第65話
太陽は律儀で決まった時刻に昇り、暗闇の中から現れた街が輝きを増していく。大地を覆う素材の多くは二階建ての住宅で、大通りの周囲にだけ低層のビルがキノコのように頭を伸ばしていた。
どうして剛史は、衰退する地方都市の景色を東京の一部として書いたのだろう? それだけでも物語が嘘くさく感じるではないか。……脈絡のない疑問が浮かんだ。
――グォン――
エアコンの室外機が動き出す。ほどなくパチンコ店の賑やかなマーチが流れ出した。音量が大きくなったり小さくなったりを繰り返すのは、人の出入りがある証拠だ。
風が強ければ狙撃は諦めただろう。しかし、運命の悪戯か、あるいはそれこそが運命なのか、風は穏やかになっていた。
周囲を窺う。凍える屋上に他人の姿はなかった。決意して貯水槽の北側に移動し、ライフル銃を取り出す。スコープ越しに覗く自宅は初めて見る他人の家のようだった。
こんな遠くから命中させることができるだろうか? 自分はミラージュでもブッシュ・カレンでもない。でも、やるしかない。それが、剛史が創造した物語だからだ。
狙撃が成功すれば、自分は殺人犯として、夫は自分の死を予言した小説家として、名前を歴史に刻むだろう。
「久能久門、
スコープの中に見えるのは、パソコンに向かう剛史の姿だった。推敲作業に集中しているのがよくわかる。鹿が草木を貪るようだ。
自分も集中しよう。そう思いながらボルトハンドルを引いた。それが普段よりとても重たく硬い。――ガキッ――その音は自分の頭蓋骨に釘を刺したようだった。スコープの焦点を剛史の頭にあわせると、涙があふれて視界が曇った。
やっぱり撃てない。……天を仰いだ。
「私には無理よ」
青い空を飛行機雲が切り裂いていた。パチンコ店のマーチは家電量販店の宣伝音楽にのまれ、地上の雑音はエアコンの室外機の耳障りな駆動音に圧倒されている。
――ピロピロン――
メールの着信音だった。用意周到のつもりだったけれど緊張が過ぎたのか、スマホの電源を切るのを忘れていた。
私って間抜けだ。……自分を笑った。深刻な緊張が解けていた。剛史を撃つのは止めようと思った。
ポケットからスマホを出してメールを確認する。
【久能久門は生きているぞ。お前は偽物なのか? それとも、標的が見えないのか? プロならプロらしい仕事をすべきではないのか?】
催促のメールは、スナイパーを挑発、いや、叱責するものだった。
「また、こんなメールを送って……」
剛史が哀れだった。同時に、彼が手の届かない異次元にいるような気がした。彼が自分やミズ・クリスタルを透明な存在だと感じているように……。
ふと、一つの仮説が浮かんで驚愕した。……ブッシュ・カレンの殺した久能久門が武史なら、彼女が撃った公安部の刑事は遊神肇なのかもしれない。二人は彼にとって邪魔な警察官、存在だ。
変えられない過去と現実の間で悶え苦しんだ剛史は、本当に狂ってしまったのだろう。そうしたのは私の罪だ。ならば、償うのは自分しかいない。
歴史に名前を刻むためではない。剛史を絶望の淵から救おう。……決意すると涙を拭ってスコープを覗いた。
「エッ!」
見えたものに驚いた。スコープの奥では、剛史が磔にされたように両腕を広げていた。真剣な眼差しをこちらに向けて、口をパクパクさせている。唇の動きから読めたのは「……撃て」という一言だけだった。
自分を撃ち抜けと言っているのだ。
もう、彼を失望させたくなかった。
「私が楽にしてあげるわ」
決意して息を深く吸った。精神を集中する。スコープの向こうにいるのは剛史ではなかった。久能久門だ。
――ターン――
引き金を引いた感触はなかった。が、火薬の臭いと炸裂音は、華恋が引き金を引いた事実を証明していた。
撃ってしまった……。
息苦しかった。心臓が、あの日の鹿のようにバクバクしていた。背中を丸めて必死に空気を吸った。
ミラージュなら、すぐさま狙撃現場から離脱するところだ。けれど、華恋にはできなかった。頭の中で銃声が繰り返し鳴っていた。それにあわせて、必死に息を吸っていた。
サイレンサーのないライフル銃の発射音は必ず誰かの耳に届いている。それを聞いた誰かは、警察に通報するか、あるいは自動車のタイヤの破裂音と誤解するだろう。
落ち着きを取り戻して考えた。そうして思い至ったのは、街中で発砲したことへの恐怖だった。剛史以外の誰かを傷つけたりしていないだろうか?……それを確認するためにスコープを覗いた。
窓ガラスは砕け散り、机の上の電気スタンドが壊れて室内を暗くしていた。剛史は目を丸くして脇腹を押さえていた。その指の隙間から赤いものが滲みだしている。
中った?……いや、頭も心臓も外した。
自分がミラージュでもブッシュ・カレンでもないことを強く自覚した。九百メートルも距離のある狙撃を成功させるなど、小説のように簡単ではない。そんなことは分かっていたはずだった。
貯水槽の下部から後ろを窺う。相変わらず家電量販店の音楽が鳴っていて、車が行きかう音もいつもと同じだった。非常階段から人が現れる気配もない。世間の人々は、銃声にさえ無関心らしい。……ホッとした。
「今度こそ……」
ボルトハンドルを引く。新しい弾丸が薬室に装填され、吐き出された空の薬きょうが床でカラカラ鳴った。
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