第55話

 剛史が立案した企画は、AIを利用した、ありとあらゆる事務作業を安価で請け負うという、派遣業に取って代わる、かつてない事業だった。だからこそ市場は競争相手のないブルーオーシャンで勝算があった。

 役員がゴーサインを出すと、剛史の企画を阻止しようという室長は社長の娘婿という立場を活用した。剛史の計画は机上の空論にすぎない、と社長へ直訴した。

 社長は室長の言葉を真に受ける馬鹿ではなかったが、剛史の企画を理解することもなかった。事業の成功に確信が持てず、反対も賛成もしなかった。ただぼんやりしたAIに対する不安を口にした。すると、味方だった役員たちが意見を翻した。彼らは、社長が娘婿を守ろうとしている、と解釈したのだ。

 心血を注いだ企画は無に帰した。剛史は捨てられたと感じた。彼の中で張りつめていた最後の糸が切れた。命を断とうと決めた。仕事のないこの世に未練はなかった。しかし、死ぬことはできなかった。命は妻の手ですくわれたのだ。

 会社を辞めた剛史は、妻の勧めで彼女の実家で暮らすことになった。部屋に閉じこもり、本を読み、絵を描き、音楽を聞いて心の傷を癒した。そうして一年と少し過ぎた時、書いた短編小説が小さな賞をとって〝文学世界〟に載った。剛史は希望の光を見た。妻と義父母が喜んだのが何よりも救いだった。彼らに存在が認められ、に居場所が見えた。


 ブルっと寒さで背筋が震えた。急いで窓を閉めた。轟々と唸るエアコンの音に気づく。それは剛史が意識を向けない時も動いていたのだ。まるで影のように。

「あれから三年か……」

 力なく椅子に腰をおろし、壁面を埋めた書籍に目をやった。小説、写真集、美術書、図鑑……、本の多くは会社を辞めてから目を通したもので、勤めていた時期に読んだビジネス書やAIに関する書籍や論文はすべて捨てた。いや、捨てたのか、古本屋に持ち込まれたのか、それを知るのは妻の華恋だけだ。

 自分の小説が載った〝文学世界〟を手に取りページをめくる。自分の小説は稚拙で読むに堪えなかった。本は棚に戻した。

 パソコンのマウスに触れるとディスプレーに光が蘇る。推敲中の小説の文字が並んでいた。毎日、次のステップに上るために小説を書き続けている。それは喜びであり、苦悩でもあった。どれだけの数の作品を書いただろう? どれだけ書けば、世間に認められるだろう? 狂い死んだら、世間は認めてくれるだろうか?……頭が痺れていた。のどが渇いているのに気づいた。

「撃ち殺されたいなんて考えているのに……」

 死にたい気持ちと、生きながらえようとする生理反応に矛盾を感じた。

「……ハンガーストライキをして死ぬ人は偉大だな」

 もう少し遅い時刻なら義父はパチンコにでも行っているのに……、と残念に思いながら立ち上がった。のどの渇きには抗しきれなかった。

 廊下に出ると左に進み、足音を忍ばせて階段を下りる。なにぶん妻の実家だ。居候の身では、水を飲むのも移動するのも気を使った。できることなら義父母とは顔を会わせたくない。小説は書いているのか、と訊かれるだろう。彼らは成果を望んでいる。娘婿の経済的な自立という成果を……!

 薄暗い廊下を台所に向かう。どんなに静かに体重を移動しても、古い木造家屋はギシギシいって居候の居所を家主に知らせた。

「剛史君、今起きたのか?」

 ライフル銃を手にした義父の十蔵が目の前に現れてギョッとした。彼の瞳には闇夜の猫が持つ鋭い光があった。彼が猫なら、自分は鼠だ。彼の気分次第で撃ち殺されるだろう。

 十蔵は朧館のオーナーでパチンコと狩猟が趣味だ。猪や鹿を撃ち、それを宿泊客にふるまっている。原価がただの上に、ジビエの物珍しさに客足が絶えることがなく、朧館は繁盛していた。経営は社員に任せていて、十蔵はもっぱら狩りとパチンコに専念している。

「お義父さん、脅かさないでください」

「どうして驚く?」

 お義父さんは居候の気持ちがわからないのだ!……胸の内で鼠が吠えた。

 十蔵は返事を待たずに茶の間に続く襖を開けた。廊下がパッと明るくなり、目の前の猫が虎に変わった。

 茶の間には広い縁側があって、その先には手入れの行き届いた日本庭園があった。もみじは色づき、大きな池では錦鯉が悠々と泳いでいる。

「あら、剛史さん。こちらにいらっしゃい。お茶を淹れたところなのよ」

 義母、紫雨しぐれだった。彼女は五年前まで朧館の女将をしていたが、健康を害して今はずっと家にいる。どんな病なのか、剛史は知らなかった。朧家での剛史は、居候のお荷物どころか危険な腫れ物なのだ。爆発しないように誰も難しいことは要求しない。もちろん剛史から、彼らに深く関わることもしない。

 偉いことになった。……瞬間、そう思った。喉が乾いているのでお茶は飲みたいが、義父母を前にしては気を使う。

 結局、紫雨の誘いを断ることはできなかった。鼠が借りてきた猫のようになって座卓の前に正座した。

「足を崩していいのよ」

「はぁ……」

 紫雨に言われたが、簡単なはずのそれができなかった。会社で働いていた頃にはできたことだったけれど……。

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