第52話

 カレンは目的の雑居ビルに着くと人目を避け、非常階段を上りながらお気に入りの合成樹皮の手袋をはめた。

 屋上からの見晴らしは良かった。

「まずまずね……」

 ミラージュもここから狙撃したのに違いないと思った。

 ゴルフクラブケースからライフル銃を取り出し、スコープと二脚を取り付けた。弾丸は五発装填した。

 スコープをのぞくと書籍が壁をうめた阿鼻邸の書斎が見えた。ガラスに弾丸が貫通した跡があるので間違いない。

 狙撃の成否は準備で八割が決まる。残りの一割は天候で、一割が運だ。レーザーで距離を測り、スコープを調整して入念に風を読んだ。下見もしない仕事は初めてだったから、準備は慎重に慎重を重ねた。ミラージュを真似るなら狙うのは頭部だが、持っている弾丸は貫通力の高いものだった。人間の頭などスイカ割のスイカのように撃ち砕いてしまう。威力が違い過ぎて、同じ暗殺者による狙撃事件とは受け取られないかもしれない。

「心臓にしよう」

 遺体は温存したうえで確実に命を奪うために、心臓を狙うことにした。まさか標的の刑事が、防弾チョッキを着てくるようなことはないだろう。いや、防弾チョッキを着ていたところで、カレンのライフル弾は心臓を撃ち抜く威力があった。

 準備を終えると貯水槽の影の中で時が来るのを待った。エアコンの室外機の安定した機械音は人の気配を隠してくれるだけでなく、念仏のように精神の集中を高めるのに役立った。昨日、ミラージュもここで、こうして同じ音を聞いていたのだろう。金髪の美女を思い出し、思わずにやけた。自分の実力は、彼女に勝るとも劣らないはずだ。


 約束の時刻に日陰を出て、金属製の手すりの上にライフル銃の二脚を固定した。スコープをのぞくと人影が二つ。

「あの男か……」

 スコープの向こうに四十代の目つきの鋭い男性と若い女性がいた。難しい顔をして何やら話し合っている。左目でスコープを覗きながら、右目でスマホに映した男性の顔を確認する。ミスター・iから送られてきた写真の男性は警察官の制服姿だった。

 どうやら彼は、この場所が狙撃地点だと理解したようだ。スコープの中で彼と視線が交錯した。よくあることでカレンが動揺することはなかった。

「間違いない」

 狙撃地点を見破ったあなたの知性に敬意を表する。その知性ゆえ、あなたは命を奪われる。……胸の内で話ながらスマホをポケットに戻した。ボルトハンドルを引く。カツと、弾丸が薬室に送り込まれる音がした。

 スコープの中の刑事はスマホで誰かと話していた。狙撃地点を知っても、自分が狙われるとまでは想像が及ばないのだろう。それが人間の限界なのかもしれない。

「バイバイ」

 別離の言葉を送り、世の中から彼の知性を奪う自分を呪った。

 照準は彼の心臓に合っている。ゆっくり息を吸い、ほどほどのところで止める。そうすると姿勢が安定する。

 時間が止まる瞬間がある。その時をねらって引き金を引く。そうして時間が動き出した時、標的は崩れ落ちているものだ。

 ――ターン――

 弾丸が放たれると、圧縮ガスによって次の弾が自動的に装てんされる。

「ヨッシ」

 標的の胸に赤い花が咲いた。が、彼は倒れなかった。ライフル弾を胸に受けて倒れない人間をかつて見たことがなかった。

 もう一発撃ちこまなければならないか?……人差し指を引き金に掛けた時、標的が崩れ落ち、窓枠の下に消えた。

 スコープの中にいるのは赤く染まった女性だけ。驚きのあまりに身体が動かないのだろう。しばらくしても彼女が救命措置をとることはなかった。目的を達したと判断した。

「お疲れさま」

 この世を去った彼と自分をねぎらい、装備を解いて屋上を離れた。

 来た時とルートを変えてレンタカーを停めたコインパーキングに戻った。そこから電波塔まで、二時間ほどのドライブになる。

「アー、ゆっくりお茶を飲みたい。こんなに忙しいんじゃ、サラリーマンと一緒だわ」

 ハンドルを握りながら声を上げた。


 電波塔は高さが二百メートル、その中ほどにお天気カメラが設置されている。そこが次の仕事場だ。

 鉄塔の上は見晴らしがいいけれど、四方からの視線にさらされる。上部にいるところを発見された場合、逃走経路も限定されるから仕事場としては不向きだった。ハンググライダーで逃走できるなら良いのだけれど、そんなことができるのはアニメの泥棒だけだ。

 今日そんな危険を冒すのは、派手に殺してほしいというのが依頼者の望みだからだった。経済優先のこの国では、お客様は神様だ。神様の希望を拒むわけにはいかない。……そんな風に考えるカレンは、神ではなかった。

「殺し屋稼業も商売だから仕方がないけど、客の望みをあれもこれも満たしてやるなんて、これで先進国だというのだから呆れるわ」

 先進国なら、売主と買主、取引は対等であるべきだ。そうして自虐的に笑うのはいつものことだった。

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