第64話
彼の物語を読み終えたのは、原稿を手に入れた翌日だった。
――……ブッシュ・カレンに頭を撃ち抜かれて久能久門は死んだ。彼の血を得たテーブルクロスが、明かりを求める蛾のように夜の街へ飛んでいく。それで仕事は終わったかに見えたが、カレンは刺すような殺気を感じた。素早く殺気のする方角に銃口を向けた。ホテル・ミラージュの屋上だった。
「エッ!」
スコープに映ったのは、自分を狙うオリガの姿だった。
どうしてミラージュが私を狙う?……答えを探す時間はなかった。カレンは躊躇わずにトリガーを引く。それと同時に、オリガの銃口が光るのを見た――
そこで物語は終わっていた。どちらが生き残ったのか、あるいは二人とも死んだのか、それとも二つの弾丸が空中で激突し、二人とも生き残ったのか、それは読者の想像に任せるというのだろう。あるいは、これから書き加えられるのかもしれない。
オリガが蜃気楼ならカレンが実態。ならば、最後に残るのはカレン、……私か?……華恋は頭部に殴られたような痛みを覚えた。
カレンとオリガの生死はともかく、間違いなく小説家、久能久門は死んだ。そして久能久門と一体化した剛史の魂も死んだのだ。華恋はそう希望を抱いていた。
〖久能久門は、すでに死んだ〗
殺害を催促する剛史に、彼自身が書いた物語に沿った返事を送った。
【久能久門は、まだ生きている。昨日も今日も、いつものように物語を紡いでいる。早く殺せ。物語を終わらせろ】
結果は華恋が期待したものと違っていた。
「狂っている……」返信を読んだ唇から、そんな言葉が力なくこぼれ落ちた。
死ななければならないのは、小説中ではなく、あくまでもリアルな世界のことのようだ。久能久門、つまり剛史自身なのだ。理由はわからないけれど、小説を書き続ける自分から解放されたいのかもしれない。それとも、リアルな私から?
軽トラックが激しく弾んだ。頭を上げると冬には珍しいモコモコした羊雲が空を埋めているのに気づいた。
いつの間に空の景色が変わったのだろう?
空の羊の一頭一頭が、次から次へと描かれる物語のようだ。同じ姿をしながら別々の顔をしている。それを不断に創造し続ける作業はマンネリ化したルーティンなのか、苦悩なのか、……想像もできなかった。
肇の言葉を信じれば、作品が世間に認められない苦悩がそれなのかもしれない。いずれにしても、羊雲を描く作業から解放されるのは命が絶える時だけれど、それは剛史に限らない。生きているなら誰だって同じはずだ。私だって……。
久能久門の殺害を先延ばしにする日々は、華恋と十蔵が狩りに出る日々でもあった。寒さが厳しくなるほど華恋のライフルの腕前は上達し、小さな雉や兎まで一発で仕留めることができるようになった。……生き物の死はとても身近だった。
死ぬことでしか実感できない人生があるなら、殺してあげるべきだろうか?……華恋は獲物を追って山野をさまよいながら剛史を想い、時に迷った。
そして決断した。クリスマスが間近だった。
――間違っても殺しちゃいけないよ――
肇の声が脳裏を過った。あれから彼は度々メールをよこす。華恋を思いやり、剛史との決別を促すメールだ。そこに彼の愛情とエゴを感じた。
その日、華恋は全ての問題に決着をつけると決めていた。出かける前に、いつものように書斎のドアをたたいた。室内は暖房が効いていて、剛史はすでにパソコンの前に座っていた。いつ寝ているのか、華恋には見当もつかない。
「今日も狩りなんだね。風邪をひかないように、暖かくして行くんだよ」
優しい言葉に動揺した。
「う、うん。大丈夫よ」
「ああ、それから時々スマホの電源を落としているだろう。連絡が取れないと心配だ。切らないでくれるかい」
彼がくるりと椅子を回転させた。今も彼は妻の不倫を、あるいは風俗で働いているのでは、と疑っているのだろう。早朝からの不倫とか、ありえないだろうに……。
「ごめんなさい。狩りの時は獲物に逃げられると困るから」
「そうか、……そうだよね。それなら仕方がないな」
彼は理解のある夫を演じていた。
「お義父さんも一緒なんだろう?」
「今日は私一人よ。狙うのは小物だから。それより、小説の推敲は順調なの?」
無理やり話を変えた。
一瞬、彼の顔がゆがんだ。
「ああ、今日にも終わると思う」
「よかったわね。終わったらゆっくり休んで」
小説を書き終えたら、夫が変わるかもしれない。それなら計画を変えないといけない。……希望が見えると、決意が揺らいだ。
「いや、すぐに次の作品にとりかかるつもりだ。何分、後が仕えている」
それは人気作家の発言のようだった。
脳裏を羊雲が流れる。……だめだ。変わらない。彼は人気作家のつもりなのだ。……芽生えたばかりの希望が砕けた。
ライフル銃を担ぎ、マフラーと鹿皮の手袋を持って外に出た。朝はまだ薄暗く、空気は頰に冷たかった。車に乗る前に二階の窓を見上げた。電気スタンドの灯りがガラスに映っていた。
車を走らせたのは五分ほど。コインパーキングにそれを停め、荷物を降ろした。小説にあわせて用意したハーフ用のゴルフクラブケースだ。
早朝の通りには職場に向かう自家用車が多かったが、歩行者はなかった。半分ほどの車はヘッドライトを点灯させている。華恋は鼻まで隠れるようにマフラーを巻き、ダウンジャケットのフードをかぶって歩道を西に向かって歩いた。
大きな家電量販店の道向かいに目星をつけていた雑居ビルがあった。正確には、剛史が小説を書くために選んだ場所だ。高校生の頃、そこの一階は書店と玩具屋だったが、今は人気のパチンコ店になっていた。狩猟のない時期は十蔵も通っている。その上にはカラオケ店や居酒屋が入っていた。
華恋は非常階段に続く鉄柵を乗り越え、足音を立てないように細心の注意をはらって上った。
早朝の屋上は、木枯らしが吹く河原のようだった。思ったより風が強く冷え込んでいる。この風の中で、九百メートル先の人間を撃つことは不可能に思われた。
私ならできる。……自分に言い聞かせ、止まっているエアコンの室外機の陰に隠れて時が来るのを待つことにした。通りを走る車のエンジン音は心臓の鼓動のように規則正しく聞こえたが、時折走るバスやトラックのディーゼルエンジン音は不整脈のようにリズムを乱した。風もそうしたものだ。同じ自然でも、地球の自転と違って気まぐれだ。
華恋の身体は熱を失っていた。
内戦を戦い抜いたミラージュに比べればこのくらいなんだ!……自分を鼓舞する。使い捨てカイロをもんで指先が凍えるのを防いだ。
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