じた。――けれど、突き放したのは間違いなく彼ではなく私のほうなのだ。
上ってきた時と同じように、黙ってエスカレーターを降りる。
はしゃぐ十代の女の子たちが、自然な動作で三階からエスカレーターを下っていくのが視界の端に映った。キャラキャラと楽しそうに笑っている少女たちは、まるで何の苦労も知らないかのように見える。
――若い女からは甘い桃の匂いがする。
脳裏で再生された声は、まるで腐った花の蜜のようだった。甘くて、澱んでいて、端から溶けていく。
あの人は、こんな声だっただろうか。
誰にも伝えないでいる間に、長い時間をかけて、私の頭は記憶を落として行ってしまった。そして、彼女の声を聞く事は二度とない。
そんな事を考えていると、二階から一人の女性が私たちの前にそっと割って入った。その姿を何気なく見下ろし、次いで鼻まで届いた香りに私は思わず呼吸を止めた。
長い茶髪を緩く巻いて、暖かそうなベージュのコートを羽織っている女性は、明らかに質が良いとわかるブーツに、ブランド物のバッグを肩からかけている。東京都内で考えればどこにでも居そうなその出たちでも、纏う香水の香りと強いアルコール臭だけで、一瞬で過去に意識を飛ばされた。
今や街中でよく嗅ぐようになったSHIROの清純な香りでも、ミスディオールの華やかな香りでもない。それは甘く、重く、花にも木にも例えられない。
まるで濃厚なフェロモンを嗅いだかのように、くらりと目眩がした。
「……絢音?」
エスカレーターを降りて立ち止まった私に、光平が訝しげに声をかけた。呆然と立ち尽くす私は、不意に胃の中から熱いものが迫り上がってくる感覚に襲われた。それは単純に胃液だったかもしれないし、言葉に出来ない感情が熱い吐息と共に吐き出されたのかもしれなかった。
くるりと背を向けて降りていく女性の横顔が見えた。綺麗な人だ。顔を見れば、なんという事もない。どこにでも居そうな、今時の美人だった。
――『猫を汚した事が、私の罪』。
いつだったか考えていた。あの薄暗い、黴臭い部屋で。私は彼女ではなく、絵を愛したのだと思っていた。彼女に恨まれようと、憎まれようと、あの猫を抱えて逃げれば良かったと思っていた。けれど、違う。違うのだと、今更気付いた。だって私はまだこんなにも彼女に囚われているのだから。
「……できない」
ポツリ、と呟いた声は自分のものに聞こえなかった。
「私、結婚できないわ……だって、私……」
慌てたように光平が私の体をそっと押して、エスカレーターの前から退かせる。周囲の人間が不審そうに、どこか興味深そうに私たちを見ているけれど、そんな事に構ってはいられなかった。
「……絢音? おい……」
光平が私の肩を軽く揺さぶった。彼に「おい」なんて乱暴な言葉を使われたのは初めての事だった。
私は気付けば幼い子供のように、嗚咽を溢しながら号泣していた。涙が次々溢れて止まらない。
――結婚なんて出来る訳がなかった。
私の罪は、猫を汚した事。そしてこれ程長い時が経っても未だ、胸に女を住まわせて、罪滅ぼしのように反芻して、愛している。
「私……二十歳の時、刑務所に入ってたの……」
俯いていたせいで、小さく発した言葉はひしゃげていた。私の肩を掴んだままの光平が、鋭く息を飲んだのがわかった。目を合わすことも出来ずに、そのまま両の掌で顔を覆った。
景色も音も遠のいて、自分の激しい鼓動だけが耳を震わせる。
気付けば、私もあの日の彼女と同じ三十歳を目前にしていた。
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