第56話

「最近はどうなの?」

 紫雨が訊いた。

 来た。……想像通りの展開に剛史はめまいを覚えた。

「ぁ、はあ、娯楽物の長編小説を書いています」

「あら、楽しみね」

「はあ……」

 華恋の顔を思い出した。彼女はドラマでも小説でも、人が死ぬことや傷つくことを嫌がる。自分は動物を殺すのに、だ。彼女を困らせないために、殺人や戦争といった残虐な事件も、陰湿ないじめやミステリーも書かずにきた。思えばそれは、配慮、いや、遠慮なのだろう。しかしここにきて限界を感じていた。【興味深い作品ではありましたが、本作の掲載は見送らせていただきます……】編集者のメールは言っていた。

 一人殺せば殺人犯だが、百万人殺せば英雄だ、と喜劇王チャップリンは人類の持つ闇を指摘した。それを剛史は、英雄崇拝は弱い自分を正当化する麻薬でありエンタメだ、と解釈した。一方の正義は他方の不正義であり、一方の喜びは他方の苦悩なのだ。犯罪は、犯した者にとっては時に正義であり歓喜だ。それは社会的生物である人間とは切っても切り離せない現象なのだ。

 今綴る作品を家族に読ませるつもりはなかった。そこでは人を殺しているからだ。ゴルド紛争をモデルに、戦争、虐殺、拷問、強姦があふれ、その展開は日本にまで及んでいる。ミラージュは日本でも人を殺した。だから、とても妻には見せられない。それを読んだら、華恋が表情を歪めるのは間違いない。

「いつごろ書きあがるの?」

 紫雨は興味津々……。剛史には、それが彼女の配慮だとわかっている。心を病んだ哀れな男を案じ、いかにも関心があると演じることで励まそうとしているのだ。

 一方、縁側に腰を下ろした十蔵は、剛史の小説など関心なさそうにライフル銃の手入れをしていた。

「まだまだです。推敲には時間がかかると思いますし……」

 熱い茶が喉を下り、妻の渋い顔が脳裏を過る。

「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す。実際、墓石以外に名を残せる人間は少ない。剛史君、慌てることはない」

 十蔵が怖い顔で言って、銃口を剛史に向けた。

「エッ!」

 剛史はのけ反った。銃口が戦艦の大砲のような巨大な空洞に見えた。そこに落ち込んだ肉体は、ミンチになって下水溝に流れていくのだろう。背筋が凍った。

「今度、息抜きに猟に行ってみないか? 面白いぞ」

 義父の声は大砲の咆哮のようだ。

「誘っていただくのは有難いのですが、僕にはちょっと……」

 意に反して薄笑いが浮かぶ。頭をペコペコ下げると、十蔵の表情が哀れむようにひきつった。

「そうか……」

 失望した十蔵が引き金を引く。ガチッと撃針が戻る鈍い音がした。

「華恋はどこですか?」

 話を変えたくて訊いた。答えは分かっているのに。

「仕事に行ったわよ」

 紫雨が応じ、茶を注ぐ。

「そうですか。お茶、ごちそうさまでした」

「もう少しゆっくりしなさいよ」

 引き留める言葉を振り切り、茶の間を後にした。


 部屋に戻って初めて、腋の下が汗でぬれているのに気づいた。無性に華恋の顔が見たくなって電話を掛けた。

『お客様がかけた……』

 お決まりのメッセージが彼女のスマホにはつながらないと告げた。それで朧館に掛けた。

『いつもありがとうございます。朧館でございます』

 見ず知らずの若い女性の声に剛史の声帯が強張る。

『もしもし?』

 女性の声が催促した。

「……あ、あのう。三村華恋をお願いします」

 やっとのことで声を絞り出した。

『三村は休みを頂いておりますが』

 意外な返事に言葉を失った。

『……もしもし、失礼ですが、どちら様ですか?』

 催促の声に困惑し、咄嗟に電話を切った。

 どういうことだ。華恋も僕を裏切ったのか?……四年前、役員に裏切られた時おなじ苦いものが胃袋の底から込みあがり、頭の中で黒い霧が渦巻いた。

 書斎の中を動物園の白熊のように行き来する。どれだけ歩いたところで、妻の行動の理由に行きつくことはなかった。が、想像ならできる。小説家なのだから……。

 華恋は僕を見限って家を出て行ったのではないか?……それはない。ここは彼女の実家だ。不倫をしているのではないか?……それはない。彼女はセックスが嫌いだ。僕が彼女の肉体を求めないから、彼女は僕を夫に選んだくらいだ。二人の間にそうしたものは長い間ない。今更、別の男を求めるはずがない。

 朧館以外の場所で、別の仕事をしているのではないか?……その可能性はある。彼女が一億円を用意できなかったのは、投資に失敗してしまったからに違いない。その損失を取り戻すには、朧館の仕事では足りないはずだ。それなら、どこで働いているのだろう?

 全てを知りたい。華恋はどこで、何をしているのだろう。でも、それを知った時、僕は辛い思いをするだろう。

 僕は耐えられるだろうか? 華恋を責めてしまわないだろうか?

「ああ、僕は知りたくない……」

 頭を抱えて呻く。それからパソコンの前に座ってメールを送った。

〖早く殺してくれ〗

 ――了解――

 頭の中で朧こと、ブッシュ・カレンが微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る