第63話

 ホテル・ミラージュから戻った翌日、剛史が風呂に入っている隙に彼の書斎にこっそり入った。エアコンが唸る鈍い音が、ドアの開閉する音をかき消してくれた。

 泥棒はこんな気持ちで他人の家に侵入するのだろうか?……ドキドキする胸を押さえた。

 室内は雑然としていた。そこは彼の城で、掃除は彼自身がすることになっていた。原稿や資料を見られるのをひどく嫌っていたのだ。

 壁一面に並んだ書籍も雑然としていた。書棚の前の床にはゴルド紛争に関する書籍や資料がうず高く積まれ、今にも崩れ落ちそうだった。床に転がっている古い地球儀は、忘れられた玩具のようだ。脱いだシャツが椅子や資料の上に散らかっている。汚れものは、彼が気の向いたときに洗濯に出してくるのだ。

 パソコンのディスプレーは電源が入っているのに黒かった。心療内科名の入ったクスリの袋があった。まだ、中身が残っている。

 マウスに触れるとディスプレーに映像が戻った。急いでメールをのぞいた。そんなことをするのは、結婚して以来、初めてだった。メールソフトのアドレス帳の自分の氏名は、カレンとカタカナで登録されていた。そのパソコンから久能久門を殺す依頼が来ているのは間違いなかった。

「原稿はワープロソフトの拡張子のやつよね」

 最近使ったファイルを確認すると、ワープロソフトの拡張子がついた〝ミラージュ〟というファイルが簡単に見つかった。それをメモリーカードにコピーして、急いで書斎を抜け出した。

「ヨシ……」自分のスマホにメモリーカードのデータを移してファイルを開く。その小説には、まだタイトルがなかった。推敲中なのだろう。あちらこちらに赤い文字が書き加えられていた。

 原稿は、数人の登場人物の視点で語られる読み難いものだった。最初に登場するのが、おそらくミラージュだ。それは男女一組のスナイパーで、ゴルド紛争で両親を失った孤児だ。彼らは一方の勢力に取り込まれ、両親を奪った暴力の先兵になった。人眼を避けて闇に潜み、盗んだ食料を食べて泥水をすすり、敵を殺し続けた。そうした想像をすることが剛史の繊細な神経に与えた影響は小さくないだろう。ともすれば、目尻が濡れた。

 ――泣くな、ミズ・クリスタル――

 原稿の文字に目を向け、そう自分を励ました。嫌悪する暴力に怯えたり憤ったりしたからではなく、執筆する夫の気持ちを思うと自然にそうなった。

 小説の中でミラージュが国家公安委員長を撃ち殺したのは、剛史を排除した会社や社会に対する復讐だったのだろう。そして抑圧された剛史の姿を、誤認逮捕された反新自由主義者の中に見た。きっと彼は若い警備員のように、素直に世の中に反発したかったのだ。警備員が政治家の不倫の証拠をダウンロードしたUSBメモリーには、久能久門が、いや、夫が書いた物語が記録されていたのに違いない。そう妄想した。

 リアルな世界で商社マンだった剛史は、ホテル・ミラージュで政治家や有力経済人の接待を行っていたのだろう。宿泊者名簿に剛史の名前が残っていなかったことは理解できなかったが、肇がだまされた可能性もあるだろう、と一流ホテルのガードの硬さを推理した。

 波野志戸、それが商社マン時代の夫だったのかもしれない。殺された刑事は、剛史の正義感の象徴か?

 衝撃を受けたのは、その刑事と久能久門を殺したのが自分と同じ名前を持つブッシュ・カレンだったことだ。

 剛史は私を恐れているのだろうか? 結婚したことを後悔しているのだろうか?……小説の中の複雑な人間模様に、彼の混乱と絶望が重なった。


 華恋の思索を十蔵の声が遮った。

「車の中でそんなものをよく読めるな。酔わないのか?」

 道は山を下る悪路で、軽トラックは上下左右に大きく揺れていた。ハンドルを握る十蔵は前傾姿勢で目は真剣だった。路面の起伏に合わせて巧みにハンドルを切っていた。

 ――電子スコープに映るのは、壁面を書籍が埋めた書斎だった――

 華恋はタイトルのない冒頭の一行をぼんやり見ていただけだった。それは夫の書斎のことに違いない。

「酔うかもね」

 頭を上げると青い空の中で樹木の枝が渦巻いているように見えた。

「お父さん、自殺とかって考えたことある?」

「ない」

 十蔵が即答した。

「でしょうね。お父さんって、シンプルだもの」

「人を馬鹿みたいに言うな」

「そうじゃないのよ。シンプルに考えても、複雑に考えても、人生は一つだと思ったのよ」

「その通りだ」

 十蔵がカラカラ笑う。車が道のへこみに落ちて大きく揺れた。車体が地面に触れてゴン、と大きな音がした。「イデッ」彼が舌をかんだ。

「例えばだけど……」

「ん?」

「希望がかなわなくて悩みながら長生きするのと、希望がかなって早く死ぬのと、どっちが幸せだと思う?」

「俺なら、希望をかなえて早く死ぬほうを選ぶ」

「私やお母さんを残したままでも?」

「どのみち、俺が死ぬのが先だろう」

「なるほどねぇ」

 スマホに目を落とす。――三村君は死にたいんじゃない。生きていることを実感したいんだ。そう思わないか、ミズ・クリスタル?――肇の声が脳裏をよぎった。ベッドの中でのことだった。

 誰であろうと、いずれ死ぬ。……華恋は荷台の鹿を思った。

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