第62話

「どういうことですか?」

「彼の中に幾つかの人格があるということだろう。久能久門は、その中の一人にすぎないのだ」

 華恋が尋ねると、肇が慎重な口ぶりで応じた。

「ほかにも人格がある?……多重人格、……ドラマにあるような、解離性同一性障害ということですか?」

「精神科医じゃないから本当のところはわからないけど……。彼がまったく別な人格のようだったことはあるかい?」

「いいえ。変なのはメールだけです。私を別の誰かと勘違いしているような……。あっ、一度だけ、大金を私に預けていると言ったときも……。その時は、まったく別な人間のようでした。あれが久能久門だったのかもしれません。でも、ほんの一瞬のことでした」

「なるほど。俺と話しているときも、彼と誰かが併存しているようだった。一般的な解離性同一性障害とは違うのかもしれないな。小説のために作り出したキャラクターが、三村君のなかで自己、いや自我というべきか、それを獲得しているのかもしれない。その中の小説家が、彼自身とダブっているのだろう。……それなら、今書いている小説を書き終えたら消えてなくなるかもしれないよ。もう少し様子を見ていたらどうだい?」

 まるで子供をなだめるように言われ、少しカチンときた。

「そうでしょうか?……小説のために作り出したキャラクターが、人を殺せ、なんて言うでしょうか?」

 肇を責めたのではない。むしろ、彼の推理が当たっていてほしいと思っていた。それなら、そっとしておけばよいということだ。とはいえ、推理が外れている可能性もある。

「強い願望がそう言わせたのかもしれないよ」

「久能久門のように金持ちでありたいと?」

「どちらかといえば〝人気作家〟という部分じゃないかな。俺だって昔はそうだった。金が欲しいんじゃない。多くの人に小説家として認知されたかった」

「それじゃ、どうして早く殺してくれってメールするのでしょう? それが辛くて……」

 〖早く殺してくれ〗〖なぜ殺さない〗〖金は払ったぞ〗と毎日のように送り付けられるメールを思い出すと、不意に涙がこぼれた。

「ミズ・クリスタルじゃなかったのか?」

 肇が席を移動してハンカチを握らせた。

「昔はそうでした……」

 華恋は涙をふいた。獣を狩るようになってから、自分の中で何かが変わったと思う。

「死ぬことで文豪という形が完成するのか、あるいは、文豪でない自分自身から逃げ出そうとしているのか……。二つの動機が強化し合っているのかもしれない。……間違っても殺しちゃいけないよ」

「もちろん、そんなことしません」

〝死〟は獣のものだけでたくさんだ。

「久能久門がここで小説を書いているということは、三村君もここで小説を書いたことがあるのだろう。フロントの記録にはなかったけれど、少なくとも、実際のここを知っているのに違いない。彼は、いつ、ここに来たのだろうな。知っているかい?」

 彼はレストラン内を見回してから、華恋に視線を戻した。

「いいえ。結婚してから、彼がひとり旅に出たことはありません。まして会社を辞めてからは……。家を出ることさえ稀でした。外泊は一度もありません」

「すると、会社の出張で、ということかな?」

「出張ならあるかもしれません。私も、ホテル名までは聞いていないし。でも、会社名で部屋をおさえても、宿泊時には宿泊者の名前が求められるはずです。こんな立派なホテルなら、それを省略することはないと思うのですが……」

 田舎旅館の朧館では、【他何名】と記録することもあるけれど。……華恋は納得できなかった。

「その辺りは俺にもわからないが、……問題は三村君の心の内だ。……どうしてミラージュにこだわっているのか、原稿を見ればわかるかもしれないな」

 肇が華恋の手を握った。

 ハッとした。覚悟を決めてきたはずなのに、まだ後ろめたさに身がふるえた。

 昔から望まれると断ることができない性質だった。まして肇には夫のことで数日も時間を使わせてしまっている。一夜だけの付き合い、……それが彼が提示した、協力の条件だった。

 その夜は彼と過ごした。

「三村君と別れて、俺と一緒にならないか?」

 肇の言葉をベッドの中で聞いた。剛史も久能久門のことも忘れて彼にすがりついていた。自分でも意外だった。

 誰かと肌を重ねたのは四年ぶりだった。肉体は処女のようだったけれど、心は野性のオンナだった。


 ――ゴトン!――

 軽トラックが激しく揺れた。現実に意識が戻ると、撃ち殺した鹿の血と火薬、機械のオイルの臭いが胸の中に広がってむせた。

 記憶の中の肇の手は冷たかった。……その感触をまだ覚えている。あの時は他に頼るものがなくて握り返してしまった。あれから、夫を裏切ったことの後ろめたさから解放されることはなかった。しかし、他にどんな手段があっただろう? たとえこの身を地獄の業火に投じても、剛史を救いたかった。彼と離婚して肇と夫婦になろうなどと、これっぽちも考えていないけれど、もしそれで剛史が本来の彼に戻ることができるのなら、そうしてもいいと思っている。彼のためなら誰とだって寝てやるつもりだ。

 頭を振ってホテルでの記憶を振り払い、防寒ジャケットからスマホを取り出して電源を入れる。新しいメールがないのにホッとし、剛史の原稿を開いた。


 ホテル・ミラージュから帰った時、剛史は書斎でパソコンに向かっていた。

「ただいま」

 声をかけると彼は「お帰り」と、背中を向けたまま答えた。

 私が風俗で働いているのではないかと疑っている、と肇から聞いていたので、剛史が無関心を装うのが不思議だった。どうして、誰とどこに行っていた、と問い質さないのだろう?

「お土産があるけど……」無関心を装う彼の背中に言った。

「同級会は楽しかったのかい?」

「まあまあね」

「仕事中なんだ。土産は後にしてくれ」

 それだけで会話は終わった。その冷たさで、肇と寝た背徳感が薄らいだ。

 剛史の気持ちが分からない。……寝室で荷物を解きながら考えた。そこにメールが届いた。

【時が迫っている。早く殺してくれ】

〖何の時?〗

【僕が死ぬ時だ。それまでに、久能久門を殺すのだ】

〖残金はどうする?〗

【だからだ。欲しかったら、僕が生きているうちに殺せ】

 彼の気持ちが、いや、その彼が剛史なのか久能久門なのか、あるいは別の誰かなのか、華恋には分からなかった。

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