第58話

「ミズ・クリスタルと結婚したんだろう?」

 肇は剛史の結婚指輪に視線を落とした。ミズ・クリスタルというのは、華恋の漱石会での愛称だ。彼女はメンバーではなかったが、漱石会の飲み会には必ず参加していた。いつもシャンデリアのクリスタルのようにキラキラ輝いているアイドルのような存在だった。ただ、決して手の届かないものではない。彼女は気さくで、開放的な女性だ。本気で誘えば、遊園地でもショッピングでも居酒屋にでも付き合ってくれた。そうして意気投合すれば、その先、肉体的な関係までも付き合ってくれるという評判だった。そんな彼女が結婚相手に陰気な剛史を選んだのは意外だった。

「はい。彼女が卒業したあと、すぐに」

「うまいことやったな。ミズ・クリスタル、美人のうえに、いつもニコニコしていて朗らかなのが良かった。キャンパスではモテモテだったが、まさか、君と早々に結婚するとはなぁ。誰かにとられそうで心配だったんだろう?」

 肇がミズ・クリスタルと声にするたびに、剛史の表情がわずかにひきつった。彼はおそらく、その愛称の由来を知っているのだろう。

「彼女のほうが押しかけて来たんです。どうして彼女が僕なんかを好きになったのか、分かりませんけど」

 華恋は漱石会の男子の憧れの的だった。皆、一度は声をかけたはずだ。そして何人かは結果を出した。そんな中で、剛史だけが彼女を口説かなかった。それが彼女の気持ちをつかまえた理由だとは思えないけれど、他の男性と剛史の違いではあった。

「きっと三村君の小説が好きだったんだろう。読者の気を引こうとして人を殺したり、くどくどと猥褻わいせつな描写をしたりしなかった」

「それだけですか?」

「それだけ?……そこに人格が現れている。十分じゃないか」

「人畜無害ということですね」

 彼が笑った。ひきつった笑顔だった。

「他人を傷つけないというのは、貴重な資質さ」

 肇もひきつった笑いを作った。

「先輩は、文香ふみか先輩とまだ結婚していないのですか?」

 彼が肇の左手を見ていた。

 苦々しいものを覚えながら、あえて左手の薬指を立てて見せる。大学生の当時、文香とは同棲していた。教室でも部室でも、笑うのも泣くのも一緒で、まさか別れることになるとは思っていなかった。

「俺は振られたよ」

「まさか……、どうして?」

「俺が就職したからだ」

「就職?……それはどういうことです? 就職できなかったから別れるというなら分かりますが……」

「小説家の先生にも分からないことがあるんだな」

「嫌味ですか?」

「すまない。三村君が羨ましくてなぁ……」

 正直な気持ちだった。

「羨ましい、……僕が?」

 肇はビールを飲み干し、卓上のボタンを押した。

「小説のネタに教えてやろう。俺たちがどうして同棲していたかわかるか?」

「好きあっていたからですよね」

「ああ、もちろんそれもある。が、一番大きな理由は、二人とも貧しかったからだ。一つの部屋に住めば、家賃が半分で済む。家賃が半分で済めばアルバイトをする必要がなく、それだけ小説を書く時間が作れた……」

 当時、辛かったことも、今になれば懐かしく話せた。

「……入社式の日も、文香は就職するなと言っていたんだよ……」

 焼き鳥の串を取り、時間を巻き取るように、目の前でくるくる回した。

「……あいつは俺に作家になれと言い続けた。俺には才能がある、生活は自分が支えると……」

 何のためにここに来たんだ。……目頭が熱くなる。自分を戒め、泡立つ感情を抑えた。しかし、剛史の本音を聞きだすために、自分の恥をさらすのも有りだろう。そう自分を納得させた。

「俺は、文香の収入で暮らしていくことなど考えられなかった。それじゃ、ヒモじゃないか。そうだろう?……働きながらだって小説は書ける。そう彼女に言った」

「僕もそうでした。それで一度は就職しました。結局、会社員時代は書けませんでしたが……」

「だろう。……仕事から帰ったら、もうへとへとさ。日付が変わっていることさえある。そのくせ、給料は世間並み以上で生活には困らない。転職組や派遣組の労働条件の悪さを見せつけられているから、時間のある仕事にかわろうなんて勇気も起きない」

「それで文香先輩と?」

「ああ、夢のない男は嫌いなんだとさ。霞を食って生きていくわけにもいかないだろうに……」

 彼女の泣き顔が思い出せない。しばしば言い争った当時、とても心動かされた表情だったのに。

「僕みたいに会社を辞めて、今からだって……」

 彼の話を手のひらで制した。

「いいんだ。彼女と別れてから、俺も田舎に帰って公務員になった。警察官だ。生活は不規則だが、今はそれなりに人生を楽しんでいる。そのうち結婚だってするさ。それよりお前だ。何か、悩みがあるのか?」

「え?」

 彼が目を瞬かせ、すぐに顔を伏せた。

「こうみえても俺は人相を見られる。警察官の特殊技能だ。三村君は何か悩みを抱えている。そうだろう?」

 彼は返事をしなかった。

 肇は、彼が口を開くまで、じっと待った。

「実は、……華恋が僕に隠し事をしているんです」

 彼はうつむいたまま言った。

 予想外の話だった。昨日会った彼女に、そんな様子はなかった。

「え?……具体的に話してくれないか」

「彼女に電話がつながらないことが多いのです。それに、投資をしているというのですが、損失を出しているかもしれない。もしかしたら、損失を埋めるために僕や両親に隠れて仕事をしているんじゃないかと思うんです」

「損失を埋めるために、ミズ・クリスタルが実入りのいい仕事をしているのではないか、と悩んでいるわけか。……たとえばヤバイ仕事とか……」

 殺人依頼のための手付金を用意したことは聞いていたので驚かなかった。

「やばい仕事?」

 彼には見当がつかないらしい。ミズ・クリスタルの由来を知らないのか?……それまでの確信がゆらいだ。思ったより彼は純粋無垢だったのかもしれない。

「風俗とか、殺し屋とか……」

「まさか、彼女がそんな……」

 彼が目を丸くした。

「わからないぞ。女性は二面性を持つものだ」

 自分の中で彼に対する嫉妬が爪を立てている。

 剛史の顔が歪んだまま固まった。

 自分の攻撃性に気づいていながら、彼の反応が面白くて言い過ぎた。後悔した。

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