第60話

 肇は、剛史の立場になって想像する。……彼に対し、ある者はありのままに生きろと言い、ある者は編集者の意思を忖度しろとささやく。ある者は読者に新しい道を示すことができなければ価値がないと言うだろう。別の誰かは、その時だけ楽しめればいいのさ、と言うだろう。

「僕は、……」

 剛史の目尻に涙が浮いていた。

「いい歳をして泣くな。作家としての自分を信じたらどうだ? それとミズ・クリスタルだ。心配していたぞ」

 彼女のことは話さないつもりでいたが、つい舌が動いた。彼女のためにも彼には立ち直ってもらわなければ困る。それを自覚させたかった。

「華恋が……」

 彼が目を丸くした。

「三村君に会って話を聞いてやってほしいと言ったのはミズ・クリスタルだ。彼女、泣きそうだったぞ」

 ミズ・クリスタルという愛称には、彼女が輝いているというだけでなく、鉱物のように潤いがないという意味があった。それは涙を流さないということの他にもうひとつ、性的な意味も……。当時の彼女は奔放で、誘いを断ることがないと男子学生の中では噂されていた。そうして行われるあの行為のとき、彼女の中心はクリスタルのように乾いているらしい。剛史がそれを知っていて結婚したのかどうか、肇は知らない。

 当の肇はといえば、文香と同棲していたために、ミズ・クリスタルを誘う機会がなかった。

 剛史の目がどんよりと萎んでいく。表情から生気が消え、以前の感情のないものに戻った。

「どうした? 顔色が悪いぞ」

「ユージン先輩は、本当は華恋に会いに来たのではないですか?」

「いいや、戦友に会いに来たんだ」

「それなら、どうして……」

 彼は唇を咬んで話を止めた。まるでホチキスで唇を止めてしまったようだ。

「三村君、大丈夫か?」

「あ、ハイ……」

 彼の目の焦点が合ってないように見えた。その焦点が結ぶ場所は世界ではない。世のようだ。――誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?――芥川龍之介の〝歯車〟の最後の一文を思い出した。もし彼が逝ったら、彼が持っているものが俺のものになるだろうか?……ふと、そんなことが頭に浮かんで、やるせないものを覚えた。

「昨日、華恋と会ったのですか?」

 彼の声にドキンと胸が鳴った。

「……いいや。話したのは電話だよ。長いこと会ったことはない。久しぶりに電話があったと思ったら、三村君の話を聞いてやってくれというのでびっくりしたぞ」

 咄嗟に嘘を言った。剛史が二人の関係を怪しんでいるように感じたからだ。

「そうですか……」

 彼は日本酒を注文し、黙った。それからは苦い酒になった。


 一週間後、電車を乗り継いでホテル・ミラージュに足を運んだ。建物は駅前の便利な場所にあった。個性のない外観だったが、事前に公式サイトを確認しておいたので、駅舎を出るとすぐに壁のような巨大な建物が目的のホテルだと分かった。

「いらっしゃいませ」

 ドアマンに声を掛けられ、一瞬、戸惑った。ドアマンのいるようなホテルに入るのは初めてだった。会釈して建物に入る。大理石の床に毛足の長い絨毯、巨大なシャンデリアに煌びやかな屈折光……。そこは王宮のような贅沢な空間だった。

 フロントにはホームページで見知っていた顔が二つあった。ひとりは背が高く髪はブラウン、瞳は澄んだブルーの若者で、明らかに外国人だった。もうひとりは若い女性、典型的な日本人だ。肇は女性を選んで声を掛けた。

「すみません。予約していた遊神ですけど」

「遊神肇さまでございますね。お待ちしておりました」

 宿泊予定客を頭に入れているのだろう。彼女は何も見ず、肇のフルネームを言ってホームページと同じ爽やかな笑顔を作った。それからチェックインの手続きを始めた。

「えっと、……川野かわのさん、ちょっといいかな?」

 ネームプレートにある名前を呼んだ。

 彼女は「なんでしょうか?」と明るく応じた。

「宿泊者のことを聞きたいのです」

 警察手帳を提示すと、彼女の笑みが凍った。

「……ど、どんなご用件でしょうか?」

 そのおどおどした様子に幼い印象を受けた。

「久能久門という作家さんなんだけど、こちらに宿泊しているかな?」

 尋ねると、彼女はパソコンを操作した。

「久能様という方は宿泊されていませんが……」

「別な名前で、作家はいるかな?」

「ハァ……」

 表情を曇らせながら、彼女は再びパソコンに向かった。

「作家や小説家の方は宿泊されておりません」

 彼女は明言した。

「過去はどうでしょう? 久能久門、それと三村剛史、過去に宿泊していませんか?」

 尋ねると、再び彼女は検索し、過去にも久能久門や三村剛史といった宿泊者はいないと教えてくれた。

「あのう、個人情報になりますので、そういった質問にはお答えできかねますが……」

 突然、外国人の風貌をしたフロント係が割り込んできた。彼は警察手帳を見ても毅然と応じた。

「必要ならば、正式な書面をお持ちください」

 捜索差し押さえ令状を示唆されたことだけでなく、その流暢な日本語に驚いて、思わず胸のネームプレートに目をやった。〝渡真利とまり〟と漢字で記されていた。

「なるほど、おっしゃる通りだ」

 聞きたいことは聞いてしまったので、素直に引き下がった。

 ルームキーを手にエレベーターに乗った。フロント同様、照明器具までクリスタルで飾られた豪華なエレベーターだった。その輝きに、ミズ・クリスタルを思い出す。その夜、彼女と過ごすと思うと、天にも昇る気持ちだった。

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