1-3 記憶の蓋
「じゃあ、おやすみ」
光平が柔らかい笑みを浮かべて、次いで視線を左右に巡らせた。
「どうかした?」
「いや……」
私が訊ねると、彼は少し慌てた様子でキョロキョロと背後を気にした。そして、周囲に誰もいない事を確認すると、やや強引に私の額に唇を寄せた。その慣れない気障な愛情表現に面くらって、私は暫し固まってしまう。普段からスキンシップも少なく、公共の場では手も繋がない人なのに。結婚の挨拶に来たという高揚感が、彼を浮かれさせているようだった。
「……なんだか、胸がいっぱいで」
照れたように笑う彼は、私よりもよっぽど乙女然としていた。私は怒るでも呆れるでもなく、口端を上げて小さく頷くだけに留める。
「えっと、おやすみなさい。……明日は別に予定もないし、そんなに早く起きなくても良いからね」
「婚約者の実家で爆睡できる程、図太くないよ」
婚約者という耳慣れない響きに、戸惑いながらも微か笑みをを浮かべる。
客間で眠る光平と廊下で別れると、私は母が残してくれている自分の部屋へと向かった。
壁にかけられた子供っぽいネームプレートもそのままだ。中に入ると、人が生活していない部屋独特の、少し黴臭い臭いが鼻孔を擽る。。けれど、定期的に母が掃除をしてくれているのか、視界に入る家具に埃が積もっている様子は見受けられない。
換気の為に開けたであろう窓を閉める。シンプルな勉強机や、本棚に並べられたかつてお気に入りだった本達をぼんやりと眺めた。
かつて私の世界の一部だったこの部屋は、今は切り離されてまるで死人の部屋のようだった。ベッドにかけられた、柄物のシーツも今の自分の趣味とはかけ離れている。
力を抜いてベッドに横たわると、嗅ぎ慣れた匂いがした。今住んでいる自分の部屋からはしない匂い。この家の匂いだ。柔軟剤や洗剤を変えても、変わらない家の匂い。
そのせいだろうか。過ぎ去った出来事が脳裏を掠めては、居心地の悪さに寝返りを打つ。
私は生まれてからの二十年をこの部屋で過ごした。そして、――二十歳から今までの九年間を、他人に説明するのはとても難しい。
ふと思い出して、部屋の床に乱雑に置かれている自分の荷物へと近寄った。
旅行用のバッグと、小さなショルダーバッグに寄り添うように、昼間に買ったチョコレートの紙袋が置いてある。紙袋から四角いラッピングを引っ張り出すと、丁寧に包装紙を剥がした。昼間と同じ青いパンプスの形のチョコレートを取り出して、常夜灯のオレンジ色の光に透かすように持ち上げて見る。
決して私の趣味ではないチョコレートを買ったのは、この派手な青色を見て彼女を連想したからだ。
――まるで舞踏会への招待状みたい。
現実主義な顔の下に夢見がちな少女を隠していた。あの人は、酔った目でこれを買う事だろう。それとも、糖質の塊だと言って皮肉に笑うだろうか。どちらも有り得そうで、どちらも有り得ない気がした。瞬きの度に瞼の裏で着色された青が色濃く点滅する。
カンバスに描かれた青は、もっと複雑な色をしていた。少なくともこんなに派手な青ではなかった。
それなのに、私は一目見た瞬間に彼女の絵を思い出し、目が離せなかった。
彼女が筆を滑らす度、輪郭を得てこの世に生まれる絵画たち。きっともう二度と生み出される事はないのだろう。何故だか、そんな気がした。――彼女に、もう一度会いたいとは思えない。今まで一度も、そう思った事はない。
私は暫くそうしていたが、やがて夢想するのにも飽き、チョコレートを降りただんだ包装紙と一緒に紙袋に戻した。
ベッドに戻り目を開けて天井を見ていると、白っぽい天井がぐるぐると回っているように見える。慌てて目を閉じても、瞼の裏側でチラチラとそれが意識を逸らして、上手く眠気を感じる事が出来ない。
もう長い間、私はこの不眠に悩まされている。眩暈のような強い眠気が来る度目を閉じるのだが、そういった日は却って眠れないのだ。
結局朝が来ても寝付けずに、完全に空が明るくなる前に私は諦めて自室を出た。
「おはよう」
身支度を済ませた私がダイニングに顔を出すと、早朝だと言うのに母はもう起きて朝食の準備をしていた。
「早いわね、おはよう。コーヒー飲む?」
「飲む……あれ? マシンは?」
「ああ……」
いつもあった場所にコーヒーマシンがない事に違和感を覚えた。辺りを見回してマシンを探す私に、母は苦笑して答えた。
「壊れたから捨てたのよ。今はもっぱらインスタント。楽よ。手入れもしなくて良いし」
「そう……」
粉のコーヒーは飲んだ気がしないって言っていたのに。
昔の母の言葉が脳裏を過った。
インスタントのボトルを手渡され、自分で粉をカップに入れる。インスタントコーヒーを飲む機会があまりないので、どの程度入れるのかわからない。
「これ、何杯入れるの?」
「一杯でいいわよ」
「おはようございます」
驚いて振り返ると、私たちの会話を遮らないようにだろう、気配を殺した光平が廊下からこちらを覗いていた。
母の、
「早いわね、まだ寝てていいのに」
という言葉に、彼は曖昧に微笑んだ。
「なんだか目が覚めてしまって。皆さん、朝早いですね」
「歳をとると、朝早くに目が覚めるのよ」
明るい声で笑う母に、光平は困り顔で「いやいや……」と、誤魔化すように頭を振った。
彼も私同様普段着に着替えてはいたが、恐らくまだ顔を洗ってはいないだろう。私は光平の側に進み出ると、指で洗面所の方を指差した。
「光平、洗面所わかる?」
「大丈夫だよ。お義母さん、洗面所借りますね」
「どうぞぉ」
機嫌良さそうに、目玉焼きを焼きながら母が返す。
私は光平を洗面所へと案内すると、一度振り返って顔を覗き込んだ。
「眠れなかったの? まだ五時だよ。……大丈夫?」
「そんなに神経質じゃないけど、愛する彼女との結婚のお許しを貰った後だから、流石に緊張したのかな?」
おどけた表情で言われ、私は思わず軽く吹き出して「もう、ばかね」と彼の背を軽く叩いた。「いてっ」と、冗談めいた声音で光平が大袈裟に痛がる。昨日から、随分とテンションが高いようだ。
「全く……」
漏れ出た照れ笑いのようなものを噛み殺しつつ、私はキッチンへと戻った。
母が切り終わったトマトをガラスの大きな器に綺麗に並べている。そのまま、それをカウンターへと乗せた。サラダやキュウリなどの一般的な野菜ばかりが乗った、珍しくもないサラダをカウンター越しに眺めていると、母が顔を顰めて声をかけた。
「ちょっと、ボケッとしてないでテーブルに運んでよ」
「……あ、ごめん」
呆れたように言われ、私は言われて初めてぼんやりとサラダを見詰めていたことに気づいた。
カウンターからサラダを持ち上げると、ダイニングテーブルの中央に置く。
「もう、相変わらずぼんやりして。結婚した後苦労するよ。大丈夫なの? 普段料理とかするの?」
「たまにはするよ……」
「普段からやってないと、困るのはあなたよ」
「だって、仕事が忙しいんだもの」
エンジンがかかってしまったのか、次々と説教が出てくる母からそっと視線を逸らす。まるで昔に戻ったような母の言葉を聞いて、当時であればこのように返せなかっただろう、と少しだけ変化を感じた。
「ありがとうございました。……わあ、美味しそう。朝から豪勢ですね」
洗面所から戻ってきた光平が、テーブルに並んだ料理を見て嬉しそうに目を輝かせた。
目玉焼きにソーセージに、サラダと味噌汁。特に変わった所もない、一般的な家庭の朝食だ。
「大した物じゃないわよぉ」
「いやいや。一人暮らしだと、ちゃんとした朝食って中々食べられないので。こんな立派な朝食、嬉しいです」
「そぉ?」
光平の言葉を聞いた、母の表情は喜びに満ちていた。母と光平の遣り取りを黙って聞きながら、私は少し柔らかい気持ちになる。
彼の言葉は、いつも他人を喜ばす。他の誰かが言えば明らかなお世辞の言葉でも、彼が言うと本心だという気がするのだ。そして、きっとそれは間違いではないのだろう。
嬉しそうにダイニングチェアに座る光平と並び、私は目の前の朝食を見下ろした。
私がこの朝食を褒めるならば、何と言うだろうか。『美味しそう』、『ありがとう』。精々それくらいかもしれない。彼のように母を喜ばす事など、到底できないだろう。
「お父さん呼んでくるわね」
にこやかに言って、母が素早くエプロンを外した。先程私に説教をしていた母と同一人物とは思えない程、穏やかな表情を浮かべている。
私はなるべく唇を笑みの形に持ち上げて、目を細めて母を見送った。光平と他愛ない会話をしている僅かな間で、父は老いた動物のようにゆっくりと顔を出した。
「おはよう、みんな早起きだね」
少し寝ぼけた顔の父の言葉に、光平が目を細めて微笑む。なんだか嬉しそうな顔だ。
私がじっとその顔を見ている事に気づくと、光平は気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「……俺、父親が朝食の時間に家にいた事がないから、何だか新鮮で」
光平の母親の話はたまにされていたが、父親の話は珍しかった。先を促す為に「そんなに忙しいお方なの?」と尋ねると、光平は軽く視線を下げて続ける。
「父は仕事で忙しくて、食事は大体母と二人だった。だから、家族揃って食べる朝食って憧れるな」
「お父様のお仕事って……?」
母のどこか強張った声に、光平は特に気にした様子もなく滑らかに続けた。
「父は、子供向けの玩具の会社を経営しています」
「まあ、社長さん……」
母の顔に浮かんだのは驚愕だけではなかった。チラリと私を見た目は明らかに「大丈夫なの?」と語りかけてきている。私も初めて知ったのだから、そんな目で見られたところで困るだけだ。
光平も私たちの視線に気づいたのだろう。慌てたように手を振って続ける。
「社長と言っても、小さい会社ですよ。僕は跡を継ぐ訳でもないですし、気にしないでください」
光平は言い訳のようにそう言うと、話を戻した。
「だから、絢音さんのご家族と一緒に食卓を囲めて嬉しいです」
「光平さん、口がお上手なんだから。おかずが足りなかったら魚でも焼くから言ってちょうだい」
「ありがとうございます」
母の言葉に、光平は心の底から嬉しそうに答えた。二人とも本心からの言葉である事が伝わってくる。幸福そうな光景であるはずが、私はなぜか居心地が悪く感じてしまう。
どうして、自分だけが宙に浮いているように感じるのだろう。光平と二人で過ごす中でも、同じように落ち着かない瞬間があった。何度も、――何度も。
「テレビをつけてもいいかな?」
と、今まで黙って微笑んでいるばかりだった父が口を挟んだ。
思えば、実家では毎朝ニュース番組を流していた気がする。光平に配慮して、昨夜は食事が終わるまでテレビを点けるのを我慢していたのだろう。
光平が快く了承したのを見ると、父はいそいそとソファへ移動してテレビを点けた。
『――こちらが、今話題の“パパ活“募集の投稿です。』
真っ先に耳に飛び込んできた内容に、びくりと体が強張った。私は咄嗟に背後のテレビに視線を向けた。
テレビ画面にはスマホの画面が表示され、青色のアイコンと共にSNSに投稿された文章が映っている。プライバシー配慮の為か所々にモザイク処理を施され、ハンドルネームなどの詳細は確認できない。
『こちらの投稿を見た男性――所謂“パパ“ですね。彼らはメッセージ機能を使って女性へとコンタクトを取る事ができます』
『この“P“という絵文字が、“パパ“の隠語という訳ですね』
全員の視線がテレビへと注がれていた。ソファに座った父の表情は私からは見えない。
そのまま、アナウンサーは原稿を読み上げ、コメンテーターが時折まるで茶々を入れるように口を挟む。
『女子大生を買う方もそうですが、売る方もどうかと思いますよ』
『所謂買春までは行かず、食事だけを共にする事も多いのだとか。彼女らにも事情があるのでは?』
『大学の学費を払うという名目で“パパ”を探すものの、現実は交際費に消える事も多いらしく……中にはホストクラブにお金を注ぎ込む女性や、美容整形の費用にする女性も少なからずいるようです』
『……では、続いて次のニュースです……』
電源を入れた時点で既に終わりかけだったのか、それとも長くもないコーナーだったのか。
アナウンサーが次のニュースを読み上げても、私たちはぼんやりとその画面を見続けていた。
「今は“パパ活”って言うんだね」
光平が特に興味もなさそうにそう呟いて、テレビから視線を外した。
私は思わず「え?」と聞き返したが、慌てて向けた表情は固くなっていただろう。声も動揺を表すように水っぽく震えた。それに気付いていない様子で、光平は続ける。
「昔も女子高生が体を売るのが流行った……『流行り』って言い方もどうかと思うけど。俺たちが高校生くらいの時……その時は“エンコー“とか言ったっけな。自分が大人になった今、未成年といかがわしい事をするなんて……考えられないな。ゾッとするよ」
光平はそこまで言ってその話題を打ち切ると、両手を合わせ「いただきます」と行儀よく言って目を伏せた。
並べられた食器から味噌汁を選んで一口飲み込むと、浮かんだキャベツや豆腐を数回咀嚼する。
「お義母さん、お味噌汁美味しいですよ。僕、具沢山の味噌汁って好きだなぁ」
「……あ、本当? 良かった。……ほら、絢音も、もう食べなさい」
「うん……」
気付けばソファから戻った父も着席していて、まだ箸を持っていないのは私だけだった。
味噌汁を口に含むと、特筆する事もない合わせ味噌の慣れた味がした。
「……絢音も、光平さんの好きな味噌汁が作れるようにならないとね」
母は私を見ると、笑みを浮かべてそう言った。まるでそれが幸せな事だと言わんばかりに。私は微笑んで無言のまま頷く。
光平の好きらしい、具沢山の味噌汁を作る生活を想像すると、何だか胃の辺りが冷たく落ち着かない気持ちになった。
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