第51話

 翌朝、午前五時に起きるとシャワーを浴びて部屋を出た。荷物は肩に下げたゴルフクラブケースと大きなスーツケース。

 下るエレベーターに他の客はなかった。スマホに入れたプログラムを走らせる。ホテルの爆破予告を送り届けてくれるものだ。一〇%、二〇%、三〇%……、画面にプログラムの進捗状況が表示されていた。それが九〇%になった時、エレベーターのドアが開いた。降りようとして顔を上げると、目の前に男性がいて驚いた。視線がぶつかり二人は少し固まった。

「失礼」

 男性が右によけて進路を開けた。

 カレンは会釈してエレベーターを降りた。スマホに眼をやると、プログラムは一〇〇%完了していた。

 ホテルをチェックアウトした後はタクシーで移動し、ネットカフェに入った。高級ホテルとそこは客層がまったく異なる。移動の痕跡を消すのに、多少なりとも効果が期待できた。

「さて、高みの見物といきますか」

 食べ放題、飲み放題のパンとミルクで胃袋を満たし、パソコンとテレビのスイッチを入れて事件が報じられるのを待った。

 ホテル・ミラージュの爆破予告事件の報道は午前七時に始まった。それを視ながら、夕方まで何をして時間をつぶそう、と考えた。そんな時に仕事用のスマホが鳴った。ミスター・アイと呼んでいる国会議員からの電話だった。

 彼から受ける仕事は報酬が少ないけれど、事故か自殺といった形で事件が処理されるので安心だった。水は低いところに流れるけれど、貴重な情報は高いところに流れる。彼との関係を保つことで警察関係の極秘情報が利用できるのも大きなメリットだった。

『朧さんか?』

 朧はインターネット上のハンドルネームだ。

「ハロー、ミスター・i」

 仕事に使うスマホは常にボイスチェンジャーが起動している。性別や年齢を特定されないための工夫は、殺し屋稼業には必須だ。カレンは男性の口調で話した。

『朧さん。緊急の仕事がある』

「緊急?」

 ミスター・iは、その日、阿鼻邸にやって来る刑事を殺してほしいと言った。それでピンときた。ミラージュに阿鼻委員長を撃たせたのは彼なのだろう。彼はひとりの暗殺者が多くを知り、自分の脅威になることを恐れて複数の殺し屋を使い分けているのに違いない。

「ミラージュのケツは、ミラージュ自身に拭かせたらどうかな?」

『ミラージュを知っているのか?』

 電話の向こうの声がいぶかっていた。

「もちろん」

『そうか……。生憎、ミラージュとは連絡が取れなくなってしまってね。……問題は、その刑事がミラージュの存在を嗅ぎつけたのだ』

 ミラージュが消えたのは私が花火を上げたからだ。……カレンはミスター・iに同情した。僅かながら責任も感じた。

「日本の刑事が追ったところで、ミラージュが捕まる心配はないだろう。放っておいたらどうだ」

『ミラージュの情報が出回ったら、こっちが報復を受けかねない』

 その刑事がミラージュの存在を公にすることを案じているようだ。

「なるほど。それは間違いない。こうした取引は信用が大切だ。裏切りは死に値する」

『だから頼む』

 彼の声が少し震えていた。

「それにしても、今日の今日とは急すぎる。私にも予定がある。他をあたってくれるかな……」

 報酬を引き上げようといった駆引きではなかった。仕事にとって準備不足は致命的だ。失敗すれば自分の評判が下がる。暗殺は、暇つぶしにできるようなことではないのだ。

『この仕事ができるのは、朧さんしかいないのだ』

 彼はそう持ち上げて倍の報酬を払うと誘った。おまけにターゲットのほうを狙いやすい場所に誘導するという。その刑事の口からミラージュの名前が出る前に、一刻も早く消してしまいたいらしい。

「それでは事故や自殺に見せかけられないだろう?」

『いいのだ。謎の暗殺者による連続狙撃とする』

「どうしたってライフルマークが異なるぞ」

『暗殺者が複数のライフルを持っていてもおかしくないだろう。手口が同じなら、そう判断できる。ミラージュの名さえ出なければいいのだ』

「政治家は口が上手いな……」そういうことなら、とカレンは依頼を請けた。

 ほどなくスマホにターゲットの顔写真などの情報が送られてきた。それを確認してから手ごろな狙撃ポイントを探した。都会なら地図もビルの情報もインターネットにあるので探しやすい。

 阿鼻邸から一キロほど南に手ごろな雑居ビルを見つけると、トレーナーとジーンズに着替えてネットカフェを後にした。

 予約しておいたレンタカーで東京に向かう。どこにでもあるような白いミニバンだ。都内に入ると狙撃ポイントから遠いコインパーキングにレンタカーを停めた。スーツケースは車の中に置き、ゴルフクラブケースと小さな布製のトートバッグだけを持って地下鉄に乗った。

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