第59話

「すまない。冗談だ。彼女に限ってそんなことはないだろう。それより、自分のことで、何かないのか?……誰かに厳しい評価を受けたとか、トラブルを抱えているとか?」

 肇は、本来の目的を果たすために小説のことに話を変えていった。

「そうしたことはありません。評価という意味では、僕に対する世間の評価はいつも厳しい。それで少しでも良いものを、と思って新作に挑んでいますが、難しいです」

 彼の声から感情が消えていた。

「今は、どんな作品を?」

「スナイパーと小説家の話です」

「ほう、どんな話だ? 差支えなかったら、教えてくれ」

 ビールをのどに流し込み、彼が話してくれるのを待った。

「ゴルド紛争の生き残り、ミラージュと呼ばれたスナイパーの物語です」

「実話なのか?」

「舞台はリアルですが、フィクションです。生きるか死ぬか、そんな中を生き抜いた命の輝きを描きたいと思っています」

「ふむ……、それで?」

「作中作で、作家がミラージュの物語を書いています。…‥‥スナイパーは過酷な戦場を生き抜き、安全な場所で悠々とスナイパーの物語を綴っていた作家は殺されてしまう。……その運命的な対比に面白いものが浮かんでくると思うのです。先輩もよかったら〝ゴルド紛争史〟を読んでみてください……」

 彼はゴルド紛争を生き生きと語った。

「これまでの作品とは、まったく傾向が違うんだな。読んだ作品は三村君個人の苦悩を書いた身近なものばかりだった」

「就職氷河期に挫折した青年、世話焼きで噂話の好きなおばさん、セックス依存症の政治家、感動よりも支配を好む芸術家……、自分のことを書いているという意味では同じです」

「なるほど。三村君の中では、世の中は戦争みたいなものか。……で、何と戦っているんだ?」

「僕は戦いませんよ。そんな事態になったら、さっさと逃げます。暴力は嫌いですから」

 剛史の話に一貫性がないと感じた。……やはり、病んでいるのか?

「本当の殺し合いのことじゃないよ。正直に話せ。殺したい相手がいるのだろう?」

 華恋から聞いたメールのやり取りの件に探りを入れてみた。

「エッ……」

 彼が息をのんだ。

「心配するな。殺したいと考えただけで逮捕されることはない。そんなことをしたら、巨大な刑務所がいる。……殺したい相手は、三村君を殺そうとしている人間じゃないのか? もしそうなら、俺が守ってやる。これでも警察官だ」

 剛史が眼を瞬かせ、ジョッキの結露をぬぐった。この世ではないどこかを見ているように感じる。

「安心しろ。殺したいと思うことと、実際に行動に移すことは天と地ほども隔たりがある。それに誰も三村君を殺しはしないさ」

「ぼ、僕が透明だからですか?」

 彼の口調が変わった。怯えているのに攻撃的だ。

「ん?……」透明、ミラージュ。そうした言葉にヒントがあるのかもしれない。「……存在の頼りなさ。……それが三村君のテーマかもしれないな」

 剛史がジョッキを持ち上げ、何かを押し流すようにグビグビとビールを飲んだ。

 肇は、彼のジョッキから黄色い液体が消えていく様子をじっと見ていた。その液体の中に彼の物語が溶けて消えていく。

 それから彼は、商社での経験をポツリポツリと語った。彼の経営企画室長に対する憤りは恨みにも近いものがあった。ただそれを、彼自身はうまく言葉にできなかった。心の傷が、言葉にするのを阻害しているようだ。

「苦労したんだな。しかし、会社でのことは忘れろ。記憶を消しても培われたものは三村君の核となって支えてくれるだろう。辛い経験も無駄じゃないさ。……そんなことより、小説のことだけを考えた方がいい。三村君には才能がある。だから今、実際に小説を書いていられる。作家としての君は、ゆるぎない存在だと思うぞ」

 前半は同情からくるアドバイスで、後半の半分は嫉妬で、半分は世辞だった。

「先輩に評価されるのはうれしいです」

「つまらないことを言うな。評価するのは俺でも世間でもない、三村君自身だ。戦友、……俺みたいにあきらめるな。敵前逃亡は許さないぞ……」

 そう口にしてから、心の病を持つ者には言ってはいけないことを口にしたことに気づいた。

「……いや、逃げたのは俺かぁ。三村君も逃げたっていいんだぞ」

 肇はわざとカラカラ笑った。

「そんな、……やっぱり評価するのは他人ですよ。どれだけ原稿を書いても、世に出るのは他人に認められたものだけです。次作が出せるのは、売れた作品を書いた作家だけ……。久能久門のように誰もが認められるわけではありません」

 来た! 久能久門。華恋から聞いた名前だ。……剛史の口から聞きたかった名前が飛び出し、思わず微笑みそうになるのを、懸命にこらえた。

「確かに日本は前例踏襲主義だが……。久能久門って誰だ?」

「人気作家です。知りませんか?」

「あ、ああ……」

 執筆から遠ざかっているとはいえ、世間の人並みに人気作には触れている。剛史の口から久能久門が人気作家だと聞くと、足元が揺らいだような不安を覚えた。

「多くの組織が同じはずです。実績を上げた者が、名誉、報酬、役職、権限……、そういったすべてを手に入れる。失敗したらすべてを失う。再挑戦のチャンスは滅多にない。そうならないために、組織人は先人の足跡を歩む。もし、それで失敗したら悪いのは先人、上司だから……。先人は、後輩の手によって自分の評価が下がるのを恐れ、自分と同じことをしろと言う。万が一、そうやって後輩が失敗したら、その過ちをもみ消してしまう。そうして先例通りにすることが正しいという信念が、組織人に刷り込まれていく。警察もそうした価値観で動いているはずです」

 突如、彼は人が変わったように雄弁になった。とはいえ、語っているのは彼の不安そのものだろう。

「まぁ、それはそうだが……」

 刺身のツマをいじり、醤油につける。話を自分のペースに持っていくための〝間〟だ。

「……三村君は、無人島に漂着したら誰に評価してもらうつもりだ? お前を作家だと認めるのは誰だ?」

 小皿からツマをつまみあげてシャキシャキ噛んだ。

 剛史が表情を固めた。まるで自分がかみ砕かれているとでもいうように。

「自己評価と第三者の評価にはギャップがあるものです」

「それはそうだ。問題は、どちらを優先して生きていくかということだ」

「最低限、作品が売れることは必須です」

「それが、どこにでも転がっている人気取りの作品でもか? 自分の信念と異なるものでもか?」

 剛史が首を傾けた。

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