第66話

 スコープを覗くと、そこに剛史の姿がなかった。

 あれほど死を望んでいたのに、隠れたのだろうか? それとも、彼の首をナイフで裂かなければならないのだろうか?……しばらく書斎の窓を見ていたが、剛史が姿を現すことはなかった。

 弾丸が肝臓を傷つけたのかもしれない。それなら出血多量で死ぬ。心臓や頭を撃たれた時よりずっと長い苦しみが続く悲惨な死に方だ。……彼が血の海でもがき苦しむ姿が脳裏に浮かんだ。

「私のヘタクソ。……なんてひどい妻だ……」

 華恋は声にしてもがいた。いつの間にか頰が濡れていた。傷口から流れる血液のように悲しみがあふれ、その流れにのまれて溺れた。

 ライフル銃を抱いて泣いた。泣いて、泣いて、泣いた。

 涙が枯れて立ち上がったのは、太陽が真南に達したころだった。ミズ・クリスタルという呼称は返上しよう。そう考えながら落ちていた薬きょうを拾った。

 非常階段を下りる。侵入を阻止する鉄柵は、内側からは簡単に開けることができた。パチンコ店を出入りする客とすれちがう。十蔵と出会ったりしないように、急ぎ足で店の前を通り過ぎた。電気量販店の宣伝音楽の陽気さが恨めしい。

 雑音に背中を押されてコインパーキングまで歩き、隠れるように車に乗った。家まではたった五分の距離だったけれど、一時間もハンドルを握っていたような感覚があった。その間、家に帰ってから見る景色を思うと胸が張り裂けそうだった。

 自宅に警察車両はなかった。まだ、遺体は発見されていないのだろう。

 車を降りて二階の窓を見上げる。ガラス窓は割れたままだった。……うまく殺害計画が進んでいる。いや、計画以上だ。そう考えると気が緩み、背中が汗で濡れているのに気づいた。寒いのに、汗をかくなんて不可解だ。

 家に入るとテレビの音と台所で動く人の気配があった。母が昼食の準備をしているのだろう。彼女が食事を運び、剛史の遺体を発見することにならなくてよかったと思う。母が見つけたら、ひどいショックを受けただろうから……。

 息をひそめ、そっと階段を上った。書斎のドアの前で一度足を止め、覚悟を決めてからドアノブを回した。

「どういうこと……?」目の当たりにした現実を受け入れることができなかった。

 書斎にあるはずの遺体が幻のように消えていた。彼が立っていた場所に血だまりはなく、床に散っているはずの窓ガラスや壊れた電気スタンドもなかった。ただ、割れた窓から冷気が吹き込み、抵抗するようにエアコンが唸りを上げていた。

「早かったね」

 背後から剛史の声がして、全身の血が引いた。

「どうしたの、幽霊でも見たような顔をして?……ガラスが割れてね。今、片付けていたところだよ。お義母さんには心配をかけてしまった」

 彼は何事もなかったような穏やかな表情をしていた。シャツに赤黒い大きなシミができていた。

 撃たれたことに気づいていないのだろうか?……華恋は彼の態度を半信半疑で受け止めた。

「……大丈夫? 血が出ているわよ」

「ああ、撃たれたらしい」

 彼は撃たれたことを認識していた。

「そんな……」

 私が撃ったと、分かっているのだろうか?……かける言葉を探した。

「僕なら大丈夫。割れた電球の破片が刺さっただけさ」

 彼がシャツをめくる。大きな絆創膏が三枚も張られていた。表面まで血がにじんでいる。

「まだ、少し痛むけどね。弾は、たぶん、あそこさ」

 彼が指したのは、本棚の前の床にあるゴルド紛争の関連資料の山だった。その一番上に、弾丸で穴の生じた本があった。彼の小説が載った〝文学世界〟だった。

「電気スタンドに当たってから、本を撃ち落としたんだ。おかげで目が覚めた。久能久門は死んだ。……すべて華恋のお陰だ」

「それって……」

 私が撃ったことを知っている? 撃たれて感謝する人がいる? まだ物語の中から抜け出せないでいる?……頭の隅をブッシュ・カレンが過る。彼女が体内の血液をどこかに持ち去ったようだ。スーと全身から血が引くのが分かった。

 汚れた地球儀が足に触れ、カラカラと音をたてて転がる。

 よろめくと剛史に支えられ、いつも彼が横になるソファーに座らせられた。スプリングがギシギシ鳴いた。

 彼は、ぎこちなく上体を曲げて地球儀を元に戻すと〝文学世界〟を拾い上げ、穴が見えるように本棚に立てかけた。弾丸は貫通していてそこにはなかった。その本が立てかけてあった場所にも、弾丸の痕跡はない。

 弾は何処にいったのかしら?……貧血の頭で考えた。ブラックホールか異次元の穴にでも吸い込まれたのかしら?……頭がくらくらする。

 剛史は華恋の不安に気づかないようだった。

「僕を撃ったのはミラージュだ……」

 彼が断言し、華恋はうろたえる。

「……僕は狂っていたんだ。ミラージュに憑りつかれたいた。それも、今の一発でどこかへ消えた。いろいろな人間の中を彷徨ってきたけど、今の僕は僕だ」

 彼が言うのは、肇が言ったことと同じだった。頭の中で芽吹いた様々なキャラクターが溶けて剛史そのものに統合したのだろう。とはいえ、あれほどの精神的混乱が、短時間で解消するものだろうか?

「小説が書きあがったのね?」

「ああ、すべては一発の弾丸に凝縮された」

「ブッシュ・カレンは……?」

「それはミラージュの分身さ。僕の想像上の人物だよ。モデルは君だけどね」

「私が人殺し、……猟をするから?」

「いいや。君は狂った僕を殺したんだ」

「……え?」

 ズン……、心臓が握りつぶされるような痛みを覚えた。

「それで僕は生き返った」

 彼の話は論理的ではなかった。とはいえ、ドクン、と心臓が鳴って華恋は解放された。

「信じていいのね?」

「ああ。原稿を読んだんだろう? 結果は知っているはずだ」

「え?」

「君がファイルのコピーを取ったのに、今朝、気づいた。コピーを取ると履歴が残るんだよ」

「そうなんだ。……ごめんなさい」

「いや、僕が悪かったのさ。君が好まないものを書いた」

「でも……」

 彼の顔をじっと見つめ、その裏にあるものを捜した。瞳の奥に命に対する執着があるような気がする。確証はない。だけど今は、その光を信じよう。

「タイトルは?……原稿にはタイトルがなかった」

「タイトルは〝運命のミラージュ〟だよ。君はカレンで、僕のミラージュだ。もう、僕の小説の中では誰も死なない」

 彼が微笑んだ。

 ――おかえりなさい――

 そう言おうとした。お洒落なフランス映画のように……。でも声にならなかった。代わりにブワッと涙があふれた。今日は何度泣けばいいのだろう。二十年分も泣いた気がする。

「僕のために泣かないでくれ。君はミズ・クリスタルだ」

 肩を強く抱きしめられた。左右に首を振る。

「私は三村華恋よ」

「そうか……。そうだったね」

 その声は、何かを悟った者の深みを帯びていた。一流俳優のセクシーなそれでもあった。

「どうしてそんなに落ち着いていられるの?……もう少しで死ぬところだったのよ」

「すべて、僕が望んだことさ」

 彼は平然と応じ、優しく微笑んだ。華恋の頭を両手ではさみ、顔を近づける。そうして唇を重ねた。三年ぶりか、五年ぶりか、それさえ分からない。懐かしいキスだった。

 本当は狂っているのかもしれない。剛史も私も。……彼の股間に触れた。彼は避けなかった。

 ――ターン――脳内で銃声が鳴る。

「おーい、大変だぞ。ニュースを視てみろ」

 階下から十蔵の声がした。

 もう、いいところだったのに。……「どうしたのよ?」声が尖っていた。

「伊賀国家公安委員長が撃たれたらしいぞ。日本は安全なはずなのに、どうなっているんだろうなぁ……」

 十蔵の声が階下から這い上がってきた。

「まさかオリガ……? 裏切った国家公安委員長を……」

 金髪の美女の顔が脳裏を過り、ゴクンとのどが鳴った。焼けた弾丸が落ちて行くような熱い感触があった。

「華恋が撃った弾が届いたのさ」

 剛史が真顔で言った。実際、そんな気がしてゾッとした。異次元を通じて弾丸が届いたのかもしれない。

「ヤメテ……」

「冗談さ。僕の小説が現実になったんだ。カレンを撃った後、新しい国家公安委員長を殺した。ミラージュは裏切りを許さない」

 その声は自信に満ちていた。

「本気で言っている?」

 不安を覚えて彼の顔を見上げる。その瞳に狂気はなかった。

「冗談さ。僕は預言者じゃない」

「そうよ。久能久門でもない」

「それじゃ、なんだ?」

「普通の小説家よ。人気作家なんて一握りだもの」

「普通の小説家か。……それもそうだ」

 華恋を抱きしめる腕に力がこもる。

「今頃、ミラージュはどうしているのだろう?」

「彼女はセルゲイと一緒よ。心配いらないわ」

「そうか、……そうだね」

 二人は再び唇を重ねた。

 おかえり。私の大切な人。……が狂っているような気がした。それは自分か、彼か、か……。

「愛してる」彼がぎこちなく言った。

 狂っていてもいい。私も一緒に狂えば……。「私もアイシテル」……愛は狂気だ。クリスタルは溶解し、華恋は剛史を包み込むようにしてひとつになった。そこには未来に対する打算的な不安も、不倫による切り裂くような痛みもなかった。

 割れた窓から真冬の冷たい風が吹き込む。それでも、二人が離れることはなかった。まして蜃気楼のように消えることもない。二人はこの世界に実体のある核心だった。

                                (了)

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運命のミラージュ ――夫の殺害依頼―― 明日乃たまご @tamago-asuno

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