第16章 ミズ・クリスタル

第61話

「ゴルド紛争時にミラージュというスナイパーがいたらしい」

 三村華恋が、遊神肇の口からそう聞いたのは、ホテル・ミラージュの展望レストラン〝シャンパーニュ〟でのことだった。

 剛史の様子がおかしいので、藁にもすがる思いで頼んだ。夫に会って様子をみて欲しいと。それが一週間ほど前だった。彼はわざわざ朧館のある温泉街までやって来て、先に華恋の話を聞いてくれた。朧館で一泊すると、剛史と会ってくれた。

 翌日にでも肇の心証を聞きたかったのだけれど、その日もその次の日も父親と猟に出なければならなかった。肇も、電話では話し難い、と言った。結局、詳しい話を聞くためにホテル・ミラージュで会うことにした。そこは肇の勤務地に近かったし、何よりも、そこで仕事をしている久能久門がどんな人物なのか、自分の目で確かめたかった。夫と両親には、高校の同級会で一泊すると偽って出かけた。

「三村君は、ミラージュというスナイパーと小説家を主人公にしたものを書いているらしい。君から聞いた久能久門……、おそらくそれが、小説に出てくる小説家だろう」

 料理が出てくるのを待ちながら、そう肇が切り出した。

「久能久門は小説の登場人物だということ?……でも剛史は、久能久門はこのホテルで小説を書いているって言っていたのよ」

「先に着いたからフロントで確認してみた。ここで缶詰めになる小説家がいるかってね」

「教えられないって言われたんじゃない?」

 華恋は、前に電話で尋ねたことを思い出していた。その時は、言葉は丁寧だったけれど、顧客のプライバシーを理由にきっぱりと断られた。

「これがあるんだよ」

 彼は胸のポケットから警察手帳を出して見せた。

「職権乱用ですね」

 彼を非難しているのではない。ちょっとした冗談だ。

「まあ、いいじゃないか。小さなことだ。で、フロントの人間が顧客データを調べてくれたよ。結果、久能久門という宿泊客はいなかった。今も、過去にもね」

「それじゃ……」

「おそらく久能久門は三村君自身のことだ……」

 彼はそう話し始め、剛史が取り組んでいる小説の話をした。それはゴルド紛争で活躍したミラージュというスナイパーが久能久門を暗殺する物語なのだろうと……。

「……三村君と君の話から推測するに、彼はミラージュに殺されたがっているんだ」

 予想外の話だった。

「彼は、現実と小説を混同しているのでしょうか?」

 肇が首をかしげた。

「三村君の原稿を読んだわけじゃないからね。正確なところは何とも……。芥川龍之介の〝歯車〟を知っているかい?」

「いいえ、芥川は〝杜子春〟と〝羅生門〝と〝蜘蛛〟の糸ぐらいしか……」

「〝歯車〟の主人公は透明の歯車の幻覚が見えるんだ。小説の最後、彼は思うんだな。……? とね。それはどうやら芥川龍之介自身のことらしい」

「剛史がそんなふうに死にたいと言ったのですか?」

「そういうわけじゃないけどね。ただ彼は、今を戦時下のような厳しい時代だと考えているようだよ。勤めていた時のこともあるのだろう。どうやら社内政治の犠牲になったらしい」

「社内政治ですか?」

 華恋には聞きなれない言葉だった。

「ほら、会社には派閥があるだろう? 女性の世界にだって仲良しグループ同士の対立みたいなものがあるはずだ。対立するグループがあると、実力に関わらず敵対するグループのメンバーをいじめてしまう」

「それで人間不信に……」

 華恋は、剛史が勤めていたころの灰色の顔を思い出した。

「三村君はずいぶんとゴルド紛争のことを調べたようだ。俺も一応、薦められた本を読んでみた。ミラージュが生まれた国には三つの民族がいてね。それはひどい戦いだったらしい。それが社内の派閥抗争と重なるのかもしれない……」

 それから肇は、ゴルド紛争が小国内の民族対立に起因する内戦に留まらず、食糧不足による飢饉や略奪、拷問といった問題を併発したと話した。華恋を驚かせたのは、その中で名を上げたミラージュという凄腕のスナイパーが、紛争で親を失った子供だということだった。

「三村君は、ゴルド紛争を描いているうちに、会社の派閥対立といったものを思い出したのではないかな。何か、絶望的な経験をしたのだろう。死にたくなるほどの……。組織というのはつかみどころのない幻だからね。権力闘争のもとで天国と地獄、現実と虚構、白と黒の間を揺れ動いている。生真面目な三村君には辛い世界だ」

 肇は世界をミラージュに例え、剛史に対する同情を示した。

「私に久能久門を殺してくれというのは、私がミラージュというスナイパーとどこか重なるということですね?」

「どうだろう。……ミラージュというスナイパーがいたのは事実だが、君がライフルを使うからというだけで、ミラージュと重なるとは言い切れないよな」

「ミラージュは今も殺しをしているのでしょうか?」

「彼が今も殺し屋稼業をしているという証拠はないようだよ。まあ、三村君の小説はフィクションだから、実際のミラージュが紛争後にどんな暮らしをしていようと関係ないわけだが……」

「彼は、久能久門を殺してくれといってお金を振り込んできました。彼自身がその久能久門なら自殺です。やはり、心の病気ですよね?」

「芥川、太宰、三島、川端……、文豪には自殺者が多い。ある意味それは、三村君の理想なのかもしれないな」

「まさか……。文豪になるのが理想というならまだしも、自殺が理想だなんて……」

「自殺というのは文豪の象徴なのだろう。とてもユング的だ。……そういえば三村君は、というような話しをしていたな。普通なら、自分を信じられらない、と言いそうなところだったのに……。どうしてあの時、それに気づかなかったんだ……」

 彼が悔しそうに言った。

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