第15章 遊神肇
第57話
――トゥルトゥルトゥル――スマホの呼び出し音が鳴り続けていた。
やはり、電話に出るつもりはないのか。……
会社を辞めた剛史は回復の兆しを見せた。小説を書くようになって、病は完治したかに見えた。ところが最近、再び状態が悪くなった。久能久門という作家を殺してくれとか、ありもしない自分の預金を華恋が盗んだのではないか、と疑っているらしい。
まるで悪霊に憑りつかれたみたい。……彼女は震えていた。
久能久門のことを聞きだしてほしい。それが彼女の相談事だった。当初、電話から彼女の声を聞いたときには小躍りしたが、相談事が彼女の夫のことだと聞いたときには心が沈んだ。
数年前、剛史が〝文学世界〟の新人賞を受賞したのは、新聞記事で知った。それから、〝文学世界〟に注目し、彼の小説が載ったものは買って読んだ。しかし、連絡は取らなかった。大学を卒業して自分は文学をあきらめたのに、同じ文学サークル〝漱石会〟の後輩が受賞してデビューしたことに、正直、嫉妬したからだ。
彼が小説を書いたのは、心を病んだからだと華恋に教えられ、嫉妬した自分に恥ずかしさを覚えた。とはいえ、文壇デビューした彼は、ある意味成功者だ。そんな男に、自分は何ができるだろう?……疑問を覚えながらも動いたのは、彼女のためだ。そこに
「人間嫌いは、知らない電話には出ないか……」
あきらめて電話を切ろうとした時、それはつながった。
『もしもし……』
臆病者が精いっぱい勇気を振り絞ったような声がした。
「戦友、元気にしているか?」
漱石会では、仲間を戦友と呼んだ。それで上下関係が消えてなくなるという理屈だ。が、それはあくまでも理屈だ。剛史から戦友と呼ばれたことはなかった。
相談したことは内緒にしてほしいと華恋に頼まれたとはいえ、元気にしているか、とは心の病を持つ彼に酷いことを言ってしまった、と胸が少し痛んだ。
『ユージン先輩!』
聞こえたのは昔を思い出させる懐かしい声だった。ユージンは、大学時代の肇のニックネームだ。名字の遊神を読み替えたものだ。
当時、漱石会のメンバーは、プロの作家を目指して精進していた。が、実際に作家になったのは、今のところ剛史だけだ。皆、四年生になると髪を切り、あるいは髭を落とし、リクルートスーツに身を包んで大人の社会に出て行った。肇も就職の道を選んだ。
「九年ぶりかな?」
『ご無沙汰して申し訳ありません』
「いや、いいさ。俺もバタバタしていた。三村君の小説は全部読んでいる。君が書き続けているのが嬉しいよ。実は、久しぶりに田舎から出てきたから会って話せたら、と思ってな。今晩、どうだ?」
『今晩ですか?』
彼の声が重くなる。断られるだろうと思った。精神を病むと、突発的な事態に対応するのが難しいと知っていた。
『分かりました。どこがいいですか?』
彼が応じたので、少しほっとした。彼の病は、華恋が案じるほどほど重くないのではないか?
二人が会ったのは卒業した大学に近い居酒屋だった。店員の多くは東南アジアの国々の若者だろう。胸のネームの文字はカタカナだ。
「こんな店になっているとはなぁ。昔は……」
肇は奥まったテーブルを選んで腰を下ろした。
「本屋でしたね。棚の半分はマンガでした」
「だな……」
二人はビールを注文し、洗練された内装をぐるりと見まわした。
「居酒屋といっても、おしゃれですね」
「ああ、俺たちがのんだくれていた居酒屋とは
すぐにビールジョッキが運ばれてくる。
「ビールは早いし、料理も安いです」
二人は乾杯し、メニューを広げて手当たり次第に注文した。
「オツクリモリアワセ、ヤキトリモリアワセ、ヤッコ、アタリメ、ホッケヒラキ、カワエビ……」
店員がたどたどしい口調で復唱する。
「早くて安いだけじゃダメなんだよ」
思わず声にしたのがいけなかった。店員は何を注文されたのか分からずポカンとしている。
「あ、悪い。とりあえずそれで」
肇は店員を返すと、剛史に目を向けた。
「ここの経営者は、あの本屋なのかな……」
肇は白髪で品のよさそうな男性を思い出していた。書店に足を運べば、五〇%の確率で彼がレジに立っているのを目にした。残りの半分、レジにいるのは肇たちが通う大学の学生アルバイトだった。
「……本が売れなくて潰れたのなら可哀そうだ。居酒屋が儲かると考えて商売替えしたのなら軽蔑する。この内装だって見た目はいいが安物だ。照明で誤魔化しているだけだ。店員だって、注文マシンとしか考えていない。だから……」
肇は、経済ばかり優先する日本人はダメだ。もっと精神的で哲学的であるべきだ、と力説した。
「ユージン先輩、相変わらず辛口ですね。大学のころを思い出します」
剛史が苦笑いを浮かべていた。とても心の病を抱えているようには見えなかった。
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