4-1 真綿の拘束


 バイトが終わり、家に帰る頃には気怠くなっていた。けして疲労のせいだけではない、それは私の足の先から冷えと共にじわじわと這い上がってくる。バスを降りて帰宅する頃には吐き気さえしてきて、私はゆっくりと自宅のドアを開けた。

 父はもう帰宅しているようだった。玄関に置かれた革靴を見て、そっと震える息を吐く。


「……ただいま」


 ダイニングに入ると、母と父は揃ってそこで座っていた。いつもであれば父のつけたテレビのニュースが聞こえてくる時間の筈が、室内はシンと静まり返っている。

 胸がグッと苦しくなり、心臓が早鐘のように鳴り出す。


「……絢音、昨日はどこに泊まったの?」


 母が感情の死んだ声で私に問う。先日も無断外泊をしたばかりの私は、言い訳も出来ずに黙り込んだ。毎日家とバイトの往復ばかりしているせいで、上手い言い訳のレパートリーが足りない。


「……ごめんなさい」

「どこに泊まったのか、聞いているの」


 私の謝罪を、案の定母は必要としていなかった。父は黙って俯いたままテーブルを見ていて、母のように私を叱る訳でもない。

 視線をダイニングテーブルの角に固定して再び口を閉じた私に、母は低い声で言った。


「男の人のところに泊まったんでしょ」

「違う。バイト先で知り合ったお姉さんのところに泊めて貰ったの」

「嘘を吐くなッ‼︎」

「ッ、」


 突然大きな声を出されて、体の全てに電撃が走ったように強張った。

 母は深呼吸をして落ち着こうとしているようで、は、は、と短い息を吐いた。目が血走っていて、瞳も、テーブルに置いた指先も、細かく震えている。


「今までそんな話、聞いた事ない。……お母さんに嘘を吐くの」

「お母さん……私、嘘なんて吐いてない」

「うるさい‼︎ 私の子供が、こんな不良になるなんておかしい‼︎ お父さんもなんか言ってよ‼︎」

「……母さん、落ち着いて……」


 父は躊躇いつつも母を宥める方を選んだ。立ち上がり手を伸ばした父の手は、きっと母の背を撫でようとしていた。けれど、その手は暫くの間宙を彷徨い、そのまま何にも触れる事なく落ちていった。

 私は俯いて、母の激情が過ぎるのをただ待った。

 二十歳を過ぎても、母の理想の娘には未だなれていない。母を宥める魔法の言葉すら知らない。


「お父さんがしっかり見本になってくれないから!」


 突然、母の怒りの矛先は父へと向かった。父の肩が微かに跳ねたのがここからでもわかった。


「絢音はこんな子じゃなかった! 絢音が不良になったのはお父さんのせいよ! 全部! 全部……‼」


 金切声で責める母の言葉に、父は僅かに俯いた。母と目線を合わせたくないかのように。何も言えなくなった私に視線を寄越し、父は小さな声で私を呼んだ。


「……絢音、先に寝なさい。母さんには、話しておくから」

「うん……お父さん、ごめんなさい……」


 私が背を向けても、母はそれを気にした様子はなかった。

 拳こそ出ないものの、時間を気にして声を潜める事さえしない。静かな住宅街に母の声が木霊しているのではないかと思うと、胃の辺りが重くなる。

 廊下に出てドアを閉める寸前、一際大きな声で「あなたのせいで……‼︎」と母が怒鳴ったのが聞こえた。それ以上耳に入らないよう、足早に二階の自分の部屋へと向かう。

 どれだけ離れても、母の悲鳴にも似た甲高い怒声が耳にこびり付いて離れない。

 部屋に入って、電気も付けずにベッドに横になる。湿ったにおいがして、鼻がツンと痛んだ。


 母は、父が不倫をしていると知ってからおかしくなってしまった。


 あれは私が中学生の頃だった。夜中に何度も母と父が言い争っているのを、私はリビングのドア越しに隠れて聞いていた。父を責めて、責めて、責めて。そして母は私に『誠実で善良な』『ふしだらなことをしない』『良い子供』であるように言い続けた。『父のようになるな』と、本当は言いたかったのだと思う。


 腹の辺りに当たる感触で、ポケットに入れた携帯を思い出した。引っ張り出して、無感動にレイカのメールアドレスを表示する。


『夜分遅くにすみません。

 今日はありがとうございました。

 キャンバスは乾きましたか?』


 メールを送信して暫く待ったが、返信はなかった。期待はしていないつもりだったが、待っていた時点で返信を期待している事に気付いて自嘲する。

 スマートフォンに変えようかな。今まで、気にした事もなかったけど。

 優里亜が、スマートフォンにすると連絡が楽だと言っていた事を思い出す。メールとは違う方法でやり取りするらしく、返信も楽なのだそうだ。

 会う度に携帯を見て懐かしむ優里亜を思い出す。

 ほんの少し前までみんな、同じように携帯を使っていたのに。『スマホ』にした途端、遠い昔のように懐かしまれることが不思議だ。


 バイブ音が鳴って、閉じたままの画面に『レイカ』という表示が踊った。慌てて携帯を開くと、メールの本文には一言――

『乾いた』

とだけ書いてあった。


 それをしっかりと五秒は眺め、私は思わず、ふ、と震えた息を吐いた。顔が笑みの形にくしゃりと歪む。返信はせずに、パタリと携帯を折りたたんで適当に置いた。

 返ってきた短い文面が、余りにも彼女らしかった。不機嫌にも見えるあの無表情で打っている所が、安易に想像できた。


 体を反転させてベッドで仰向けになり、ぼんやりと天井を見上げる。携帯のライトが薄らぼんやりと天井を照らして、影がより濃く見えた。


 ――レイカさんって、何の仕事をしているんだろう。


 あんなに絵を描いているから、やっぱり画家なのだろうか。それとも、デザイン関係とか。お洒落な人だから、ファッション関係の仕事でも違和感はない。大学生の私には、社会人がどの程度許され、どのように一日を過ごすかなんて事は全く想像がつかなかった。


 夕方から夜にかけて、週に何度も喫茶店を訪れる若い女。時折匂い立つ程飲酒して、女子大学生を自宅に連れて帰る。


 考えると、余りにも字面が悪くて鼻で笑ってしまう。

 次に泊まる日は、絵を描いている所を見せてくれるだろうか。

次があると、当たり前に考えていることが不思議だった。


 母に対する言い訳は、翌朝になっても思いつかなかった。

 身支度を済ませ、朝食の為にリビングに降りると、父は既に出勤した後だった。母は無言でドリップしたコーヒーを飲んでおり、私が下りていくとこちらを気まずそうに見た。


「……おはよう」

「おはよう。……絢音、泊まったのは、その、本当に女の人の所なのね」

「うん」


 短く即答すると、母はグッと拳を握り締めて眉を寄せ、ややあって渋々と言った様子で頷いた。


「わかった。お母さん、絢音を信じるから。……でも、次からメールくらいはしてちょうだい」

「はい。……お母さん、心配かけてごめんなさい」

「次からちゃんとしてくれれば、いいわ」


 どこか肩の荷が降りたようにそう言って、母はため息を吐いた。意外にも母がすんなりと納得してくれたことに驚いて、私は暫くぽかんとしたままで母を見ていた。昨日との落差はなんだろう。父はどんな風に母を納得させたのだろう。

 ぼんやりとした私の顔を見て、母は眉根を寄せて「コーヒーは?」と訊いた。


「えっと、飲む」

「コーヒーくらい自分で淹れなさい。全く。……インスタントの方が楽かもしれないけど、やっぱりこれが美味しいのよね。インスタントじゃ飲んだ気がしないし。もっと楽に淹れられたら、いいのだけど」


 愚痴なのか独り言なのかよくわからない事を言いながらも、母は結局私にコーヒーを淹れてくれた。湯気の立つコーヒーと少し冷めた朝食を口に運ぶ。

拍子抜けする程、いつも通りの朝の光景だった。

  

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