1-1 青いハイヒール

 手土産を買うのを忘れた!――慌ててそう言った光平に、私はいつも通り僅かに口端を上げて頷いた。乗り換えの為に降りた駅でそれを思い出した事に内心感心する。普段から抜けているのに、持って生まれた幸運で切り抜ける事の多い、彼らしいタイミングの良さだった。


 池袋駅西武の食品館を当てもなく歩きながら、光平はどこか高揚した様子で辺りを見回した。あれこれと覗き込んでは、笑みを浮かべてショーケースを指差してみせる。


「ここ、ケーキも売ってるんだ。家で食べる用に買って行こうか?」

「ううん……もうお腹いっぱいだから、大丈夫」


 私が軽く首を振ると、肩を竦めて「本当、君って少食だよね。それとも、女性ってみんなそうなのかな」と、微かに苦笑したのがマスク越しでもわかった。


 光平を真似するように腰を屈め、私もガラス越しに中を覗き込む。ショーケースに並んだケーキはどれも繊細な出来で、メインの商品なのだろうショコラの濃いブラウンは、牛タンを食べたばかりの胃には重たそうだった。思わずそっと胃の辺りを押さえる。最近、普段と変わらない食事を摂っているのに、体型が変わっていく気がする。『水でも太る』という言葉の通り、私自身は何も変わっていないのに、体は加齢と共に形を変え、まるで水風船のような柔らかい丸になっていくようだった。


「手土産、決まらないなぁ」

「そんなに気を使わなくていいよ」

「いやいや。だって、絢音のご両親に気に入られたいんだ。わかるだろ?」


 光平は先ほどから何度も同じ事を繰り返し呟いて、食品館の中をぐるぐると回っている。私はこっそりと溜め息を吐くと、邪魔にならないように通路の端に移動してその背中を見送った。人混みを避けて歩き続けたせいで、履き慣れていないパンプスに苦痛を覚えた。きっと、踵の方で水膨れになっている。


 これから、彼と共に私の実家に結婚の挨拶に行く。


 逆の立場で想像すれば、自分でも手土産は迷うだろう。勿論、その為に随分前からネットサーフィンを繰り返し、彼にご両親の好みも確認してある。彼は少しでも、手土産で好印象を勝ち取りたいらしい。その割に、直前で手土産の存在を思い出すのが彼らしかった。『三十歳を目前にした一人娘の結婚相手』というだけで、両親は安心しきっている。けれど、「ありのままのあなたで大丈夫だ」と何度言った所で無駄な事は、何週間も前からわかっていた。


 土曜日の池袋駅は真っ直ぐ歩けない程に人が多く、平日にも仕事で利用している駅だというのに、人の流れに眩暈を覚えた。マスクを少し持ち上げて、暖房と人の体温で熱された空気を浅く吸い込む。販売員の中年の女性や、目元だけ細めた若い女の子が、マスク越しに声を張り上げているのが遠くから聞こえる。

 少し離れた場所にいる光平は、今度はバウムクーヘンを真剣な表情で見下ろしていた。このまま放っておいたら、夜になってしまいそうだ。右手に持ったスマホの時刻を確認し、痛む足を庇いながら声を張り上げた。


「光平! もうそろそろ決めないと、時間、ギリギリになっちゃうよ!」

「えっ? 本当? もう少し待って……やっぱり和菓子にした方が良いかな」


 そう言って、光平は元来た道を足早に戻って行った。人混みを慣れた様子で器用に避ける。どうやら、奥にある和菓子屋に向かったらしい。

 私は追いかける事もせず、肩を竦めて嘆息した。結果のわかっている会合の準備なのに、随分な気合の入れようだ。


 手持無沙汰に、目の前に並んでいるケーキを見下ろした。パティスリーらしく繊細な見た目と光沢のあるショコラ。あと五歳若かったら食後でも食べていただろうか。

 ケーキの横には一粒一粒、等間隔に並べられた高級感の漂うショコラがあり、周囲には私のようにショーケースをじっと見ている女性客も多い。普段高級なチョコレートを買う事がない事もあり、商品の前に並べられた値札が相場と合っているのかすら、私には判断がつかなかった。


「ねえ、これ!」


 横から手が伸びてきてそちらを見遣ると、黒のレースやフリルで呆れる程膨らんだワンピース姿の少女が、はしゃいだ様子でショーケースを指差していた。感染症を恐れていないのか、このご時世にマスクもしていない。ライトに照らされた白い肌は、陶器のようにつるりとしている。


「これ、この間バズってたやつ! これが欲しいの!」


 アニメのキャラクターのような甘えた声を上げると、少女は背後の男の腕にしな垂れかかった。自然と目がそれを追い、少女と腕を絡ませ合った、草臥れたスーツの男を見上げてしまう。

 男は少女の指差した先ではなく、自分の腕に押し付けられた彼女の胸をしっかりと見下ろしていた。その隠しもしない下卑た視線が、二人の関係をわかりやすく表している。


 頭の中に霧がかかったように、思考が徐々に白んでいく。


 ぼんやりと二人の遣り取りを見ていると、背後から「お待たせ」と声をかけられた。その声に喧騒が戻って来たのを感じ、敢えてゆっくりと時間をかけて振り返った。


「……結局、和菓子にしたよ。店員さんが『ご挨拶に行くならやっぱり和菓子ですよ!』なんて言うからさ。確かになぁと思って」


 戻ってきた光平が、満足そうな笑みを浮かべて紙袋を掲げた。有名な店名の入ったそれを見て、肩を竦める。店員にもそんな個人的な話をしたのか、と少し呆れたが、誰とでもフレンドリーに話ができるのは彼の美徳でもある。


 手土産も用意した所で、やっと電車を乗り換えて実家に向かえるようになった私達は、直ぐ様食品館を出ようと出入り口に向かった。最近設置されたらしい非接触型の体温計に、入店する客がこぞって顔を映しているのが、側から見ると不気味だった。


 パティスリーを右手に歩き始め、数歩歩いたところでふと視線の端に映り込んだ物が気になって足を止めた。


「……絢音、どうかした?」

「ううん……」


 反射的に返事をしながらも、視線が逸らせない。

 バレンタインの時期だからだろうか。それはショーケースの一番目立つ場所に陳列されていた。

 一見、ただの真っ青な置物が並んでいるだけだ。クリアボックスに入れられ、白のレースで縁取られたリボンで飾られている。よく見れば、それは細いヒール部分まで全てチョコレートで出来ているらしい事がわかる。

 私は薄っすらと口を開けた、間抜けな顔で暫くの間それを見ていた。

 マスクに隠された表情は随分と間の抜けたものだっただろう。殆ど意識の外で、私は小走りでショーケースに駆け寄っていた。


「あの……これ、ください」

「かしこまりました」


 SサイズとMサイズとあるハイヒールの、大きい方を迷わず指差しながら、私は目元を細めて笑う店員に早口で告げた。

 光平が後ろからのんびりとした歩調で近づいて、「へえぇ」と感心したようにハイヒールを様々な角度から覗き込んだ。


「絢音、こういうの好きなんだ。知らなかったな。お姫様みたいなの、趣味じゃないと思ってた」

「うん……」


 返す言葉も上の空になった。会計を済まし、ショップのロゴが印字された紙袋を受け取ると、私は思わず中を覗き込んだ。丁寧に包装された箱からは、もう中のハイヒールは見えない。

 光平は腕時計を確認すると、少し慌てたように早口になった。


「じゃあ、そろそろ向かおう。約束の時間に遅れてしまうから」

「そうだね……行こう」


 二人で早足になりつつも、乗り換えの為にJR埼京線へと向かう。改札口は人でごった返していて、誰も彼も時間に追われているようだった。


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