1-2 帰郷

 電車の中はこの時間にしては混んでいる気がした。けれど潰される程ではなく、光平が壁の代わりになってくれたので、寧ろ一人で乗る時よりも居心地は良かった。

 久しく降りていなかった赤羽駅は、相変わらずゴミゴミしていた。記憶にあるよりも、外国人の数がずっと多い。韓国人やフィリピン人、他にも国籍さえわからないような人々が、各々好きなように声を上げている。駅の雑踏を眺めていると、まるで違う国に来たのではないかと錯覚する程だった。

 そのせいだろうか。ほとんど十年振りと言ってもいい程のかつての最寄り駅に、これと言って懐かしさは湧かなかった。


「バス乗るの久しぶりだなぁ」

「後払いだからね」

「そうだった。残高あるかな」


 スマートフォンを弄っている横顔を、苦笑しながら見詰める。

 東京育ちの彼は、私の実家をどう思うだろうか。バスに乗るのは赤羽駅からだが、バスを降りればそこはもう東京ではない。


 都心まで電車一本で行けるからか、学生の頃は若い内から都会慣れしている同級生が多かった。それでも、東京生まれ、東京育ちの子どもとは何かが違うように感じた。

 印象を強いて言語化するならば、彼等にはオーラのようなものがあるようだ。

 洗練された空気や佇まい、ファッションセンス一つ取っても、東京に住んでいる子どもは一目でわかるのだ。学生の頃、私は彼らの纏う空気を少し疎ましく思っていた。お前とは違う、と言われているようで、勝手に引け目を感じていた。

 赤羽駅から、バスに乗って三〇分程。周りに高いビルは無く、かと言って広い庭を持つ家は少ない。

 私の生まれ育った家は埼玉の中途半端な田舎にあり、最寄りの地下鉄の駅まで歩くには不便だった。同じ埼玉県でも、JRの駅の側とは不便さが違うのだ。

 バス停から実家までの僅かな距離を歩きながら、上擦った声で話す光平に相槌を打つ。様変わりしたとは言えない通学路の、思い出せない程度の僅かな変化を感じながら、痛む脚を庇いつつ歩いた。


 ここだよ、と声をかけると、光平はこちらに聞こえる程大きくゴクリと唾を飲んだ。


「チャイム押すの、緊張するな……俺、変な所ないかな?」

「緊張し過ぎだよ」


 中川と記された表札の下、伸ばした指が確かに震えている。光平は深呼吸を何度かして、ネクタイに指を這わせたり、スーツの腰の辺りを叩いたりした。

 ふと視線を上げると、玄関からかつての自分の部屋が見えた。あの窓から、よく外を見下ろした事を思い出す。数年振りに訪れた実家の白い家壁は灰色にくすみ、どこか劣化した印象を受けた。

 最後にもう一度深く息を吸い込んで、光平は今時カメラも付いていない呼び鈴をゆっくりと押した。


『……はい』

「あっ、僕、絢音さんとお付き合いさせて頂いております、幸村光平と申しますッ! ご挨拶に伺いました!」

『はーい。今開けます』


 インターフォン越しの母が面白がるように、クスクスと楽しげに笑う声が聞こえた。

 しっかりして、の意味を込めて光平の背中を軽く叩く。

 会社での初めての商談の時と同じくらい緊張している彼を見て、私も伝染ってしまったように俄かに緊張した。二人でぎこちなく立ち竦んでいると、鍵を開ける音の後、ゆっくりと玄関のドアが開いた。


「は、初めまして」


 ドアを開けた母に向かって、光平が恐縮した様子で頭を下げた。


「はい、初めまして。絢音の母です。……中へどうぞ。散らかってますけど」

「は、はい。お邪魔します」


 軽快に笑いながら、母が手をひらひらと振って私達を呼び寄せた。その言葉に従って歩く光平の動きは、油の差していないロボットのようでどこかぎこちない。

 光平にスリッパを勧めながら、ふと顔を上げた母と視線が交わった。


「おかえり、絢音」

「…………ただいま」


 久しぶりの対面に、気まずそうな声を出したのは私の方だった。

 母は眉を下げて柔らかい笑みを浮かべており、それは娘の帰宅を喜ぶ表情に見えなくもない。

 私は玄関に入ると、ゆっくりと家の中に視線を巡らせた。

 シューズボックスの上に並べられた古ぼけた家族写真や、何十年も前から存在しているような埃を被って色褪せた造花。そこは間違いなく私の生まれ育った家だった。古い家はどこからか饐えた臭いがして、私はこっそりと呼吸を浅く保った。

 玄関で靴を脱いでいると、足を半ば引き摺るようにしてやってきた父が、腰を折ってしっかりと礼をした。


「いらっしゃい。駅から遠くて、疲れたでしょう。寛いで、気楽にしてください」

「とんでもないです。絢音さんの育ったお家に伺えて、感激です」


 光平の上擦った声を聞いて、父が目元に皺を寄せて嬉しそうに笑った。当たり前だが、記憶にあるよりも随分と老けた気がする。――こんなにも、小さな人だっただろうか。

 そのまま父の背を追うように短い廊下を歩いていくと、母がそそくさと、奥でお茶を準備しているのが見えた。こういう時、娘の私は何か手伝った方が良いのだろうか。

 リビングへ案内する父に光平を任せ、母を追ってキッチンへ向かう。背後から付いてくる私に気づいた母は、苦笑しながらゆるりと頭を振った。


「今日はいいわよ。向こうで座ってなさい」

「そう?……わかった、そうする」


 かつてそうだったように大人しく言う事を聞いて、私は光平の隣の椅子へと腰を落ち着けた。私が座った席の向かいは、昔から母の席だ。

 光平の前に座る父の表情は落ち着いていて、非常にリラックスしているように見えた。私はそれを少し意外に思って、久しぶりに会う父への少々の気まずさと共に視線を外した。


「あ、光平。お菓子渡し忘れてるよ」

「あっ!」


 公平の膝の上に乗せられた和菓子屋の紙袋を見て、私は小声で囁いた。光平はびくりと体を跳ねさせると、勢いよく立ち上がり、慌てた様子で素早く母の元へと向かった。


「すみません、これ、良ければ……」

「まあ……とらやの羊羹! 嬉しいわあ……ありがとう。後で、みんなで食べましょうか」


 母がどこか浮かれた様子でそう言うのが聞こえた。キッチンから戻ってきた光平は、無事に菓子折りを渡せた事で安堵した表情を浮かべている。

 人数分のコーヒーが揃い、母も着席する頃になると、ダイニングは自然とシンと静まった。


「……本日は、お忙しい中お時間を頂き、ありがとうございます」

「いや……そんなにかしこまらなくてよろしい」


 光平の硬い声音を聞いて、父が柔らかな声で静止をかけた。そのまま一口コーヒーを啜り、固まったままの光平を真っ直ぐに見る。


「娘とは……何年くらいの付き合いになるのかな」

「今年で五年、お付き合いさせて頂いています」


 相変わらず緊張したままの光平を眩しそうに見て、父は目尻に皺を寄せて微笑む。


「そうか、五年……頑固な所がある娘だから、苦労をかけたんじゃないかな」

「そんな事はありません」


 苦笑した父の言葉に、光平は慌てて首を横に振った。


「絢音さんとは職場で出会ったのですが、彼女はいつも穏やかな人で……」


 当時を思い出しているのか、光平は目を細めて遠くを見るように微笑んで語る。

 両親が真剣にその話を聞いて、時折嬉しそうに頷いているのを、私は誰か他人の話を聞いているような気持ちで見ていた。仕事が出来、謙虚で、女性らしいその人物は、私とは違う人間のような気がする。それなのに、父も母も、何も違和感がないような顔で嬉しそうに聞いているのだった。


「昔、飲み会でもそういう事があったんです。……」

「光平、恥ずかしいから、その位にしてよ」

「あッ……話し過ぎちゃったね、ごめん」


 私が少し微笑んで話を遮ると、光平はこちらを向いて照れくさそうに鼻の頭を掻いた。


「絢音と上手くやってくれているようで、嬉しいよ」


 穏やかな声で父が言うと、光平は「そんな。絢音さんのおかげです」と言って恐縮した。こういった人の気分を害さない程度の低姿勢は、彼の体と心に染みついた品の良さなのだろう。育ちの良さが滲み出ていて、私は彼といると少しも不快感を抱かずにいられた。

 そのまま自然と話は結婚の挨拶へと流れ、両親は当然快く頷いた。


「絶対に、絢音さんを幸せにします」

「ありがとう……絢音をよろしくお願いします」


 三人が揃って深く頭を下げるのを見て、私も釣られて浅く頭を下げた。

 和やかな雰囲気で話を終え、私たちは予定通り実家に一泊する事になった。

 

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